第3話 徳川家康視点
関白殿下が崩御してから、伏見城の空気は一変した。
殿下の威光が消えた途端、豊臣家の柱は一本折れ、
残された者たちは、己の立つ場所を探して右往左往しておる。
その中で、最も早く、最も鋭く動いたのが――石田治部であった。
治部は殿下の死を悼むより先に、
「秀頼公の御安泰のため」と称して、
金吾中納言を排除しようとした。
だが、わしにはわかっておる。
治部の本当の狙いは、金吾ではない。
――わしよ。
金吾排除は口実。
その裏で、わしを豊臣家から切り離し、
孤立させ、失脚させる算段じゃ。
治部は理で動く男。
情を捨て、計算だけで動く。
だからこそ、わしと治部は相容れぬ。
わしは狸と呼ばれようが、
人の心を見て動く。
治部は人の心を切り捨てて動く。
この違いが、いずれ天下を二つに割る。
治部の動きは早かった。
だが、それ以上に早く反応した者たちがいた。
加藤清正、黒田長政、福島正則――
尾張以来の武断派の若者たちよ。
彼らは治部の冷徹さを嫌い、
金吾を庇い、北政所様に訴え、
そしてわしのもとへも駆け込んできた。
「内府殿、金吾をお救いくだされ」
清正はそう言って頭を下げた。
わしは表向き、穏やかに笑って見せた。
「治部殿は急ぎすぎじゃ。
若い者を潰している時ではないのだ」
だが、内心では別の計算が働いていた。
――金吾中納言。
あの若者は、治部の理では測れぬ存在。
ゆえに、治部は恐れておる。
そして、わしは利用できると見ておる。
金吾は北政所様に可愛がられておる。
北政所様は豊臣家の“母”。
その信頼を得ている者は、豊臣家の内情に通じる。
さらに、金吾は清正、長政、正則ら、
豊臣子飼いの武断派と深い縁を持つ。
彼らは治部に反発しており、
わしにとっては貴重な“揺さぶりの種”じゃ。
そして何より――
金吾は小早川家の当主。
毛利家に対する牽制にもなる。
「金吾中納言は、北政所様への橋となり、
豊臣家の子飼い武将への道となり、
毛利家への睨みともなる……」
わしはそう考えながら、
金吾を呼び寄せた。
金吾は、静かに、柔らかく笑って現れた。
「内府殿、お声がけ痛み入ります」
その笑顔は、敵意も野心も感じさせぬ。
ただ、穏やかで、どこか浮世離れしておる。
わしは言葉を選びながら、金吾を励まし、慰め、助言した。
「治部殿の言は気にするな。
殿下も北政所様も、そなたを愛しておられた。
そなたは豊臣家の光よ」
金吾は静かに頷いた。
だが、その目はどこか遠くを見ておるようで、
わしの言葉がどれほど届いているのか、わからぬ。
わしはさらに踏み込んだ。
「金吾中納言、そなたは小早川家の当主。
毛利家も、豊臣家も、そなたを無視できぬ。
そなたがどちらに立つかで、天下の流れは変わる」
金吾は、少しだけ首を傾げた。
そして、あの柔らかい声で言った。
「内府殿、私はどなたにも敵意はございませぬ。
ただ、流れが向く方へ歩むだけにございます」
わしは、その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
――この若者は、何を考えておるのか。
三成のように理で動くわけでもない。
清正のように情で動くわけでもない。
わしのように計算で動くわけでもない。
ただ、流れに身を任せ、
その中で“何か”を掴もうとしている。
それが何なのか、わしには読めぬ。
味方か、敵か。
利用できるのか、できぬのか。
豊臣家に残るのか、離れるのか。
――金吾中納言。
あやつは、どうにも掴みどころがない。
だが、その掴みどころのなさこそが、
治部にとっても、わしにとっても、
最も厄介で、最も魅力的なのかもしれぬ。
金吾は、ほんに悩ましい。
わしはそう呟きながら、
治部の影が伸びる伏見の空を見上げた。
天下は、静かに、しかし確実に動き始めておる。




