37話 罪の贖い
「トーマシン卿っ!」
累々と倒れ伏す傭兵たちを跳びこえ、トーマシン卿の元へと急ぐ。
トーマシン卿は名誉と清冽は持たずとも、責務だけは携えておられる。
婦女子を守り、その身を盾になさった。
鋼ならぬ身が矢を受ければ、臙脂が滲むは摂理ではないか。
「侍医はどこだ? 早く呼んで来い!」
出血量が酷い。一刻を争う血ではないか。
それなのにアミーリアは蹲ったまま泣きぬれていた。
他者が血を流しているのに、己の流す涙に陶酔できるなど、どこまで性根が腐り爛れた女だ。
「あたし、こんなつもりじゃないのよ。本当に。どうして、こんな可哀想なことに…………」
「聞け! 立って、走って、侍医を呼べ!」
アミーリアは言い訳を口にしながらも走り去っていく。
「ジェイデン、貴様のせいだぞ」
エドマンドの若君が、後ろから罵ってきた。
「貴様のせいで我が家の弩が、贖罪物になってしまったではないか!」
若君の台詞に、俺の体温が下がる。
この期に及んで若君は、財産を案じておられるのか。
事故を起こしてしまった物は、国王陛下を通じて神に献上するのが習い。だが、今、それを気にするのか。そもそも物を罰するか人を罰するか決定するのは、検視官の役割ではないか。
俺は無言で、傍らにあったイチイの弓を握る。
振り向きざま若君の肩を打ち据えた。
無礼で結構だ。
今はトーマシン卿の怪我をどうにかせねば。
小刀を手に取り、血染めのチュニックを切り裂いた。
「最悪………」
太矢は胸のすぐ下、脾臓を射抜いている。
黒胆汁を司る臓器だ。ここが損傷すれば一気に四体液の均衡が崩れて、肉体は死に流れ込んでしまう。
もしここに麻酔薬と抜矢鉗子とペトロニラが揃っていさえば、矢じりを抜き、縫合が可能だったやもしれぬ。
だが無いのだ。
なにひとつありはしない。
トーマシン卿を痛みから遠ざけて舌を噛まぬようにする麻酔薬も、返しがある矢を抜くための抜矢鉗子も、なにより癒し手たるペトロニラも不在だ。
十年前ならばすべて城に揃っていた。猪の牙に裂かれた騎士さえ、生き延びさせた。
だが、今は一切無いのだ。
助けられる僅かな可能性にさえ縋れぬ。
「………我が主」
血染めの場に、ハムブレットが訪れた。
その丸い顔を青ざめさせて、その丸い瞳を潤ませて。
「我が主が敗北を喫すなど、そんな、あり得ません……この方はスカボローで最も剣技が冴え渡った騎士であらせられるのに…………」
「弩の事故だ。脾臓を貫いている」
ハムブレットは信じられぬとばかりに首を左右に振り、膝をついた。
「俺は司祭をお呼びする。礼拝堂にいらっしゃるはずだ」
「ありがとうございます。僕、緊急告解を承ります」
騎士の小姓として、覚悟を決めた言葉だった。
いや、腹をくくったわけでなく、主が死の淵に立ったならばこうすべしと習った行為の反復だろう。修練の賜物として出た言葉。
どちらにせよあれは致命傷。救命できぬ。
ならば魂が天へ昇る準備をせねば。
大広間のすぐ傍らに、礼拝堂がある。
蜜蝋の香りが満ちた礼拝堂へと駆けこめば、老いた司祭が祈りを捧げていた。茶髪の青年も傍らにいる。
「司祭さま、ラムウォルド司祭さま! 死に瀕している騎士がおります。どうか最期の祈りを………!」
告げた刹那、老司祭の顔つきは凛と整った。真鍮の聖油瓶を腰に下げ、ストールと祈祷書を掴む。
「どこかね」
「急を要しますのでお運びいたします。ご無礼ひらにご容赦を!」
俺は返答など待たず、小柄な老司祭を抱え上げる。
あまりにも軽い。
頼りない軽さであったが、騎士の魂が天に召されるために、司祭さまのお力添えが欠かせぬのだ。
俺は全速力で、血の海へと戻った。
すでにトーマシン卿の胸に剣が置かれている。
告解の支度は整っていた。
「まだ息があります、意識も! 早く!」
ハムブレットに促されて、老司祭はためらいもせず血塗れの床に膝をつき、ストールを肩にかける。
トーマシン卿が貴婦人の身なりであっても、何も動揺しなかった。
澄んだ眼差しで、死に瀕した騎士を見つめる。
「主よ、この者の魂をお守りください。死に瀕する者をお救いください」
ラムウォルド司祭がラテン語で祈りを捧げる。
歯を欠いていても、今がいつの御代か分からずとも、数限りなく繰り返されたラテン語は滞りなく美しく紡がれた。
トーマシン卿の瞼が動いた。僅かに睫毛を震わせ、瞳を開く。
あれほど神秘的であった紫の瞳だが、今は不思議と赤みが褪せて、灰ががった藍になっている。紫の双眸の赤々しさが、すべて血となって流れ出でたようだった。
「兄弟。罪を告白しなさい」
老司祭に促され、白褪せた唇が、震え、喘ぎ、開く。僅かに。
「…………罪。我が罪は、高貴なるお方から………聖人の加護を奪ったのだ」
トーマシン卿は荒々しい呼吸の隙間から、絞り出すように罪を告げる。
「あのお方が、このブローチを、餞別にと…………お断りするべきだった………」
銀無垢の輝き。
聖クリストフォロスのブローチだ。
旅に加護を与え、水難から人々を守る聖人。不慮の死を遂げぬように見守ってくれる聖人であった。
「ああ、どうして、受け取ってしまったのだ。このブローチを、この手に、受け取ってしまった。それが罪………この身は煉獄に落ちるとも、どうか、あのお方だけは、煉獄の炎から免れますように…………」
呼吸を使い果たす末期の叫びだ。
老司祭はトーマシン卿の額に手を翳した。許しのしるしとして。
小瓶の蓋を取り、聖油を垂らす。
祈りながら、耳に、瞼に、鼻に、口に、手に。そして足に。
「天使よ、この者を天へ迎え入れたまえ。主よ、この者を受け入れたまえ」
完璧で美しいラテン語が、祈りとなって響いた。




