38話 巡礼騎士ミシェル・ワイスマンテル
祈りに包まれ、彼の吐息は永遠に絶えた。
瞳と唇は閉ざされる。
剣を胸に抱き、白いマントは血に染まり、不思議と凄惨というより神聖だと感じる。翼を射抜かれて落ちた天使のようではないか。
ハムブレットは静かに泣いていた。ただ涙を零す。
それは蕾をつけたことのない茨でさえ花を咲かせるほどの、あるいは雨の降らない井戸にさえ満たすほどの、清らかな雫であった。
「………我が主、ミシェルさま」
涙を零しながら、ハムブレットは呟いた。
ミシェル?
「ハムブレット………? このお方の名は、トーマシン卿………ではないのか」
錯乱したかと案じたが、ハムブレットの瞳には理知が根付いていた。意思の強さも。
「ミシェルさまがトーマシンと名乗られておられたのは、巡礼ゆえです。ミシェルさまがお仕えしているスカボローの領主。ご領主の奥方さまにあたる………トーマシンさまのために」
小さなトマスは女でも男でも使う名だ。
とはいえ彼らの主君の妻の名を、どうして名乗っていたのだろう。
俺の疑問を読み取ったのか、あるいは感情が決壊したのか、ハムブレットは言葉を継ぐ。
「僕らの巡礼は、スカボローのご領主夫人のためでした」
ハムブレットは静かな語りの中、銀のブローチに触れた。
そっと聖人の輪郭をなぞる。
「あぁ、どこから委曲を尽せばよいのか。あれは、そう………四年前、ミシェルさまはスコットランド行きを、スカボローのご領主から命じられました。領地で最も腕の立つ騎士として、兵を率いて、王に仕えよと遣わされたのです」
彼もまたスコットランド帰りだったのか。
つい数か月前にスコットランドから帰した俺は、勝手な親近感が沸く。無論、逃亡農奴に過ぎぬ俺と、領主から任命された騎士とでは、雲泥の差だが。
「ご領主夫人はご自身のブローチを、ミシェルさまへ餞別に与えられました。不慮の死を遂げぬようにと」
「それは餞別にふさわしい、誉れ高くも敬虔な品だ……」
遠き戦地へ向かう騎士に授けるに、聖クリストフォロスの加護はありがたい。
「ええ、聖クリストフォロスのご加護の賜物で、ミシェルさまはいつも馬と揃って帰還されました。僕、スコットランドの砦じゃ馬の世話ばかりで、戦のお役に立てなかったけど、どんな遠征でも包囲戦でもミシェルさまは凛々しくご帰還されて、誇らしかったです」
泣きぬれた頬に、微かな微笑みが浮かぶ。
だがその微笑みは儚かった。
「ですが今年、スカボローに帰還した時、すでにご領主夫人はお亡くなりになっていました。教会へ行く途中、スコットランド人の野伏せに襲われ………追い詰められた先の川で、告解も終油も受けず亡くなったのです」
聞くだけで心臓まで冷たくなってきた。
告解も、終油もなく、死を迎えるなど。
戦場で死ぬ兵士は数限りないが、それでも出兵前には告解する。教会へと赴く最中での溺死など、なんたる悲惨さだ。
「聖人の加護をご領主夫人がお持ちだったら、溺死などしなかったと…………ミシェルさまはお嘆きになられたのです。これを受け取ってしまった己の罪だと、悔いて、嘆き、悲しみに張り裂けて、窶れられました」
本人の責ではなき不幸は、罪にはあらじ。
それでも己自身を赦せなかったのだろう。ペトロニラがこのシャルウッドベリ城の奥方さまを失った時のように。
「それで巡礼をされたのか…………」
「ええ。スカボローのご領主が巡礼を命じて、ご領主夫人の衣服や宝飾をカンタベリーへ寄進するように持たせてくださったのです」
涙絶えぬ瞳が、トーマシン卿、否やミシェル卿を見つめる。
沈黙ではあったが、誰も邪魔できぬ沈黙であった。
壁に凭れ床に伏している傭兵どもは、とうに気絶から目覚めている。
だが、あたかも詩人によって弦をつま弾かれた大広間のように、誰ひとりハムブレットの語りを遮らなかった。
「ミシェルさまもご領主夫人のため、カンタベリーを目指していたのです………必ず聖クリストフォロスを捧げ、冥福を祈ると」
大粒の涙が零れた。
「ですが、ミシェルさまは日に日に己を失ってゆかれました。最初は亡きご領主夫人の指輪、それから耳飾り。ご領主夫人の衣服をまとい、ご領主夫人みたいに髪を伸ばし、ご領主夫人のように喋り、振る舞って…………きっとトーマシンと名乗って善をすれば、ご領主夫人がおられる煉獄の刑期が短くなると思われたのでしょう」
それで破門者を捕らえようとしていたのか。
終油を受けず亡くなった貴婦人の煉獄を短くせんがため、貴婦人の名において罪を犯している破門者を拿捕しようとしていたのだ。
壮絶だ。
己の人生と血肉を使い尽くして、死者のために善行を積まれていたとは。
「僕、なにもできなかった………ご自身を失っていく我が主に…何も、何ひとつ」
壊れていく主人に付き従った忠義の小姓に、どうして罪があろうか。
項垂れるハムブレットに、しわがれた手が伸びる。
ラムウォルド司祭さまだ。
「主はあなたの忠誠を御覧になっておられる」
今までの会話を理解なさっておられるのか、それとも単なる長年の習いなのか。
外からは分からぬ。ただ年老いた司祭が若い小姓へ渡すに、相応しいお言葉だった。
「我らの救い主イエス・キリストが、あなたを赦し給うように。そしてわたしは授けられし権能において、あなたをすべての罪から赦す」
「でも、僕、僕、何もできなくて……!」
「わたしは、あなたを、ゆるす」
苦しむ羊への祈りだった。




