34話 西戎
シャルウッドベリの城に辿り着く。
周囲や前庭にあれほどいた大道芸人や行商人たちは、すべていなくなっていた。
代わりに中庭へまで入り込んでいるのは、武装した西戎の民ばかりだ。傭兵だろうか。野蛮な形に立てた髭を動かし、聞きなれないウェールズ語を交わして、荷下ろしをしている。
俺は汗だくの馬から下りた。
轍を踏んで、犬を避け、車轂の間をすり抜け、人込みを押しのけて、ひたすらまっすぐ城へと踏み込む。
門番たちは俺の姿を見知っていたのか、立ちふさがりはしなかった。
「ユーグ卿はどこにいる?」
俺の剣幕に、門番は後ずさる。
「えっ? あ、い、今なら、たぶん大広間…かも……」
大広間で朝餉が終わったころか?
武器は己の拳ひとつだが構わない。
前庭へ入れば、やたら荷馬車が多い。
その中で古めかしいイングランド語が飛んでいた。
「ニコーロ・マストロピエロはどこにおわす? 今日は犬どもが少ないようだが、ギィを連れて出かけておられるのか?」
禿げた猪首の初老の男が、古風な発音で喋っている。
頭部の毛は貧しいが、紅褐色の髭は白毛混じりとはいえ有り余っており、猪首が埋もれていた。あの髭の整え方はウェールズか。
身長は俺の肩にも届かないが、筋肉と脂肪はどっしりと骨格に乗っかっている。猪がそのまま人の姿に転じたような風貌である。
ただ片腕がない。
肘下を欠いた二の腕には小型円盾を乗せて、蜜褐色の硬化牛革の太紐で括っている。脇には鼻当て兜を挟んでいた。
腕がないからと、肩に盾を括っているのも珍しい。
「すみません。マストロピエロ殿は城におられんようです」
「マストロピエロに言われて購ってきたというに、本人不在とはふざけた御仁よ。誰に引き渡せばよいのじゃな?」
「誰も言付けを受けていない様子。誰か知るものがいないか探して参ります」
下男は身を縮ませて語っていた。
「ああ、もうよい、もうよい。致し方あるまいて。せせこましい知恵袋どのがおらんでも、ユーグ卿さえおいでならば何とでもなるじゃろ」
老人は豪快に笑っている。
周りの動揺も不安も何もかも吹き飛ばす勢いだ。
「天守塔の広間控えにでも詰めておけば、ニコーロ・マストロピエロも文句無かろうて」
堂々と采配を振るって、梱や樽を運ばせている。
俺の視線に気づいたのか、隻腕のウェールズ翁は振り向き、ずかずかとガニ股で近づいてきた。
「おぬし……メアリ殿に瓜二つじゃな」
もしやこのウェールズ翁が、母を誘拐してきたのか。
「母はどこだ!」
怒声をぶつけても、猪首を揺らして笑いで返す。
「さてはおぬしがジェイデンか? 長男坊の?」
「母は女子修道院にいたはずだ。聖域から誘拐したのか!」
「さすがにそれはキリスト教徒に対する侮辱じゃて。まずは挨拶くらいしたらどうじゃな?」
俺の剣幕など、どこ吹く風とばかりに髭を弄る。
「血縁をかどわかされて、呑気に挨拶するのがウェールズ流か?」
「左様。おぬしのご母堂が、もし身代金もつかん端女なら、双方にとって挨拶は無用の長物じゃろうな」
痛いところを突かれ、俺の舌は回らなくなった。
そしてこの隻腕のウェールズ翁は、母を一応は貴婦人として扱ったのだ。
喋る言葉も古めかしいとはいえ、流暢なイングランド語。力だけが彼の得物ではないだろう。
「メアリの息子ジェイデンだ」
「お初にお目にかかる、儂の名はカトウィグ・アプ・カスワッラウン・アプ・カドゥガン。ユーグ卿の臣という肩書き以外、なにひとつ持たぬ老い耄れじゃて」
いかにも山奥深きウェールズといった古風な名前であった。
俺の知ってるウェールズ傭兵は父名までしか言わなかったが、彼は祖父まで語った。血統に誇りがあるのか?
勝手な推理だが、おそらく名門の出自かもしれぬ。
何一つ持たぬというのは、持っていた立場からの自嘲なのだろうか。
「ご母堂はお疲れじゃ。城主の大寝室近くの小部屋でお休み頂いておる」
その言葉だけで十分だ。
俺は礼を述べて、中庭を通り抜けて、天守塔へと走る。
扉の手前に人影がひとつ。
ラムウォルド司祭さまではないか。
震えながら歩いておられた。大きなリネンの布で、大きな荷物を包んで抱えており、よけいに足取りが重そうだった。
今にも転びそうではないか。
ふらついているお身体を、咄嗟に支えた。
抱えていらっしゃるリネンは祭壇布であり、包まれているのはリモージュ焼きの香炉や燭台だ。
祭壇布を包み布に使うとは。いや、そもそも聖具を運ぶのは、聖具係や助祭の役割。これほど御歳を召された司祭さまのお役目ではない。一体、何事だ。
「司祭さま。そのお荷物は、助祭か聖具係に……」
「逃げなさい。さあ、早く。早く。西戎が攻めてきたよ」
怯えながらも、優しい声であった。
ああ、この老司祭さまは過去の夢路に生きていらっしゃる。
ウェールズに怯えていらっしゃるのだ。
とうにエドワード陛下が平定なさったというに。
むろん緊張は今なお続き、小競り合いや暴動、境界や相続に関する訴訟は数え切れぬ。辺境においては今も抵抗もあると小耳に挟んだ。
まさにエドガーの若君も紛争によって囚われの身となり、身代金の交渉中だ。
平定しても平和とは言い難い。火種はくすぶる。
それでもイングランドの城そのものが攻め入られる大規模な戦争は絶えたのだ。
「陛下が神に召されたのを機と、これほど早く攻めてくるとは何たる野蛮な民だろうね」
「なにをおっしゃられますか。陛下は御健在で………」
「信じたくはないが、ウェストミンスターで御崩御されたのだよ。いと敬虔深きヘンリー陛下よ、どうかイングランドをお守りください」
ああ、司祭さまがおられる夢路は、先代陛下の崩御の頃なのか。
荷運びしているウェールズ人たちが、あれやこれやと大声で喋っている。
司祭さまの頬も額も、もはや死んだカエルの腹のようだった。
「あの声! 西戎の声が近づいている。ああ、恐ろしい、怖ろしい。ライオネルさまは? どこにおいでだ?」
「ご安心を。あれは攻め入る声でありません。ただ荷運びの雇われです」
俺が声を張り上げた途端、老司祭の瞳が見開かれた。視力は衰えながらも眼光に衰えはない。まっすぐ俺を射抜く。
「聞きなさい、迷える子羊」
老いていても、弱々しくはあっても、呼びかけは聖なる凛々しさを含んでおられた。
長きにわたって聖域を治めた聖職の声だ。
「西戎は末子や妾腹にも相続権があってね、いつもいつも兄弟従兄弟で土地を争ってるんだよ。絶え間なく諍い争いその果てに、食い物が足りなくなればイングランドから奪うんだ。また奪略だ、奪略が始まる! 持っていかれる、あぁ!」
もはや狂乱だ。
老司祭の痛ましい過去が、ウェールズ語によって刺激されてしまったのだろうか。
もうウェールズに攻め入られたと思い込むばかりだ。
錯乱はひどくなるばかりだが、老いた肉体を無理やり抑え込んでしまえば、骨や筋がどうなるか分からん。
「子だくさんのウェールズ郷士に災いあれ! いかな聖人だろうて、子福に恵まれし郷士に天国の門は開かれぬ。千年の煉獄が約束されたに等しい!」
どう宥めるべきか戸惑っていると、茶髪の若者が勢いよく駆けてきた。
法廷館で見習いをしていた若者だ。茶色の髪や体躯が、友人のレナルドに似ていた。
切らした息を落ち着かせる間もなく、老司祭に寄り添う。
「ラムウォルド司祭さま。エドワード王太子がご帰還なされましたよ。これでイングランドは安泰です」
「殿下が……! エドワード王太子殿下がお戻りに……!」
今の陛下が王太子であらせられたころ、十字軍に参じておられた。ご領主さまのお父君も馳せ参じた戦だ。
陛下が聖地にいらっしゃる折に、先代陛下が御崩御なさった。
すべてもう三十年以上前の出来事だ。
そんな大昔の話を、茶髪の若者はつい今しがた起こったように、生き生きと語る。
「ええ。稀代の英雄たるエドワード王太子がイングランド王位に座すれば、西の蛮族とてその御稜威に膝を折るでしょう」
茶髪の若者が宥めすかす。
ラムウォルド司祭さまの狂乱は鳴りを潜め、落ち着きを取り戻したご様子だった。聖具を抱きしめている腕からこわばりが解ける。
茶髪の若者が、司祭さまから聖具を受け取った。
「さぁさぁ、司祭さま。礼拝堂に参りましょう。そして新たなるイングランド国王のために祈りましょう」
「うん、そうだねぇ。王太子殿下が戴冠なさるなら、それはそれは立派な戴冠式になるだろうねえ。私はちょうどヘンリー陛下の二度目の戴冠式に生まれてねえ、父や兄らにウエストミンスターの戴冠式の様子を、何度も何度も聞かされたものだよ。パレードには数え切れないほどの騎士が供奉していたけど、私の伯父上もその栄誉を賜ったひとりでねぇ」
満たされた赤ん坊のように微笑みながら、古い古い戴冠式を物語る。
老司祭さまの魂の平穏は保たれたようだ。
早く母の魂にも、平穏を齎さねば。
天守塔の木製階段に足をかける。
この階段を上り切ってしまえば、母と会える。
なのに、階段の上に、いた。
「殺人者がおめおめとのさばっているとはな」
「商人のおじいちゃんを殺したなら、きちんと償いましょう。罪から逃げては、あなたの魂が可哀想よ」
階段の上から揃って俺を見下ろすのは、エドマンドの若君と、赤毛のアミーリアだった。




