33話 まなこ濁らす鱗
俺は来た街道をまた戻り、シャルウッドベリの城を目指す。
青毛の駿馬に跨る修道騎士も、葦毛の乗用馬に跨るマダム・ハンザも、威風堂々としていた。
ブラザーの引き連れる従者たちは規律正しく剣を帯び、マダム・ハンザを取り囲む護衛は弓を携えている。弦はほどよき張り具合で、矢筒は矢で満たされていた。荷馬車には食糧や葡萄酒の他、梯子や矢の詰まった樽なども満ちている。城を奇襲するに足る物資だ。
城のごろつき騎士は頭数だけは揃っていたとはいえ、自堕落に酔いしれている。ブラザーとマダムの部下らが後れを取るなど考えられぬ。
護衛たちの後ろで俺は、荷物を載せた騾馬を引く。貧相な顔立ちの騾馬は、マダムの衣装だのバックラム木綿だのを積まされてている。己の身にふさわしき労働を任せられているのに、やたら不服そうな鼻息を鳴らした。よくない態度だ。
俺の斜め後ろを歩いている無骨な下女は、イングランド語もフランス語も喋れぬが騾馬語は達者のようで、俺の引く騾馬と鳴き合っていた。
そもそもマダムとブラザーの供回りは、ほぼ低地ドイツ語だから聞き取れぬ。
黙ったまま足を進める。
他愛もない雑談もなく足を進ませていると、頭を占めるのは我が子のこと。
ジャスパーは無事だろうか?
腹を空かせていないか。秋の霜に焼かれておらぬか。なにより心細くないだろうか。
先頭を進んでいたブラザー・ヴォルフガングが、蹄の歩調を緩めた。俺の横につく。
「浮かぬ様子だな。やはり安息日に動くのは抵抗があるか?」
「いえ、守るべき安息日とはいえ、王の平和のためでしたら致し方無き選択です」
「では兵力に不安が?」
「まさか。これほどの精鋭を拝して、臆することはありません。短期的な戦の趨勢を決するのは兵の練度です。ただあのヴェネツィア人を取り逃がさぬかは……」
「正直な男だ。善い」
ブラザーは相変わらず感情の読めぬ口調であった。
額面通りの褒め言葉と受け取って良いものやら。
「私たちは城に踏み込めぬ。城から容疑者を取り逃がさねばよい。悠長にするつもりはないが、州長官の援軍は欠かせない。ここはイングランドだ」
ドイツからの修道騎士と商人が、イングランドで好き勝手に動けぬのは道理だ。
「畏まりました、ブラザー」
「きみは従軍経験が豊富そうだな」
「スコットランド戦争で、十年、長弓兵として参じました」
「頼もしい」
剃刀色の眼差しは俺の手を見下ろした。指を失った手だ。
だが見ていたのは刹那で、ブラザーはすぐに視線を前に上げた。
「きみは後備えにいてくれ。もしヴェネツィア人を捕らえたら、面通しを頼みたい」
「畏まりました、ブラザー」
「ヴェネツィア人をマダムに引き渡せば、なにがなんでも北イタリア商人の関係者だと、剛腕と屁理屈で片づけかねん。彼女はシャンパーニュ大市での経済報復ができると目論んでいる。いや、目がくらんでいるのか」
同伴者に手厳しい意見である。
とはいえあの美しくも爛々とした眼差しに、ただの一粒とて狂気が含まれていなかったかと問われれば、俺は返答に窮するだろう。
「それでもマダムは、ハンザの渦中では公平寄りだ」
きっぱりと言い切られてしまったが、真実かは疑わしい。
些細な猜疑を読み取られたのか、ブラザー・ヴォルフガングは言葉を重ねた。
「ロンドン商館でも血の気の多い若者など、砒素と聞いただけで、金融街へ殴り込みをかける勢いだったからな。砒素など殺人者が署名をしていったに等しいとな」
「では北イタリア商人に濡れ衣を着せるため、あえて砒素を使ったという可能性もあるのでしょうか?」
「ありうる。商人の身内か商売敵が、年単位の計画で砒素を取り寄せたやもしれぬ。そしてイタリア人と商取引をしている最中に砒素を盛っていけば、疑いはイタリアへ注がれる」
そしてため息で言葉を切った。
「すべて憶測だがな」
それを言ってしまえば身も蓋もない。
「人間は誰しも、眼球濁らす鱗を持つ。己の望みが眼球から透けて放たれ、投影されてしまう」
瞳を濁らせる鱗。
誰しもが眼に填まった鱗に曇らされているならば、俺にも何か思い込みがあるのだろうか?
ユーグや矮躯は、サースタン・ウォーターズに砒素を盛っていない。
ならば、誰が、犯人だ。
ペトロニラが癒しの手を汚すなどあり得ぬ。
マーガレットさまの侍女であったリチェンダは?
物静かに針仕事をしていた侍女。
あの忠義の侍女が、独断で人殺しなどするだろうか。自分が手を汚せば、主が疑われてしまうのに。そもそもリチェンダが砒素をどこから用立てるのだ。
母メアリが脳裏によぎる。
だがそれも考えれぬ。母の儚くもたおやかな性質からして、傷つけられても泣いているだけだ。誰かを殺めてしまえば、母の心が耐え切れまい。
さまざまな顔が浮かんでは消え、そして最後に浮かぶのは白く美しい微笑みだった。
もし………サースタン・ウォーターズを殺したのが、マーガレットさまであったら?
悍ましい疑いが俺を支配していた。
疑いは蛇のようにとぐろまき、牙から毒を滴らせる。
毒が、波紋して、広がる。
マーガレットさまご自身が命じれば、ペトロニラが砒素を買い付け、機を狙い、リチェンダや母が毒を盛れるかもしれぬ。
真相を暴けば、マーガレットさまを処刑台に追いやることになりかねぬ。
いいや、まさか毒殺など。
短絡的な邪悪に手を染めるほど愚かではあるまい。
ジャスパーがいるのだ。
あの稚い子を膝に抱きながら、マーガレットさまが罪を犯すなどあり得ぬ。
万一のことあらば、ジャスパーが残されてしまうのだ。
母や祖母を無くした幼子の辿る運命を思い描けぬ方ではない。
マーガレットさまであれば、息子への庇護を第一にご選択される。
だから、俺の疑いは杞憂なのだ。
あの方は高貴なる白鳥。
雀に堕するはずがない。
サースタン・ウォーターズ殺しの犯人など、マダム・ハンザの願望通りかもしれぬ。遺産目当ての身内やもしれぬし、商売敵とてありうる。愛人との痴情の縺れとて珍しくもない話だ。
俺が疑っていた相手でなくとも、マーガレットさまであるわけがない。
それは絶対なのだ。
街道の半ばで、馬の水飲み場に程よい浅瀬があった。流れの清らかな浅瀬だ。草をかき分けよそぐ風も清らかだった。風に撫でられた草花を踏んで進めば、過ぎ去ったはずの夏の残り香が僅かに漂い、馬たちの熱気を涼めてくれる。
騎士も書記もみな鞍から下りて、手綱を引いて馬に水を飲ませる。
俺も驢馬や騾馬たちに水を促し、蹄が傷ついていないか確認していった。
他の旅人たちともかち合う。
シャルウッドベリの城から出立した大道芸人や行商人たちだろうか。
ずんぐりとした行商が、俺を目にした途端、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「よお、あんちゃん。首尾よくいったかい?」
やたら親しい挨拶を投げかけられた。
一瞬、誰かと戸惑ったものの、城から抜け出すときに見咎めてきた行商だ。
俺が女性に会いに行くと告げたら、容易く納得した。
「ええ、まあ」
「あんちゃんは色男だからな……ああ、そういやさっきの別嬪、誰かに似てると思ったが、あんちゃんだ」
俺に、似ている、美人?
思い当たる人物はただひとり。俺の母。
だが母はマーガレットさまと、女子修道院の荘園にいるはずではないのか?
修道院の荘園は聖域、悪しきものは踏み入れない。誰に傷つけられもせず、かどわかされもしないはずだ。
「あんなすこぶるつきの器量よし、お目にかかったことないのに見覚えあると思ったが、そうだ、あんちゃんにそっくりだ。姉さんかい?」
「さっきと言ったが、どこで会った?」
「シャルウッドベリの城に向かってた一行だよ。物々しいから輜重だと思ったが、西戎っぽい連中でな。そこに別嬪がいるもんだから目立っ……」
会話の半ばで俺は走っていた。
書記が跨っていた乗用馬の手綱を引く。
「お借りします!」
一言で済む話ではない。それどころか縛り首になるほどの窃盗だと重々承知しているが、それでもなお駆けさせずはおれなかった。
馬の脾腹が痛むほどに駆けさせる。
母がシャルウッドベリにいる。
あのユーグのいる城に。
想像しただけで産毛が逆立つ。
どのような経緯でそうなったか皆目見当つかぬが、あのごろつきのウェールズ人たちに力づくで連れてこられたのか?
苦しさと許せなさが、胸を押しつぶしてくる。視界まで黒く濁っていく。
子供の頃のようだ。
俺が五歳だった頃、母に「きれいにならないで」と祈り続けていた、あの泣きたくなるような日々。
「単騎駆けを許した覚えはない」
すぐ横にブラザー・ヴォルフガングが並走していた。背筋を伸ばして、片手だけで手綱を握って御している。剣をすぐ抜ける姿勢だ。
誰もが居竦むほど鋭い瞳を突きつけられた。眼差しだけで首を掻き切られそうだが、速度を緩めるわけにはいかない。
「母が城に連れていかれた!」
俺の一言に、ブラザーの眼差しはさらに鋭さを増した。
「行けと言えん。黒十字が来たと真犯人の耳に入れば、逃亡を許してしまう」
「言わぬ。語らぬ。黒十字の来訪は伝えぬ。たとえ腕を切り落とされたとて、悪漢に膝は折らぬ」
「神でもなく善悪を見通せようか」
「誰にも言わぬ」
噛みつくが如き無礼さに、ブラザーは無表情のままだった。
母のもとに急ぐのは、許されぬのだろうか。
振り切ろうかと思ったが、ブラザーは口元を緩めた。
「聖母マリアの愛に誓え」
「誓う! 聖母の愛にも! 主の慈悲にも!」
ブラザーは頷き、馬の速度を緩めた。
俺は汗ばんだ手で手綱を握り直し、馬の脇腹を軽く蹴る。
良い駿馬だ。
ぐんぐんと後ろへ風景が吹き飛ばされて、太陽が昇る。
太陽がいただきへ昇るように、俺自身も城へ城へと近づいていった。




