32話 1,000リーブル級不渡りの欧州金融危機によるハンザ同盟およびドイツ人の聖母マリア修道騎士団の経済介入
「ともあれさっさとイタリア人を吊るし上げに参りましょう」
愛らしい囀りとは裏腹に、内容は狐めいている。
しかし矮躯が隠し持っている財産をすべてハンザ同盟に押さえられたら、シャルウッドベリの資産まで損なわれるのではないか?
シャルウッドベリの財産も吸い上げているのだ。
資産とてマーガレットさまやエドガーさまのため取り戻さねばならぬ。
「イタリア人をつるし上げて、1000リーヴルが戻ってくる算段があるのか?」
礼を逸するつもりはないが、それでも相手は商人。貴族でも騎士でもない。
金勘定において油断はできぬ。
「債権は心配ご無用ですわ。先にロンドン市長に掛け合って、造船所の帆船を差し押さえ致しましたわ」
「ドイツ商人はイングランド資産の差し押さえを完遂できるのか?」
一時的な処置でなく、イングランド資産を完全に手に入れられるのだろうか?
「未決済の債務に対する先取特権の行使として、王室の財務官への申請をしておりますもの。検視官とロンドン市長が立ち合いならば、可能ですことよ」
「では矮躯の慌てっぷりも無理なからぬ事態だったか」
造船所に黒十字が掛けられ、あれほど泡を喰ったのも道理。
ユーグの途方もない妄執は、ハンザ同盟に差し押さえされたのか。
「もうイタリア人がこちらの動きを掴んでやがりますの? まったく狡猾ですこと。急がねばなりませんわね」
マダム・ハンザは下女にドイツ語で命じる。
ただブラザー・ヴォルフガングは無表情のまま、瞳を鋭利に細めた。
「マダム。安息日に、神の休戦を破るのか」
「ロンドン金融の安寧が関わっておりますよの、ブラザー。地元の修道院長に一言入れれば大事になりませんわよ」
急ぐ様子に、疑問がわく。
「動産の差し押さえができたならば、ハンザは目的を達しているのでは? 何故、造船所からシャルウッドベリまで?」
俺の問いかけに、マダム・ハンザは優美な微苦笑を浮かべる。
麗しい微苦笑で、唇は朱を差したように色づいた。
「そう、そこが最重要ですわ。今回のサースタン・ウォーターズの急死が、あまりに出来過ぎておりますのよ。ハンザを破綻させるタイミングですもの」
「タイミングが悪かったのか?」
「普段ハンザはここまでの大金を投資に動かしたりしませんのよ。ハンザは物流こそ要、融資はそれほど長けているというわけではありませんの」
たしかにハンザ同盟の商人は、庶民的なものや実用的なものを大量に扱う。木材だのニシンだの。
強いて高価なものを上げるとしたら、蜜蝋や毛皮か。実用性に富んだ高級品だ。
逆にイタリア諸都市の商人は金貸しが多く、また扱う商品も絹や砂糖や香辛料といった奢侈品だ。
「金額より問題なのが、返済がシャンパーニュ大市経由だということ。トロワ夏市での返済が滞ってしまえば、シャンパーニュでハンザと取引している商人の多くが倒産しますわね。その結果、北イタリア商人どもがのさばる。現状ハンザが黒十字に短期融資を頼み、連鎖倒産を食い止めておりますの」
隣にいる修道騎士を見やる。
黒十字は紅十字のように貸し付けも行っているのか。
「ハンザ同盟の巨額融資に、己の優越性が崩れるのを危惧して、北イタリア商人が潰しにきやがったのですわ。あっちがその気なら、なにがなんでもしっぽを掴んで大市監督官に訴えてやりますわ! 犯人の一族郎党まとめて、シャンパーニュ大市から締め出して差し上げますわよ!」
またもや恨みがたれ流される。
砒素毒ひとつで、イタリア商人と確定できるなら、州長官はすぐ金融街へ部下を放ったのではないか?
いや、ロンドンでぶつかるハンザ同盟とイタリア商人の軋轢を、州長官が把握するのは難しい。
俺が思考を回していると、マダム・ハンザと目があった。爛々とした瞳だ。
「何を思案なさっておりますの? まさか自殺の可能性を考えておられるのではないでしょうね」
「自殺した可能性もあるのか……?」
「あのサースタン・ウォーターズが自殺なんて選択肢、あり得ませんわ。自殺と断定される可能性は危惧しておりますが」
マダム・ハンザの言わんとする懸念は飲み込めた。
悪徳州長官であれば、犯人不明の他殺を自殺だと断じる。
面倒な捜査を打ち切り、自殺者から没収した遺産を国庫へ納めて、陛下の覚えをよくするためだ。
「幸いにしてこの州を治める州長官ギルス・ファウラーは、卑しくなく、また浅はかでもない。自殺と決めつけはしない。ハンザ同盟の方々も自殺はあり得ぬと?」
サースタン・ウォーターズ自身が砒素を呷っての自殺。
それならば犯人がどこにもいなくても不思議ではない。
遺族からしてみれば不名誉であり、遺産の没収という憂き目に遭うが、俺としては平和な解決だ。
淡い期待だったが、マダム・ハンザは首を横に振った。
「サースタン・ウォーターズは強欲……いえ、精力的に商取引を続けておりましたし、健康祈願の寄進ために自身の蜜蝋人形も作らせておりましたわ。わたくしのロンドン邸が、ちょうど蝋燭職人通りに面しておりますので、噂と香りが流れてまいります。サースタンは自身の体重と同じだけの蜜蠟人形を一流の職人に作らせるため、莫大な前金を支払いましたわ。ハンザの蜜蝋商からもこの話を伺いましたもの」
本気の健康祈願だ。
富豪や貴族とて、自分の手をかたどった蜜蠟や、自分の身長の芯の蜜蝋燭を寄進するくらいだ。
自身の体重と同じだけの蜜蠟を寄進するだけでも大層だ。さらに自分に似せて蜜蝋人形を作らせるとなると、王侯貴族の振る舞いではないか。どれだけの大金を積めばいいのか想像もつかぬ。
「ギルス卿も殺人の可能性を高く見積もっておりますから、没収は免れるでしょう。でも犯人が捕まらず遺産が凍結するのも恐ろしいですわ。ハンザの血潮が滞りますもの。商業都市ロンドンまで壊疽するほどに」
それはぞっとする言い回しだった。
黒く、あるいは黄ばみ、腐り爛れた皮膚。
調薬小屋でも戦場でも、壊疽の悪臭を嗅いだことがある。覚悟しても直視しきれない。
「今回の件、うまく処理できなくては、ロンドンを中心に金融は腐り爛れ、イングランドやシャンパーニュ市場が死に至りますわ」
金融に疎い俺では、それが大袈裟なのか真実なのか、あるいは控えめですらあるのか、判断がつかなかった。
ただマダム・ハンザの瞳は真摯で、彼女にとって最重要で処理せねばならぬことだと理解できた。
会話の途切れで、扉が開く。蝶番の軋みを伴いながら。
白髪交じりの老婦人が入ってきた。古めかしい仕立てのチュニックだが、腰には黒玉のロザリオをたらし、敬虔で清潔な身なりをしている。
「奥さま。出立の支度、整いましてございます」
老侍女の言葉に、マダム・ハンザは頷く。
「では参ります。あなたさまは夜通し歩かれたのですから、ここで休めるよう修道士に伝えますわ」
「いや、俺も同行させてほしい」
城に戻るのは是非もない。
州長官が踏み込める手筈を整えたなら、己の息子を迎えに行けるのだ。
父が両腕に息子を取り戻すことを、母の両膝に息子が帰ることを、誰が阻めようか。




