31話 マダム・ハンザ
俺が修道院の麦酒で喉を潤し、旅の汚れを軽く落としている間に、ドイツ修道騎士は一足先にマダム・ハンザに俺の来訪を告げにいった。
大修道院の敷地は広く、巡礼者用の宿坊も立派な造りだった。
地階は切りそろえられた石が積まれて、二階からは白漆喰と木造だ。本館だけでなく宿坊も半木骨造りにするなど、ずいぶんと豊かな修道院だ。
「ジョンくん。マダム・ハンザはお若いが、腕利きの女商人でな。こたびはハンザ同盟ロンドン商館の全権大使としてお越しだ。失礼のないようにな」
「サースタン・ウォーターズの殺人……いや、遺産凍結の件で、ハンザも動揺しているのか」
「ああ、抑えてはいるが、内部で騒ぎが起きているそうだ。巨額融資した相手の急死など、どんな商売人にとっても宜しからずどころではない。きみをマダムに紹介したら、それがしは州長官さまの元へ急ぐ。努々、礼儀を失するなよ」
抜歯屋は何本も釘を刺して去っていった。
大きな扉から宿坊に入る。
亜麻が張られた透かし窓からは、白濁した朝焼けが階段へ落ちていた。光を踏むように、階段をきしませて登る。日差しそのものが軋んでいるようだった。
二階にある一室は、バックラム木綿で仕切られている。
無骨な下女が部屋の隅で働いていた。床のイグサやアレコストを巻き上げるような粗雑な歩き方で、肥えた羽根布団を干している。すぐにウーステッドやリネンを畳み、虫よけのラヴェンダーを挟みながら木彫の櫃に片づけていた。櫃は入りきらぬほど衣装や布があり、下女は太い腕で何とか詰め込もうと集中している。
出立の朝終いで慌ただしい最中だ。
ただマダム・ハンザの身支度は、完璧すぎるほどに整っていた。
暗い色のヴェールとチュニックに、鮮やかさはない。だが細やかな織物だ。
腰帯には財布とナイフと、ロザリオが下げられていた。財布とナイフはどちらも眩いほどの白革鞣しで玉髄が嵌められ、ロザリオは昏い黒玉と明るい琥珀が連ねられて、房飾りが垂らされている。
楚々と控えめではあるが、最高級の身なりだ。
落ち着きある物腰と身なりとはいえ、俺と年齢は大差ないというか、もしや二十歳を越えていないのではないか。
そう、若いと前もって教えられていたが、想像よりさらに若い。
彼女がハンザの全権大使?
裕福でうら若い未亡人。そんな第一印象だ。
もし後ろにドイツ修道騎士が控えていなければ、ただの市井のご婦人にしか見えない。
抜歯屋が礼儀正しくするよう念を押したのは、全権大使たるマダムがあまりに可憐だったからか。
「ごきげんよう、ゲルトルートと申しますわ。ハンザ同盟の羊毛商、ケルンのゲルトルートです。お見知りおきを。マダム・ケルンでも、マダム・ハンザでもお好きにお呼びくださいませ」
マダム・ハンザは囀るような声で挨拶をしてくれた。
てっきりフランス語での会話だと身構えていたが、なんとも流暢なイングランド語ではないか。
「イングランド語とはありがたい」
「曽祖父の代からイングランドにおりますもの。ケルン市民ではありますが、ワイン商であった曾祖父が、ヘンリー2世より通商の許しを賜って以来、わたくしの一族はイングランドを第二の故郷としておりますのよ。イングランド語ならばあなたさまも説明が早いでしょう?」
親しげに見つめられる。
黒玉めいて濃い瞳は、琥珀色のまつ毛に縁取られている。瞬きのたびに金の反射が、黒い双眸の底で煌めいていた。
愛らしい容貌ではあるのだが、女商人と知っているからか、抜け目ないという印象を受けてしまう。
「単刀直入に伺いますわ。城に北イタリア商人がおりませんでした?」
唐突かつ不躾に、未亡人に距離を詰められた。
「サースタン・ウォーターズの取引相手にイタリアの知識人がいたという情報は、バストン荘園の荘園官から吐かせましたわ。城におりますわよね、怪しげなイタリア商人が」
もしここで否と告げたら、呪われそうなほどの威圧を放たれている。
幸いにして俺は、未亡人の望む答えを持っていた。
「ヴェネツィア人の遍歴学徒なら、いる。城に巣くっている連中の知恵袋だ。法律とラテン語を得手としているらしく、荘園官補佐としてかなりの権限を握っていた」
「遍歴学徒? 商人ではなく?」
マダム・ハンザは一瞬、黒い瞳を訝しげに細める。期待外れだとでも語るように。
「イタリア人の関わりがあると確証があるのですか?」
「当然ですことよ。この事件、砒素が使われたと聞いておりますわよね」
俺は頷く。
頷く以外できなかったのは、マダム・ハンザの黒玉めいた瞳がことさら大きく強く見開き、俺を映していたからだ。
「砒素で毒殺するなど、狡猾で卑劣な北イタリア商人どもの仕業に他なりませんわ! ジェノバかフィレンツェかルッカかミラノか、とにかくあのあたりの商人とは名ばかりの蛆虫どものはかりごと! そうでなければ、なんだとおっしゃいますの!」
未亡人が叫び終えた途端、俺は深呼吸した。彼女の気迫で相槌どころか呼吸もできなかったのだ。
……北イタリア商人が犯人なのか。
壮大さと複雑さを噛み切れず飲み込めもできぬが、単純化してしまえば商売敵の犯行か。
毒殺したのはペトロニラでもユーグでもない。
俺の及びもつかぬ銭垢臭い陰謀が鎌首擡げ、ハンザ同盟を破綻させるための毒牙となった。殺された商人がサースタン・ウォーターズであったのは、たまさかの巡り合わせに過ぎぬのか。
なんでもいい。
犯人が北イタリア商人であろうと、あるいはサースタン・ウォーターズの身内や愛人であろうと、俺の知るところではない。
「ごめんあそばせ、お恥ずかしい。つい激昂してしまいましたわ」
「いえ、しかしマダム・ハンザ。あのヴェネツィア人はサースタン・ウォーターズが死んだのが予定外だと困っていた様子でした」
困っていたどころではないだろう。
途方もない夢が潰えるのだ。
「そのヴェネツィア人の取引をどこかの北イタリア商人が話を嗅ぎつけて、犯行に及んだ可能性もありますわよ。ロンドンの商人がヴェネツィア人と取引していたら、金融街に伝わらないはずありませんわ。あそこの連中はイタチがウサギを狩るように、銭を嗅ぎつけてきますのよ」
鼻息を荒くして言い切った。
「ともあれそのヴェネツィア人は重要ですのよ。どのような身なりで、形相背丈ですの?」
「子供みたいに背が低くて、自身を矮躯と呼ばせている。実際にこのくらいの背丈で、そのくせ歯が黒ずんで年寄りの口内だった」
手振りで矮躯の背丈を説明する。
ぴくりと、修道騎士のブラザー・ヴォルフガングが反応した。今まで黙していたが、強く、意識を向けている。
気がかりがあるのだろうか?
俺は言葉を続けた。
「片身替わりの派手な服を着ていて、巡礼バッチをいくつも身に着けている。あと護衛として、元狼猟師と猟犬を連れている。気配の消し方もうまく、腕の立つ護衛だ」
そこまで語って、言葉を切る。
次の説明は、騎士の逆鱗に触れるのではないか。
「サースタン・ウォーターズに『騎士の地位』を売りつけようとしていた」
剃刀色の眼差しが、俺に向けられた。
鋭い切っ先を向けられた感覚だ。刹那、きゅっと喉が締まった。
「……商人を、騎士叙任すると?」
煉獄の底から這いずるような問いかけだった。
俺とて怒りに震える。
まこと正しき道を歩んできた騎士ならば、到底許せる話ではない。ましてこのブラザー・ヴォルフガングは騎士と修道、ふたつの厳しき道を歩まれている方。怒りもひとしおであろう。
「知恵袋の名は? ……まさかチビのルカか?」
ブラザー・ヴォルフガングが唸る。獰猛なほどの低さで。
「いえ、ニコーロ・マストロピエロと名乗っていた」
「あれは偽名をいくつも使う。大破門を宣告されているゆえに」
ぞっとする言葉だ。
大破門されれば、存在そのものが社会から追放される。
ただでさえ背筋の凍る単語だというのに、修道騎士から告げられればなおさら重くのしかかる。
「ブラザー。わたくし寡聞に存じませんが、その破門者、どのような手配を受けておりますの?」
「チビのルカか。道徳的な逸脱だけでなく、聖遺物詐欺を企て、大破門を受けた。黒十字はコンスタンティノープルへ逃亡した足取りまで掴んでいるが、その後、消息を絶っている」
「聖遺物詐欺なんて。そんな身の毛もよだつ事件がボローニャでありましたの? わたくし、初めて伺いましたわ。ここ最近の事件ではありませんわよね?」
「インノケンティウス4世12年だ」
教皇で言われても分からぬ。
マダム・ハンザは何か数えるように視線を落とした。
「……五十年前ですわね」
マダム・ハンザが呟く。
五十年前。俺の両親も生まれていない。
その聖遺物詐欺の犯人、もう今となっては寿命に近いのではないか? すでに地獄か煉獄に赴いているやもしれぬ。
さすがに修道騎士に意見をするのは憚られたが、マダム・ハンザが小さな口を開いた。
「ブラザー。さすがにそれは人違いではありませんこと? 五十年前にボローニャ大学を卒業していたら、八十歳に手が届く年齢になっておりますわよ」
「……そうだな、マダム。ただボローニャ大学を卒業したヴェネツィア人遍歴学徒かつ、聖涜も平然と行う矮躯。あまりに条件が合い過ぎている」
「黒十字にとっては、騎士叙任の売買も聖涜ですのね」
「当然だ、マダム。もしこたびの黒幕が大破門者ならば、捕縛は聖母マリアに捧ぐ足る。捕縛できれば私は金勘定という汚穢から解放され、北の最前線を許されるだろう。異教徒を切り伏せるか、戦場で死ぬかという誉れを許されたはずの黒十字が、どうしてこんな辺境で金勘定の監視など……!」
剣を握り、呻く。
騎士あるべきな力強さと正しさだ。
修道士としては従順に反しているやもしれぬが、少なくとも騎士としては誉れ高き振舞いである。銭垢は卑しく、返り血は尊い。
だが隣のマダム・ハンザは、半眼になってじっとり修道騎士を見上げている。
「金勘定しているから、黒十字の馬も剣も買えるんですのよ。ブラザー」
穏やかで冷ややかで、そして幾分かの呆れを含んだ呟きだった。




