30話 黒十字
肺が霜満つほど冷気を吸い、脚が棒になるほど夜道を歩き続けてきた。
俺の四肢も臓腑にも、そろそろ疲れが満ちている。
不意に、足元が明るくなった。
「朝か……」
夜のとばりが明け離れていく。
黎明の涼やかさを吸い込み、胸のざわめきを落ち着かせる。
顔を上げれば街道の遥か先、大修道院が見えてきた。
黎明を背景に、大聖堂はいまだ輪郭しか姿を現さぬ。
だが、東からはたっぷりと朝焼けを吸い込んでおり、東側のステンドグラスから西側のステンドグラスへ光を溢れさせていた。荘厳な輪郭に、暁の色彩がいくつも咲いたようではないか。
聖堂自体が神の威光を孕んでいる。
なんと神々しいのだろう。
煉獄の夜を抜け、ここに天国の光がある。
天から差し込む光のきざはしから、天使が舞い降りてきそうではないか。
「おお、ジョンくん。八つ裂きにされてないようだな」
「世俗が来た」
天上から滑り落ちた気分だった。
俺を偽名で呼びかけてきたのは、抜歯屋だった。
州長官の部下だが、爽やかな朝焼けをうさんくさくするヒゲだ。抜歯した虫歯のロザリオを、ちゃらちゃら鳴らしてやってくる。
密偵として優れているとは承知しているが、抜歯屋という職種が受け付け難い。
噂話を集めやすい仮初の職としても、大道医など選ぶのは憚られる。
「貴族の若君みたいな身なりをしておるものだから、見間違いかと思ったが、やはりその背丈はジョンくんであったか。ここで行き違いならなかったのは、聖ヨハネと聖パウロのお導きだな」
抜歯屋は大修道院へ祈りをささげる。聖ヨハネと聖パウロ、そして聖アポロニアにも感謝をささげた。
修道院は神々しいまま、祈りを受け取っていた。
「聖人のお導きがあるならば、我々の正しさを主がお認めになったのだ。幸先よいぞ」
「そうかもしれぬ……」
「どうした、ジョンくん。立派な身なりにしては、齲蝕に患っている顔をしておるな。ご領主の一筆は得られなんだかな」
「印章を欠いた」
次は抜歯屋が顔を顰める番だった。
顎を撫で、取ってつけたような髭をつまむ。おそらく額の奥で、せわしない思案が繰り返されているのだろう。
「宜しからずだな。印章なき一筆など、死骸に過ぎんぞ」
「だが、殺人現場から消えた指輪をみつけた」
その一言に抜歯屋は瞳を大きく見開き、あたりを見回した。
人影どころか野良犬もネズミもいない。街道には、ただ夜の名残の冷たさと朝のはじまりの明るさだけが満ちていた。
抜歯屋は深呼吸する。
「どこで? 誰が?」
声を絞りに絞って問うてきた。
「シャルウッドベリの城で、奉公人が持っていた。名前はアミーリア」
俺が告げた名前に、髭が大きく跳ねる。
「……修道院預かりになっていた女奉公人か」
「どうしてバストン荘園の関係者が、シャルウッドベリまでやってきている?」
容疑が晴れぬなら、裁判まで留め置かれるのが普通なのに。
俺の問いに、抜歯屋の顔は苦くなる。
「修道院に男がやってきて、女奉公人を連れ去ったのだ。連れ去った無頼漢は訛りが強いフランス語で、ガスコーニュ人めいていたらしい。共犯なのか、あるいは口封じか」
ヴィクトールか。
城の厩で出会った傭兵を思い出す。
彫りの深い顔立ちの中年で、いかにも傭兵といった空気を滲ませていた。矮躯の護衛のひとりで、アミーリアを城に連れてきたのだ。
「アミーリアを連れてきた男も城にいたが、早々に立ち去っている。アミーリアはまだ滞在しているはずだ」
「とあらば、まずは女奉公人と指輪からだな。その女が金の指輪を持っているとしたら、主人殺しの片棒を担いだやもしれんな」
「本当にそうであれば話は早いのだが、ただ生前の口約束で死体からもらっていったそうだ」
「それはそれで悍ましいな」
嫌悪なのか、抜歯屋の重たげな瞼がますます垂れた。
心の底からアミーリアが犯人であればと願ってしまうが、あの女が殺しに踏み切るのは想像つかぬ。
悪い意味で、殺人を選択しない。あくまでも、悪い意味で。
「……行方知れずになっていた女奉公人が、殺人現場で消えた指輪を持って、城にいる。どちらにせよ踏み込むに値するな。城に入れる」
抜歯屋は城の方角へ視線を送った。
もう遥か彼方で、見えぬはずのシャルウッドベリの城。それを見据えているようだった。
「それと、武装法廷が動いていると噂を耳にした」
「……!」
抜歯屋の顔色が覿面に変わった。
ジャスパーの持ってきてくれた情報が、間違いであればと甘い期待を抱いていたが……
「真実なのか?」
「そこまできみが案じることではない」
抜歯屋は大きく息を吐いた。肺腑にある濁りをすべて吐き捨てるほどに。
「州長官さまとて手は打っておる。あの方は書類の猶予を狙ってよく愚かなふりをするが、処世劣る騎士が就ける地位ではないのだ」
「ギルス・ファウラー州長官が優れた方と承知だが……」
「なら、信じるのだ」
その言葉は、俺が思わず頷くほどの力強さだった。
「ジョンくん、ここは冷える。宿坊に参ろう。それがしは修道院宿坊に泊まっておる」
教会へ付属した修道院と赴く。
妙に人が多いな。
修道士だけでなく、農民や商人がいる。
家族連れが多い。しかもまともなチュニックやこぎれいなヴェールを身に纏っている。
「……? 日曜みたいだな」
「日曜だが?」
抜歯屋の言葉が飲み込めず、数秒、固まった。
「今日は土曜ではないのか?」
「日曜だ。ほら、司祭さまも日曜祭服に袖をお通しではないか」
しまった。
ミカエル祭の定期市は三日間だけだが、今年は土曜の週市とつながるせいで実質的に四日間になっていたのか。
曜日は理解していたのに、週市に思い至らなかったせいで一日勘違いしていた。
そうか、定期市と週市が連結してしまえば行商人裁判所も延期する。さらに司祭さまが不在だから、書記たちが忙殺されていたのか。それは文書行政の崩壊寸前ではないか。
「ん?」
……ということは、俺はユーグに殴られて、一日半も昏睡していたのか?
背筋から冷汗が噴出した。
ほとんど死にかけではないか。
「さ、ジョンくん。来たまえ。紹介したい方々がいらっしゃる。その方に、城にどれほど傭兵や騎士がおるのか報告してくれ」
「他の州長官の部下も来ているのか?」
「滅相もない。部下ではないのだ。この件で、大きな影響を被る方々だよ」
慌てて否定する抜歯屋。
相手は大物なのだろうか?
「ドイツ人の聖母マリア修道騎士団。通称黒十字」
黒十字!
矮躯の帆船を差し押さえた相手か。
「そちらよりブラザー・ヴォルフガングがおいでだ。イングランドでは黒十字をお見掛けせぬが、リトヴィアにはびこる異教と戦っている騎士団でな。北方の十字軍騎士であらせられる」
「どうして十字軍騎士が、イングランドに?」
「商人は領土や国に囚われぬ。サースタン・ウォーターズは貿易商だった、それもロンドン屈指のな。急死は国際市場に宜しからぬ影響を及ぼすのだ。黒十字の財政も、その影響から免れんということだ」
門を越えて、敷地に入る。
ここらは巡礼者用の宿坊周りなのか、下男たちが馬の手入れをしている。
馬の高い体温から発される息と、乾いた干し草の匂いが混ざり、厩独特の空気を醸していた。
家畜の世話は、安息日に許される数少ない作業だ。
下男だけでなく、騎士らしい男も混ざって、指示をしている。
騎士は俺よりいくつか年上で、髪は肩に届くほどの長さではあるが、剃髪されていた。
修道騎士だ。
剃刀色の眼差しで、俺を一瞥する。
痩せた頬は、むごく白い。羊脂で作った蝋燭ほどの白さで、どこか幽鬼めいた風情を漂わせていた。
身なりは清潔だが、質素そのもの。剣も礼帯も一切の装飾がなく、無骨極まりない。
ふと、肩を覆う厚手のケープに、黒い十字の紋章が縫われているのに気付いた。濃緑でも深紅でも純白でもない。漆黒の十字だ。
黒十字の修道騎士。
「おお、ブラザー・ヴォルフガング。実りある報せが齎されました。城に有力な容疑者がおります。かの逃亡中の女奉公人です。ここまでの遠路はるばるご足労、近しく報われますぞ」
抜歯屋は腰を低くして、俺から聞いた情報を伝える。
「城に雇われている傭兵に関しては、このジョンくんからお聞きください」
抜歯屋に背中を押されて、俺は眼に刻んできた騎士たちを諳んじる。
ユーグの強さ、部下たちの人数や、その中にウェールズ人が混ざっていること。数多い猟犬。若君のご様子も。
「あとは客分として、トーマシン卿とハムブレットという小姓も滞在しておりました。ユーグに与しているかは分からぬのですが、少なくとも若君の無慈悲から俺を庇い、また歓待してくださった。お召し物が奇異ではありましたが、騎士道のある方とお見受けしました。報告を申し上げる場で私見は差し出がましいと承知しておりますが、慈悲ある処置をお頼み申し上げます」
「黒十字は見届け役」
言葉少なに答えてくれる。
感情も体温も削ぎ落とされた口調だった。
「今回の件、指揮するは彼女だ。マダム・ハンザに伝えるがいい」




