29話 雀はだぁれ?
夜は降ち行きながら、ふたたび凪いでいく。
清浄と静寂が戻ってきた。
間を置かずして、俺の脇腹の痛みまでも戻ってきた。これまで出戻らなくていいものを。腹立たしさが、ますます腹を痛ませる。
「ユカイ、ユカイ。なかなかオモシロかったね」
矮躯は笑いながら、俺を見据えた。
「供連れ、アリガト。キミへのお駄賃は、そのおべべでいいだろう。久しぶりに会うママだって、立派な姿に大喜びだよ」
「……感謝する」
その一言だけでは済まぬほどに、価値の高い衣服であった。
身なりが整っていれば、道程の半ばで兵士に詰問されにくい。この服であれば、州長官の使いを名乗ったところで不審がられぬ。
「じゃあね、キミにも聖ギネフォールの加護がありますように!」
聞いたこともない聖人の祝福を祈り、矮躯は去った。
あとは州長官の元へ急ぐだけだ。
俺は母にいるオックスフォード方面へ行ったふりをして、しばし夜陰に身を潜ませる。
じっとしているのも苦痛だ。小鳥のさえずりも絶えた森で動かずにいれば、肺腑どころか脾臓にさえも霜満ちそうだ。
秋の深い彼方では、梟が微かに鳴いていた。
孤独の声だ。
なんのために鳴いているのだろう。小さなシャベルで墓穴を掘っているのか。あるいは鳥へと身を窶した救い主が、罪人に呼びかけているのか。
秋の鳴き声が深々と、俺の骨身に降る。
…………サースタン・ウォーターズを知ったのは夏だった。
罪を負うと決意し、夏の夜を踏み分け、浅瀬を渉り、繁茂と緑陰をかき分けた。
ほんの数日、いや、たった半日でも老いたる商人の死が遅れれば、俺がこの殺人事件の雀になるはずだった。
それなのにどうだ?
俺は死体を見ただけの蠅になった。
州長官の猟犬となり、今や指輪を呑んだ魚という、毒殺犯の手がかりになるかならぬか分からぬ曖昧な情報だけを握り、秋の夜道を急いでいる。
なんという運命だろう。
吐息を零し、立ち上がる。
膝を擦り、呼吸を整え、街道を歩いていく。
城への分かれ道あたりで、まだ矮躯がうろうろしていた。
馬を難儀そうに操っているところを見ると、鞍だけでなく手綱さばきも下手らしい。
街道を誰かが、騎馬してやってきた。
「ニコーロ・マストロピエロさま!」
月に届くほど声を張り上げたのは、派手な身なりをマントで包んだ男だ。
旅芸人か?
だがその表情には愛嬌も冷笑もない。冷や汗と息切れに埋め尽くされている。
目には見えぬが、旅芸人が運んでいる知らせは重いのだろう。あれは手の施しようのない危篤を報せる形相ではないか。
「こちらにおいででしたか。お探ししましたよ!」
「どうした? お前は金融街に遣わせていたはずだな。何か火急か?」
矮躯が口にしたのは、ヴェネツィア語だった。
イタリア諸都市の言葉は、多少、聞き取れる。
スコットランドの砦にも大都市ベリックにも、イタリア諸都市から商人がやってきていた。もちろんヴェネツィア人も。
喋れぬが、会話の輪郭くらいは掴めるのだ。
「金融街でなく、ぞ、造船所です」
息を整える勢いは嘔吐さながらであったが、それでも必死で報告する。
「黒十字! 造船所に黒十字の旗が垂らされていました!」
造船所?
もしやユーグの語っていた未踏の地を目指すための帆船か?
しかし黒十字とは何だ?
まったく何も把握できない。
ただ緊急だと理解できる。
矮躯からも笑いが剥がれ落ちているからだ。黒ずんだ歯をむき出しにしている。
「どういう事だ? 黒十字がしゃしゃり出て、差し押さえしただと?」
「造船所の徒弟たちから話を聞いても、ほぼ急襲で。理由は誰も知らぬと。ただロンドン市長の馬車もあったと噂していました」
「急襲? 急襲だと? 船はサースタンが前払いで、差し押さえなど………まさか前払いの500ポンドを、黒十字どもに借りたのか?」
500ポンド。
眩暈がするほど莫大な金額だ。この領地の年収に等しい。
「いや、いや、いや、サースタンはシャンパーニュ大市での決済をしていた。黒十字が入る余地なぞあるわけが………」
大金。
シャンパーニュ大市。
そのふたつの言葉に、俺の記憶が刺激されている。
何かを思い出しかけているが、どうにも喉から出てこない。だいたい俺には大金も、遥かなフランスの国際市シャンパーニュも関わりないはずだ。
頭を悩ませたところで何を思い出せるというのだ?
「ハンザ同盟か……!」
矮躯が発した呟きは、擦り切れそうなほどか細く、そして悲鳴じみた響きを含んでいた。
………ん?
ハンザ同盟。
ロンドンにいるドイツ商人たちの集まりか。
老商人サースタン・ウォーターズの屋敷に忍び込んだとき、為替状の文面にそんなことが書かれていたな。
額面金額はいくらか記憶にないが、大金だったはずだ。ロンドン商館から借りて、夏までにシャンパーニュ大市の両替商に返すとか、そういう約束………
あの為替状、目を通してから、ひょいとどこかに置いて………
夜明け前の闇の中、為替状をどこに置いた………?
割符がたくさんあるから主の寝室で間違いないと確信して、それから、ええっと………
「…………」
虚ろな記憶だ。
紐解いていくのは無意味かもしれない。
「ハンザ同盟の旗はあったか?」
「赤と白の? はい、その馬車は留まっていました」
「サースタンにシャンパーニュ大市経由未払いが発生したか? 不審死で遺産が凍結される前、いや、それでなくとも寡婦産の相続争いを見越したか。野蛮なハンザ同盟が、トロワの連鎖倒産の防波堤として黒十字どもを引っ張り出した。それが自然な推理だな」
己自身を殺害する罪は重い。
万が一にでも自殺と断定されれば、遺産はすべて国庫回収。
サースタン・ウォーターズの取引相手であるロンドン商館が、遺産凍結前に乗り込んで、動産の差し押さえを強行したのか。
矮躯は歯ぎしりする。
遠くに隠れている俺にさえ聞こえるほどの軋み。
「最悪のタイミングで死んだな。サースタンめ……!」
それだけ吐き捨てて、矮躯は城へ進む。
ユーグも老商人を殺す理由がないと語ったが、真実なのか?
今、このタイミングで亡くなって、ユーグたちの計画は崩壊しているのか?
………なら誰だ?
サースタン・ウォーターズを殺したのは、誰だ?




