27話 誰しもが祈りに値札をつけている
矮躯ことニコーロ・マストロピエロは、馬上で月明かりを浴びていた。シャプロンを飾る巡礼バッチたちが乱反射して、星めいて瞬いている。彼の輪郭を、夜の幽邃から浮き上がらせていた。
供回りには、相も変わらず無表情で無口な狼猟師がひとり。
そして獰猛なマスティフ犬と嗅覚が鋭いタルボット犬が、数頭ずつ。あの四つ足が全力で疾駆したら、俺など逃げきれまい。
「ふん、ふんふん。ボクの名推理によると、エドマンドの若君が元気になるより早く、とんずらしようって思ったんだろ?」
「若君に恐れ? 恐れているのは、あなただ」
容易く人を殺せと嘯く遍歴学徒など、恐怖に足る。
「それにしたってさ、おひさまが昇るまで待てばいいのに。せっかちだね。ああ、城内でかくれんぼしている自分のコドモを逃がすためかな? ユーグにこてんぱんにされたんだから、おねんねしてないとツラいんじゃないか。それなのにガンバっちゃうのは、コドモのためだね」
にやにやと、見透かしたような眼差しだ。
半分当たり、半分外れている。
城内にジャスパーが身を潜めているのは真実だが、まだマーガレットさまの元へ逃がせていなかった。
「行商か旅芸人かに預けて、バイバイしたところかな? どうかな、ボクの名推理!」
そう勘違いしてくれるなら、むしろありがたい。
矮躯は大仰に胸を張ったが、鞍からぐらつく。咄嗟に支える狼猟師。
「で、キミはそのまま、ママのトコロへ一目散の大急ぎかい?」
「ああ」
「図々しいね。そのおべべは、ユーグに誂えた一張羅なのに」
「………ぅ」
たしかにユーグから押し付けられたイタリア風の服に袖を通している。
無数に飾られたボタンは銀。織りも染めもこの上なく際立っており、農奴の年収どころではないだろう。
カチカチカチカチ……カチンッ…
耳朶に触れ、鼓膜に忍び寄る。煉獄の聲が、煉獄の跫が。
ゆっくりと、だが確実に迫っていた。
「おや、おや、おや。野良レプラちゃんたちじゃないか。癩療院を目指しているのかな?」
矮躯は悠長に笑っている。
それどころか手綱を引いて、馬腹を蹴り、蹄を音の方へと進ませた。
こちらが風下ではないとはいえ、ラザロ鳴子を耳にして蒼褪めぬとは、いかなる精神をしているのだ。
彼方にいるレプラ患者らは、人影に対して大きくラザロ鳴子を振る。ひとりだけでなく、ふたり、みつたり、よつたりと、鳴子が合奏する。
反射的に耳を塞ぐ。
逃げ出したい。
「こんばんば! レプラちゃんたち!」
矮躯は大声を張り上げる。
夜陰も驚くその大声に、俺も驚く。レプラ患者たちもだ。
レプラ患者に声をかけるという狂気の沙汰に、肺腑から忌避感を催してきた。
傍らにいるだけで、息が止まる。恐れで毛穴が開く。
もしも感染すれば、生者としての権利はすべて剥奪される。
その危険を冒してまで、矮躯はその細い首や薄っぺらい胸から、ありったけの声を発した。
「流浪のみなみなさま、お初にお目にかかる。ボクの名前はニコーロ・マストロピエロ! どうか親しみを込めて、おちびちゃんと呼んでほしいね」
生者への挨拶と等しく、死者たちへ挨拶する。
滑稽、あるいは狂気的だ。
墓の前で曲芸をするほどの狂気。
「挨拶ついでの皿用のパンだ。受け取ってくれ」
ずっと無言で付き添っていた狼猟師のギィが、携えていた合切袋を開く。微かに香辛料や肉汁の匂いが零れた。
ギィは全力で、パン皿を投げていく。
宴席の残り香がするパン皿は、月明かり中、大きな弧を描いてレプラ患者たち届いた。ひとりは拾い上げ、ひとりは網で受け取る。
パン皿を受け取った彼らは、杖をゆっくりと動かし、あるいはラザロ鳴子を短く鳴らした。
感謝の意を示してくれた。
レプラ患者たちは喋れない。
すでに喉が煉獄に焼かれている者もいる。
しかし喋れるほど軽い症状であろうと、公共の場でレプラ患者が言葉を発することは許されようか。彼らはすでに葬儀を挙げた身だ。死者は黙して語らない。
彼らはパン皿を食べる前に、擦り切れた頭巾の下から、エイメンと掠れ切った声が零れる。それは死者の声。聞いてはならぬ。
レプラ患者たちは、パン皿で飢えを宥める。
肉汁や香辛料がよく染みてふやけたパン皿は、弱っている指でも千切れていた。
「彼らが来ると知っていたのか? パン皿まで用意して………」
「ん? ミカエル祭だし、城にむらがっている浮浪者ちゃんに、パン皿をあげようと思っただけだよ。でも慈善をするなら、浮浪者より、断然、レプラちゃんたちだろ。祈りの純利益が高いからね。いい機会だったな」
「祈りを………純利で計るだと?」
「レプラちゃんは地上にいながら煉獄へ足を踏み入れている分、神への祈りが早く届くじゃないか」
「祈りを買うなど浅ましい」
無垢なるものの祈りは神に届く。
だがそれを目当てに施すなど、さもしいではないか。
「浅ましい? これは合理だよ、合理性」
人差し指を振りながら、行商が商品を自慢するように語る。
「あの業突く張りでみなみなさまご存じなサースタン・ウォーターズだって、自分ちの近くの癩療院に井戸をあげたんだよ。自分の名前を彫らせた井戸だ。そこで毎日水を汲むたび、レプラちゃんたちが祈ってくれるなら、煉獄の刑期だって短くなる。祈りの報いを考えるのは、誰しもがする損得勘定さ」
金儲けは罪深い。
商人どもは虚偽や詐欺によって私腹を肥やし、不誠実と税逃れで富にしがみつき、復活祭の時のみに悔悟と懺悔で帳尻を合わせようとする。
商いは人間の良心や善性を脅かす。
そのような銭垢まみれの手で祈ったところで、天国は近づかぬ。
だからといって金勘定をするように、金銭で天国行きの祈りを買うだと?
「昨今の合理性には馴染まん」
「昨今? 昨今ねぇ。あまたすべて流行り廃りだよ。そもそも煉獄って思いつきそのものが、最近、生まれたばかりじゃないか」
「何を馬鹿な。そこまでの偽りを誰が信じるものか」
ペトロニラも司祭さまも、煉獄を語るのだ。
流行なわけがあるものか。
「少なくともボクがちっちゃかった頃なんて、世界には地上と天国と地獄しかなかったよ」
黒ずんだ歯をむき出しに笑う。
馬鹿馬鹿しい。遍歴学徒の韜晦には付き合いきれぬ。
「レプラちゃん。食べながらでもお耳を向けてくれ! きみらは緑十字の癩療院へ行くつもりだろう!」
聖ラザロ騎士団付属癩療院?
城の近くにあると聞いた記憶がない。
俺がこの地を離れている間に建ったのか?
紅十字や白十字と違って、イングランドの片田舎では緑十字はあまり見かけない。
緑十字はレプラ患者への施療と保護のための騎士団だ。
もともと聖地における十字軍騎士のための医療団だった。だが十字軍都市アッコンが陥落した悲劇以後は、貧しき病人、とりわけレプラを患う者たちの保護と施療に努めている。
「だけどココから癩療院へ行くなら、村を通らないといけないよ」
レプラ患者たちが動きを止めた。
彼らは頭巾の深い底で、ひそやかな言葉を交わしている。
疲労と困惑が滲んでいた。
聖ラザロ騎士団の癩療院に縋るため、遥々と旅をしてきたのか。
しかし彼らは村には入れない。
煉獄を宿した身で村に立ち入るなど、誰が許すというのだ。
大きく迂回するしかないのだ。
月明かりが目映いとはいえ、地理に明るくはない人間、しかも弱っている患者が迂回路を選択すれば、くるぶしもふくらはぎも痛みに軋むだろう。どれほどの希望があっても、足を止めるほどの痛みだ。
「だからね! ボクが村を通らせてあげよう!」
村に入れる?
レプラ患者を?
「正気か?」
つい口から出た本音に、矮躯は口角を上げる。
「ボクはシャルウッドベリ城の荘園官のお手伝いをやってるんだ。村長や代官にだってぶつくさ言わせないよ。ボクに文句言えるやつがいたら、しょっ引いてきてほしいくらいだね」
「そういう問題でなく……」
「はい、はい、はい。とりあえずそのカチカチやかましい鳴子は、しまうか布で縛ってくれないか」
俺は驚愕に喉を詰まらせていたが、レプラ患者たちはさらに驚いていたようだった。
レプラ患者たちは顔を見合わせ、戸惑い、それでも矮躯の指示に従う。包帯で鳴子を縛って、ボロ服の下に突っ込んでいた。
「ギィ。癩療院まで彼らを案内し………」
「断る」
無言だった狼猟師が、強く鋭い一蹴をした。
矮躯も驚きに目を見開いている。
「オレのシゴトはお前の護衛。呪われたモノたちの先導は、契約外。違うか?」
「ふん、ふん、ふぅん。それもそうだね、なるほどね。じゃあジェイデン、行こっか」
唐突に名を呼ばれ、一瞬、呆けてしまう。
「俺が?」
「だってジェイデン、キミはもともと村に住んでたろ? ギィより道案内がお得意だよね。さすがにボクだってレプラちゃんたちに、好き勝手に村をうろちょろさせられないよ。ボクがひとりじゃかっこつかないし」
まったく尤もな発言だった。
偉い人間が供を連れずに出歩くなど、常軌を逸している。
「いや、しかし、どうして俺が………」
「ほらほらほら、同じイングランド人じゃないか。困っているお仲間ちゃんを見捨てないよね」
異邦人にそう言われると抗い難かった。
一刻も早く州長官の元へ戻らねばならぬ身だというのに。
しかし城から離れてしまえば、どうとでもなるのではないか?
「ボクは乗馬がへたっぴだから、落ちそうだったら支えてほしいな」
「承知した」




