26話 聲! あれは煉獄の聲!
夕餉の後、小部屋で休むふりをする。
ハムブレットは下がったが、ユーグが一度、俺の様子を覗きにきた。香料蔵を煮詰めたような香辛の葡萄酒を勧めてきた。
なにやら切々と語っていたが、無視して藁布団にもぐっていたら帰っていった。
それから、しばらく待つ。
みなが寝静まるのを。
太陽が沈むや否や、満月は重たげに、清らかに、あたかも浅瀬の魚めいて夜に架かる。
黄昏を経た世界の輪郭は、月によって銀の和毛がそよいでいるようだった。
夜の胎は、美しさと危うさの双子を孕んでいる。
ミカエル祭が過ぎ去ってしまえば、街道からは王の保護が失せ、夜番の監視は消え去る。
幼い子を連れた長旅など、追い剥ぎや人攫いに狙われるだけだ。
運よく悪漢の目から逃れられても、秋の終わりを告げる霜は、民にも畑にも等しいのだ。吐息を凍らせる風に、まだ九歳の子を吹き晒すのは憚られる。
俺ひとりが急いだほうが合理的やもしれぬ。
「そろそろ抜け出すか」
俺は藁布団から抜け出した。
ジャスパーもひょこっと顔を出す。
「回廊の様子を覗いてきますね」
その間に、イタリア風の服へ袖を通して、荷物をまとめる。昼間に深く眠ったせいか、眠気はない。
「父さま。また水路から脱出するのですか?」
「いや、見張りの張り出し小屋だ」
城の石壁には、見張りのための木造小屋が張り出している。
常時は兵士の見張りとして使われて、籠城戦になったならばそこから矢を射かけたり、石だの石灰だのを撒いて、敵を退ける。
「エドガーさまやジョンは『浮いてる小屋』と呼んでいたな。お前くらいの年の頃の話だ」
「叔父さまたち、面白いこと言いますね」
「ああ。小屋はあかたも空中に浮いているように、大きく張り出している。ロープ同士を長く結んで、梁にくくって垂らせば、脱走は容易い」
「兵士たちが今、ロープをどこにしまっているか知ってますよ」
ジャスパーの案内で、物置になっている突き当りへ向かう。道具箱からありったけのロープを拝借した。
梁に結び付ける。固く、固く、ナイフを持ち出さねば解けぬほど固く。
準備が整い、俺たちは神に祈る。
「主よ、あなたが最も確かな鎧となり、俺の手足のため、内臓のため、敵がこしらえる目に見えない杭の爪を、俺から遠ざけて下さいますように」
これはペトロニラから習った祈りの言葉だ。
吐く息が白く濁って、差し込む月の目映さに混ざっていく。
俺とジャスパーの祈りも、かすれていく。
「ですから、おお、神よ。頑丈な胴鎧で、肩甲骨とともに、肩と腕をお守りください。肘関節とともに肘と手、拳、手のひら、指とその爪をお守りください。背骨と肋骨とその関節、後部、背中、神経および骨をお守りください。表面、血液、腎臓、臀部、尻とその腿をお守りください。膝窩、ふくらはぎ、大腿、膝がしら、膝腱および膝をお守りください。足首、踵、脚、および足とその足裏全体をお守りください。エイメン」
祈りの唱和を終える。
傍らでともに祈ってくれていたジャスパーも、祈りの手を解いた。
「父さま、どうか神のご加護がありますように」
「案ずるな。お前という無垢ないのちの祈りは、神へ届きやすい。それにきっとペトロニラも同じ祈りを捧げてくれているはずだ」
「そうですね。母さまもおばあさまもペトロニラも毎晩、父さまのために祈っています」
別れのキスをする。
小さなつむじと白い額、それからそばかすの頬にも。
ああ、調薬小屋の香りがする。愛しく懐かしい思い出がそのまま香りになったようだった。
たまらず抱きしめたが、俺に時間は無い。
ジャスパーが見守る中、手に滑り止めの布として袖の長垂れを巻き付けた。
垂直近い城壁を降りていく。ロープとロープの結び目が僅かな足場となってくれた。
ロープを握りながら降りて、城から離れる。
外壁を囲むように、大道芸人や行商人たちのテントがいくつかある。商いの品は梱包されて、ほとんど片づけ終わっている。みな、明日の朝には発つのだろうか。
身を潜めて、焚火の光を躱して進んだ。
「おい! のっぽのあんちゃん! そこのあんちゃんだ! 何、こそこそしてんだい?」
警戒を帯びた呼びかけが、俺の背中に投げつけられた。
振り向けば、男が佇んでいる。
夜警の兵士ではない。
ずんぐりした体躯に、さらにずんぐりとした革財布を腰から下げている。定期市でテント泊りをしている行商だろう。
これなら口先で誤魔化せるか。
「こそこそしてすまなかった」
素直に相対すれば、ずんぐりした商人の顔が緩んだ。
「ん? ああ、あんちゃんは抜歯の旦那の助手だったな? どうしたんだ? あんまそっちでうろちょろしてっと、市監の夜警にどやされって拳骨一発じゃ済まねえぞ」
「惚れた女の元へ行くのに、兵士に怯えるものを男と呼べるだろうか?」
「へへっ。そりゃ違いねぇ。うまくやれよ」
行商は品のない笑いを噛み締め、俺に手を振ってくれた。
素早く闇に紛れ、焚火たちから離れる。
よし。城から離れられた。
今宵の月明かりは隈なく、夜道でも進めるほど恵まれている。賦役が行き届かない街道には影が生い茂っているが、足の進みは昼間と大差はない。
逆に見咎められてしまえば終わりということだ。
凪いだ街道へと踏み入る。
いつ野盗か狼が現れるか分からない。気を引き締めねば。
ッ………チッ………
音が、耳に届く。
なんだこの音は?
硬くて、規則的な、音。
風もないのに、梢でも虫でも鳥でも、まして獣でもない音が繰り返されている。
遠く。
彼方。
だがしだいに音が大きくなっていく。
いや、こっちに音が近づいてきているのか?
……カチ………カチ…ッ……
乾いた木を叩き合う音か?
不吉な予感がする。
皮膚の毛穴が開くほどの悍ましい予感。
道の先にあるのは、野盗より狼よりおぞましいものではないか?
カチ………カチ…チチッ…チ…
いや、いや、気のせいかもしれぬ。これは俺の怯えが生んだ幻聴かもしれぬではないか。
もし想像がはずれたら、城の方面へ引き返すのは時間の無駄だ。
武装法廷が近づいている。余裕はない。
街道脇の草地や灌木が、僅かに切り開かれていた。
比較的開けたその地点で、音は近づき、大きくなる。
カチカチカチカチ……ッ
悲鳴を上げかけた喉を絞る。
真夜中の月明りの彼方に、寄り添いて歩く旅人がいた。
五人か、六人?
全員、ぼろ布の頭巾とマント頭から纏って、手にも袋をかぶせ、輪郭は茫洋としている。足元には痩せた牧羊犬が一頭、ひどく哀れに健気についてきていた。
先頭のひとりが手に持つのは、ラザロ鳴り子。
粗末な鳴り子を振り、音を鳴らし続けている。
カチカチカチカチ………カチ…カチン…………カチカチカチカチ………
レプラ患者ッ!
人は死後、誰しもが……否や、聖人以外は、神と相容れぬ罪を焼くため、煉獄へと堕ちる。
その煉獄の炎に、生きているうちに焼かれる人間がいるのだ。
まさに神の恩寵であり、死後、天国へ早く昇らせんとする慈悲である。
地上ありながら魂は天国近く招かれ、しかし肉体は煉獄に堕とされる。人間の輪郭が無くなるまで。
聖なる魂を、穢れた肉体に宿すもの。
生きながらにして、弔われしもの。
生者としてのあまたの権利、法廷での証言も、財産の相続も、契約する権利も、すべて剥ぎ取られし、生きる幽霊、死せる生者。そして忌むべき聖者。
それがレプラ患者だ。
レプラ患者が出歩く折には、周囲の人間を煉獄に感染させぬため、無言のままラザロ鳴り子を鳴らして警戒を促す。
離れろ、離れろと、煉獄が通ると、声ならぬ聲で示す。
もし近づいたら、俺も煉獄の病に染められてしまう。
レプラは空気によって感染するのだ。
あの旅人たちに近寄るどころか、通り過ぎた後でさえ悪夢だ。
カチカチカチ………カチ…カチ……カチカチカチ………
近づいてくる、近づいてくる。
迂回せねば。
街道を少しばかり戻り、踏み固められた道から外れて、灌木と苔を突っ切るか。ぬかるみや狼が俺を阻もうとも、野盗が襲って来ようとも、煉獄より恐ろしくはない。
カチカチカチカチ………カチッ…カチッ……カチンッ……カチカチカチ………
生命の無い音が近づく。
追いつかれぬように、俺は城へと踵を返した。
だが、阻むように、道に影が伸びながら落ちていた。
「やあ、やあ、やあ! こんな夜更けにお散歩とは、詩作でもしてるのかな?」
矮躯が馬に跨っていた。
諧謔的な微笑を噛み、俺を見下ろしている。
見下すように。




