24話 救いの藁
俺がいたころの礼拝堂では、敬虔な者たちの祈りや相談が絶えず続いていた。そして準騎士たちがラテン語を学び、心地よい聖書の匂いが漂っていたのだ。あの何度も捲られ、薄くなり星霜の白を誇る聖書の馨しさ。
だが、今は、閑散としている。
静けさの中心に、トーマシン卿がいた。
亜麻色の長い長い髪を垂らして、祭壇に祈りを捧げている。
銀のトークンのついた水晶のロザリオが、祈りひとつ繰られるたび、涼やかな玉響を立てていく。
清浄な雰囲気。
敬虔な空気。
だが、トーマシン卿が身にまとっている衣服は、昨夜と変わらぬ。
純白のマントに、裳裾引きずるチュニック。
腰に剣を帯びてはいるが、貴婦人の衣服のままではないか。
………まだ円卓試合の練習をやっているのか?
練習や仮縫いのまま、礼拝堂に訪れるとは不敬にも程がある。女装で礼拝など、いかにも遍歴学徒が好みそうな破廉恥な所業だ。
しかし不敬なものの祈りにしては、彼の雰囲気は静謐だった。
奇妙な気持ちになっていると、ハムブレットはトーマシン卿に駆け寄る。
「ご主人さま。火急ゆえ失礼します。高価な落とし物を拾いました」
「あたくしは何も落としていないけど………何かしら?」
ハムブレットは黄金の指輪を差し出す。
礼拝堂の蜜蝋たちに照らされ、指輪は物言いたげに煌めいた。
彼は少し目を見張ったが、高価なものを見れば誰でもこんな反応するだろう。
「ずいぶんと古い細工ね。径からして紳士物かしら? あのちびのものなら、大きすぎるわ。若君だったら、落としたのを棚に上げて、盗まれたとか言い出しそうじゃなくって?」
言いそうな気がする。
トーマシン卿の紫の眼差しは、指輪をまじまじ見つめていた。
老商人の持ち物とさえ知らぬのか。
ではトーマシン卿はサースタン・ウォーターズに会ったことはない?
「ジェイデンさまが見つけたんです」
トーマシン卿は俺を一瞥した。
「赤毛の女性が持ち主かと思うんですが、親しくない婦人へ落とし物を持っていくのも無作法かと思うんです。それに誰かからの贈り物だったら、とても気まずい思いをさせてしまうでしょうし」
「そう。そうね、この指輪の太さからして、殿方の指でしかおとなしくならないでしょうしね。あたくしが確認しておいてもよくってよ。ミカエル祭なのに荘園官の手を煩わせるのも悪いでしょう」
ほぅと、ため息で言葉を結ぶ。
一拍、沈黙を経て、紫の双眸は俺を見つめた。
「具合はどう? もう一日くらい横になっていた方がよくってよ」
「万全とは言い難いが、そこまでの心配は無用だ。湯殿の礼を申し上げる」
「頑丈ね」
トーマシン卿は俺から視線を逸らして、沈黙を食み、幾拍かの後で唇を解いた。
「ジェイデン。悪かったわね」
「……謝罪を受ける理由が分からぬ」
「若君の前に引きずり出して」
その件か。
「メアリの血縁だと思ったけど、まさか息子とは思わなかったのよ。ユーグ卿も言ってたけど、あたくしもメアリの息子は十五歳くらいだと誤解していたわ」
不意打ちに聞かされた母の名に、舌が痺れと渇きに侵される。これは怒りと戸惑いだ。
母の名を容易く口にしてほしくはない。
とはいえこのトーマシン卿は、遍歴学徒や傭兵たちと比べてまともな言動だ。俺の怒りが抑えきれぬわけではない。
礼拝堂に鐘が鳴り響く。
聖具係が鳴らす鐘は、雨上がりの空気を鈍重にかき回し、震わし、波紋させていく。風さえぬかるむ夕べに、鐘の余韻は長く、重々しく、どこまでも途切れぬ尾を引いた。
ああ、もう夕餉の刻か。
「トーマシン卿。指輪の持ち主が誰であれ、俺の名を伝えないでいただきたい。拾ったのはハムブレットだと」
「ええ。もし持ち主が若君でなくても、あなたに嫌疑を吹っ掛けそうだもの。あなたのお礼なら、あたくしが介しておくわよ」
俺がエドマンドの若君を恐れていると思われたのか。
アミーリアに俺の存在を知られたくないだけだ。
「感謝する、トーマシン卿」
トーマシン卿は水晶のロザリオを腰に下げ、祭壇に飾っていた銀のブローチを手に取る。
蜜蝋のともしび受けて、銀のブローチは輪郭が際立つ。
あれは聖クリストフォロスの彫金がされたブローチか。旅の騎士が持っていそうな装飾品だ。
黄金の指輪は、銀のブローチと共に革のポーチへ入れて鍵を閉めた。
そして裳裾を引きながら立ち去る。
去った後、礼拝堂は静けさに満ちた。
これで指輪の持ち主が判明すれば、州長官に報告できる。大手を振って踏み込める。
考え込んでいる俺に、ハムブレットは不思議そうに見上げてきた。
「傷が痛みますか?」
「ああ、いや。そうではなくて………何故、トーマシン卿は女物を纏ったままなのだのだ…?」
問いかけた途端、率直な瞳は揺らいだ。
動揺であり、悲しみの色。
「我が主はまことに由緒正しき騎士ですよ。神と大天使ミカエルと聖ゲオルギウスの名のもとに叙任されたのです」
「………それはさっき伺った」
「………騎士なのです。お召し物がどうであれ、あのお方は騎士であるのです」
「洗濯婦の手入れが必要な状態かもしれぬが、俺に服を貸し出すくらいなのだから、トーマシン卿とて借りればよいではないか」
農民なら夏のチュニックと冬のチュニックがあれば上等だが、トーマシン卿は騎士だ。
たとえ替えの服がなくとも、ユーグから借りればいい。俺が今、袖を通している深い青の服以外、鮮やかな臙脂や落ち着いたマルベリー色もあった。
トーマシン卿の体躯は華奢だから身丈に余るとしても、針と糸で詰めれば着れぬことはない。少なくとも貴婦人のチュニックより相応しい。
「我が主は貴婦人のお召し物しか袖を通しません」
「円卓試合で姫君役しか演じないのか?」
それは風変わりな騎士だな。
「………円卓試合?」
ハムブレットの呟きが濁る。
まるで苔と泥で蠢くうなぎのように。
「この城で円卓試合が行われたのではないのか? だからトーマシン卿が姫君の身なりをしているのだろう」
「そういう解釈ですか、ああ、そうですね。それなら誰しもが納得するでしょう。ですが円卓試合なんて催しはされてないのです」
円卓試合ではない?
「では何故、婦人のドレスを纏っている?」
「我が主は常日頃より、貴婦人のお召し物しか袖を通さないからです」
さっきと同じ言葉だった。
いや、常日頃?
「………ずっと?」
「………はい、ずっと」
「まさか普段いつも、あの貴婦人の身なりだと? そういう意味か? 元から持っていない?」
「そういう意味です」
「旅路も? ミサも?」
矢継ぎ早の問いに、ハムブレットは頷く。頷くというより項垂れる。茎が傷ついた若芽のように。
「はい。ご覧の通り礼拝であっても晩餐であっても、我が主の衣装は貴婦人のままです」
「鎧兜は? 失ったのではないのか?」
「お持ちになりません。元より、お持ちではないのです」
「は?」
………狂っている。
俺の感想を口に出せば、この率直な小姓は曇るだろうが、それ以外にどう語ればいいのだ?
騎士とは、戦えなくばならない。
何より纏うものこそ気高さを示すのだ。
鎖帷子は悪徳と惰弱から騎士を守りし象徴。
兜は不名誉から騎士を守りし象徴。
陣胴服も顎当も籠手も鎖靴も拍車も、ひとつひとつ気高き象徴が宿り、騎士の魂と血肉を守る。
そして十字架の敵を打ち砕くために剣を持つのだ。
なのに鎖帷子も兜も持たぬだと?
「それでも………それでもあのお方は、まことに由緒正しき騎士なのです。スカーバラの地において神と大天使ミカエルと聖ゲオルギウスの名のもとに、騎士として叙任されたのです………」
ハムブレットは聖句のように繰り返す。
それだけが救いの藁であるかのように。




