20話 インク壺には誤字の悪魔が棲んでいる、あとかたつむり
法廷館に足を踏み入れた。
石造り壁には、採光のための大きな窓が続いている。
インクの金属的な甘ったるい匂いと、焼成したばかりの羽根ペンの匂い、それから羊皮紙の脂の匂いが混ざり、鼻孔を刺す。
懐かしい。
不意に、茶色い髪の若者が目についた。
俺の動きは固まり、足が止まる。
「ジェイデンさま?」
「……ああ、知り合いに似ているが、違った」
レナルドではない。
ただレナルドに似た若者がいただけだ。
そもそも騎士を目指すならば筆耕せぬし、レナルドは俺よりひとつ上。羊皮紙と向かい合っている若者はまだ十代だ。
修道院で学んできたばかりといった溌溂とした若さだ。ラテン語ではなく罫線を書かされて不服そうにしている。
髪や瞳の色や姿勢が似通っているだけで、レナルドだと思うとは。
俺から友と呼ぶには身分違いだが、敬意を抱き友情を感じる相手だ。
今、会えたらどれほど心強いだろう。
どうも己は内側に抱える懐古で、瞳が曇っているようだ。知り合いが誰もいないと知らされて、どこか心細くなっているやもしれぬ。
法廷館で働く書記たちは、俺にとって覚えのない相手ばかり。
顔を見て会話を交わせば思い出せるやもしれぬが、誰しも皆、目まぐるしく働き、声を掛けるのは憚られた。
当然の忙しさだ。
ミカエル祭の前には、各荘園からの地代の受け取りの書類を綴る。
ミカエル祭の定期市が行われる三日間は、行商人裁判所で人が駆り出される。
そしてミカエル祭が終われば、荘園裁判所の開始だ。
裁判と税収のための書類複写が大詰めになっている。
ハムブレットはきょろきょろしていた。物珍しげだ。
「ここのミカエル祭、ものすごく忙しそうですね。僕の故郷じゃ、もっとまったりしてましたよ」
地代が少ないのでは?
うっかり零れそうになった無神経な発言を飲み込む。
「シャルウッドベリでは慣習法として、ミカエル祭前の水曜が地代支払いの締め切りだ。今年は特に切羽詰まっているのだろう」
今年のミカエル祭は木曜だ。
税収と定期市が重なって、通年よりも忙しいのだろう。
各荘園から書記や代官が集まって、税を記していた。
ご領主さまは十二の荘園を抱えて、年収500ポンドを得ていらっしゃる。記する文字も尋常ではない。
「地代。東荘園がちょう XVIII羽、西荘園がちょうXVII羽……」
算盤を弾く書記たち。計算結果を蝋板に書き込んでいた。
奥では複写も行われている。
書記やその見習いたちは、左手の削りナイフで羊皮紙を押さえ、右手の羽根ペンで羊皮紙を引っ掻く。額にインクを跳ねさせ、指を真っ黒に染め、一心不乱に複写している。ときおり硝子パンで、羊皮紙の脂を削る。
誰も彼もが乾き砂を撒いているものだから、空気までもが乾ききって黄ばんでいた。
集中を保つために、書記の何人かは牛のようにヘンルーダを噛んでいる。そのせいで乾ききった空気に、苦み走った匂いさえも混じっていた。
本来なら貴婦人は参加なさらない複写だが、よくマーガレットさまは手伝いをなさっていた。将来、城の奥方としての経験を付けるために。
けして老商人の後添いになるためではないのだ。
怒りの火種が、ぱちんと火花を散らした。
腹の底から湧く、衝動。
「ぅうう……!」
急に書記のひとりが呻き、俺は現実に引き戻された。
書記が十字を切っている。
「誤字の悪魔を退治せねば」
削りナイフを砥石で調整していた。
隣の書記も似たような状態だ。
「この過ちは我が罪でなく、誤字の悪魔なり。我が羊皮紙より去りて、Eを返したまえ」
「誰だ、硝子パンの屑を落としたやつは。誤字の悪魔が拾って袋に入れるぞ!」
「いるんだ、このインク壺に! 誤字の悪魔が! インクを舐めてる! でなくばどうしてここまでインクが減ろうか!」
「おい、なんだ。このかたつむりの落書きは」
「我がペンが誤字の悪魔に乗っ取られましたァ」
かたつむりか。
鵞ペンと羊皮紙の具合を確かめるために、隅でぐるぐる試し書きするものだ。そのの無意味な渦巻きに角をつけ、かたつむりにする衝動を誰が止められようか。俺もかたつむりをよく描いた。
忙しさが極まっていく中、若い助祭が立ち上がる。腕まくりしている手には、インクの染みがホクロのように点在していた。
「自分の分、終わりました。インク補充される方、聖水を撒きます」
助祭の呼びかけに、書記たちは顔を上げる。
「祝別お願いします」
「ありがとうございます、清めをお願いします」
「軽石ッ!」
誰かが悲鳴を上げた。
文字削りナイフではなく、軽石を使うとなれば一行飛ばしの失態だろう。
傍らにいるだけの俺でも、背筋が凍る。
それほどの量では、誤字の悪魔の袋がさぞ重くなっている。
誤字や脱字を集められた悪魔の袋の重さは、そのまま人が地獄へと落ちる重さだ。誤字は罪。あまたの聖人に祈り、神に許しを乞わねばならぬ。
書記たちが「ティティヴィラスよ、去れ! サタンよ、去れ!」と合唱した。若い助祭が部屋に聖水をまき散らしていく。
「………相当、切羽詰まっていますね」
ハムブレットの呟きに頷いていると、優しい衣擦れが鼓膜に触れた。
やってきたのは、司祭さまだ。
とんでもなくお年を召している。
丸っこい顔は皺が刻まれているが、肉付きも血色もよい。赤ん坊がそのまま老人になったような顔つきだ。
折れ曲がった腰に、ゆったりとした僧衣を引きずって、ふるふる震えて歩いていた。
震える右手には真鍮の聖水杓。もっと震える左手には真鍮の聖水桶。
この方が代理をなさっている先任司祭さまか。
……八十どころか九十に届くのではないか?
血色からして健康に問題はなさそうだが、手つきが怪しい。目つきの焦点はもっと怪しい。
「聖水、撒こうねぇ」
抜けた歯が多く、声もふにゃふにゃとしている
老司祭さまはぷるぷる震えつつ、儀礼的に聖水杓を振り回す。
水晶めいて舞う飛沫。
ヒソップやヘンルーダが香る水滴だ。
聖水の飛沫ひとつひとつは尊いのだが、書記たちは蒼褪める。自分の書きかけの羊皮紙が濡れぬように庇った。
止めようにも、まさか司祭という尊き方から、聖具を奪うなど出来ようはずがない。
大惨事だ。
「ラムウォルド司祭さま! おお、聖水壺が空ではありませぬか。わたくしめが替えをお持ち致します」
助祭が如才なく駆け寄り、まだ聖水の入っている聖水桶を受け取る。
茶色い髪の若者も駆けつけてた。
笑顔を装って、老司祭さまの手を取る。
「さあ、ラムウォルド司祭さま。大広間で食事の祈りを致しましょう。みなさまがお待ちですよ」
「ごはんのお祈りかい。早く言いなさいなぁ、ライオネルさまやベアトリスさまをお待たせさせられないねぇ」
ライオネルさまはご領主さまのことだが、ベアトリスさまとは誰だ……?
疑問は瞬時に答えに転じた。
思い出した。ベアトリスさまはマーガレットさまのお母上の名前だ。エドガーさまをお産みになられて、儚くなった貴婦人。
「ええ、おふたりとも首を長くしておられますよ。さぁさぁ参りましょう」
若者が晴れやかな愛嬌で、老司祭さまを丸め込む。
「急ぎなさいな。マーガレットさまにまた怒られるじゃないか」
次に老司祭さまから零れたのは、俺が世俗的崇拝を捧げたマーガレットさまではなく、マーガレットさまの祖母のことだ。エドマンドさまを溺愛していた祖母君。
引退なさった老司祭さまは、もはや過去の夢路に生きておられるのか。
「なんともお労しい」
「司教巡察でめちゃくちゃ叱られそうですね」
ハムブレットの言葉は、現実そのもの。
夢路の名残りも吹き飛ばす。




