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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
猟犬の武勲譚
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19話 陛下直属司法部隊、武装法廷トレイルバストン


 中庭(ベイリー)へと降りれば、雲が薄く間延びして、雨は途切れていた。かすれ模様からは日差しが差し込んでいる。午睡を誘うような、掴みどころのない光だ。

 雨上がりを歩いていく。肩にかかる空気は重く、足に纏うぬかるみはなお重い。

 地面が踏み固められていないせいだ。導水路を浚いもせぬのかあちこち詰まり、水はけが悪化しているのか。城の裏方の手入れがここまで悪いとは、奉公人たちも不自由極まりないだろう。

 体調も足元も何もかも重く、ここまで来るのに相当の時間かがってしまった。

「ジェイデンさま。足元、大丈夫ですか?」

「倒れるほどではない。きみこそ平気そうではないが?」

「僕、体力はあります」

 ハムブレットは短足で不器用に歩き、俺についてくる。

 言いつけ通りに俺に付き従っているのだから、追い払うのも不憫だ。

 門をひとつ超える。

 養魚池の周りは特にひどいぬかるみだった。

「ハムブレット。きみはここで待機してくれ。何かあったら、声を掛ける」

「畏まりました」

 ハムブレットの素直過ぎるほどに素直な視線は、果樹園へと向かっていた。

 もうりんごが熟している時期だ。

 育ち盛りの少年が誘惑されるのも無理はない。

 もしかしたらジャスパーも、りんごで腹を膨らませているかもしれない。

 俺は袖の長垂れ(ティペット)を腕に巻き付け、硬い藪と鋭い荊を掻き分け、朽ち果てた調薬小屋に向かった。

 昔はいつも清潔で整って、種火は肥えていた。

 だが今は、崩れかけた壁から西日が差し込み、雨上がりの湿気も入り込んでいる。呼吸すると肺まで湿りそうだ。

 もう見る影もない。

「……ジャスパー」

 呟きは薄暗がりに呑み込まれ、反響さえなく余韻も失せた。

 人の気配はない。

 調薬小屋ではなかったのか?   

 ではどこに……


「父さま」


 奥まった暗がりから、途切れそうな声が響いた。

 俺の狂おしい期待が生み出した幻聴ではないか。そう疑うほど弱々しい。

「ジャスパー」

「いけません!」

 一歩前に踏み出した刹那、鋭い制止が飛んできた。

 剣の一振りめいて鋭く、俺の足は反射的に止まった。

「こちらへ近づいては、いけません。足の踏み場が悪い上に、嵐の後めいた散らかりようです。ぼくみたいに小さくて慣れている者なら兎も角、父さまは怪我をなさいます」

「気を付ける」

「その真新しい服が汚れては、不審がられます。ああ、お願いです、どうかそこにいてください。ぼくからはあなたの姿がよく見えます。素晴らしい身なりです。母さまに相応しい騎士のようです」

「借り物の身なりだ」

 呟きが自嘲を含んでしまう。

 銀の飾りボタンが輝く流行の服など、長弓兵が着ても滑稽ではないか。

「ジャスパー。砂糖菓子を持ってきた。バグダッドの菓子だそうだ」

 きっと喜んでくれる。

 俺はエドガーさまやジョンが、菓子や果実を幸せそうに食べている光景を思い出す。きっとジャスパーも喜んでくれるだろう。

「ありがとうございます。でも、ぼくはさっきりんごで腹を満たしました。満ちた以上に食してはなりません。そこの棚に置いておいて下されば、また夜明けに頂きます」

 ジャスパーの年頃で、りんごだけで腹が満ちると思えない。

 そもそも火を通してない果物は身体に悪い。この環境そのものが悪い。

「ジャスパー。こんな水気が乾かぬ影で休んでいると、身体まで湿ってしまう。出よう」

「奥は乾いているから平気です。土と薬草の匂いが籠っていて、ぼくは好きですよ。それにここは猟犬たちに嗅ぎつけられない」

 調薬小屋の残骸は、雑草や薬草の匂いが染みついている。

 だから猟犬たちが誤魔化されて、ジャスパーを捕まえられないのか。賢い隠れ家だ。

「さっきエドマンド伯父のご様子を窺いました」

「そんな無理を……」

「無茶でも必要でしょう。伯父は正餐も大広間でなく自室まで運ばせているようです。あの調子ではしばらく部屋から出てこぬ。それどころか誰とも口を利かぬと、奉公人たちが噂していました」

「自室に籠り切りか」

「侍医だけは出入りしている様子でした。ただサビナの漿果を焚くためで、会話は無い様子です」

 ひとが少なくなった時刻を見計らって、自室へ忍び込む。

 殴って気絶させ、ご領主の手紙を完成させる。

 周りの人間からは、恨みゆえの報復だと映るかもしれん。そして母の元に急ぐと、城を抜け出してミカエル祭の行商たちに紛れてしまえば……

「父さま。これを申し上げるのは、負担になるかもしれません。でもお伝えした方が……」

 躊躇いがちな呼吸が繰り返される。

 嫌な切り出し方だ。

「何か問題が起きているのか?」

「州長官の密偵が話しているのを小耳に挟んだだけで、確実ではないのです。でも、どうやらエドマンド伯父の横暴が、議会に伝わってしまったらしいんです」

「王のお耳に……!」 

「『武装法廷(トレイルバストン)』が動きます」

 瞬間、息が止まった。

 その単語を受け入れるのに、俺の肺腑や血肉は脆弱過ぎたのだ。

「……トレイルバストン………陛下直属の」

 イングランド最強の超法規的司法部隊、武装法廷トレイルバストン。

 存在そのものが王の意思。

 スコットランド遠征での軍事裁判の苛烈さを、そのままイングランドに持ち込んだ王の剣。

 州に入ったその瞬間から裁判が始まり、罪人を吊るしながら通り過ぎていく。

 トレイルバストンが訪れれば、ユーグたちの悪徳騎士など一掃される。領主権があろうが踏み込み、相手が何人いようが、どれほどの猛者であろうが絞首刑にしていく。 

 我らが長脛王(ロングシャンクス)は、違法を許さぬ。

 そして無能も許さぬ。

 どちらも王にとっての反逆だ。

 エドマンドの若君の違法と無能が明るみに出れば、もはや酌量の余地はない。ご領主さまは病気で伏せ、エドガーさまは未成年。

 統治能力の欠如として、シャルウッドベリはお取り潰しだ。

 シャルウッドベリが終わる。

 征服王より古き名門が廃される。

 ぞわりと、悪寒が這い上がってきた。背中から首後ろまで、冷や汗が結ばれていく。

「急がねば」

 司法武装隊の先触れが州に踏み込む前に、毒殺事件を片付けなくては。

 州長官のギルス・ファウラーの裁きならば、処されるのは毒殺犯のみだ。

 だがトレイルバストンに処された貴族は、一族ごと反逆者の烙印が押される。マーガレットさまやエドガーまでも、汚名を着て、財産は国庫に没収される。

「父さま。無理になさいませぬように」

「分かっている。お前を母の膝に戻さねばな」

「……父さま、晩課には会いに参ります。ごめんなさい、もう眠くて……」

 夜、活動するために、この湿った暗がりで寝ていたのか。

 もしかしたら眠さに囚われて、ねぐらから出られぬかもしれぬ。

 小さな子供はいくら食べても足りぬが、寝ても足りぬ。エドガーさまは目が冴える性質であったが、ジョンは疲れたり興奮したらすぐ眠っていた。

 調薬小屋の外から物音が響いた。


「わーっ、わーっ」


 外から響く悲鳴。

 なにやらハムブレットが大騒ぎをしていた。

 行かねばなるまい。

「ジャスパー。起きたら菓子を食べるといい。ここに置いておく」

「……ありがとうございます」

 息子と別れるのに接吻もしてやれぬのか。

 しかしまともな父親として接するのも、気が引ける。

 つい最近、ジャスパーの存在を知ったばかりだというに、赤子の頃から愛していたように振る舞うのも、面の皮が厚いのではないか。

 ああ、若君(エドガーさま)と異父弟(ジョン)をあれほど世話をしていたというのに、息子(ジャスパー)を慈しめなかったのだ。

 俺の愚かさが、俺自身だけでなくマーガレットさまとジャスパーに不遇を齎した。

 後ろ髪を引かれつつ、服を汚さぬよう調薬小屋から出る。

 大騒ぎしているハムブレットはどこかと思えば木の上だった。

 ハムブレットは木登りには不適格な手足を使いながら、大きなりんごの木に登っていた。

 その根元には、凶悪そうな雄山羊が一頭。その巨体でりんごの木にぶつかっていた。

 草刈りのために飼われている山羊か。

 山羊は羊より小賢しい。

「ハムブレット。山羊にりんごを投げ与えてやれ」

 手を伸ばして、赤いりんごをいくつも地面に投げる。

 雄山羊はハムブレットを一瞥し、りんごを食べる。

 ハムブレットはするすると降りてきて、雄山羊から離れた。

 ちゃっかりと自分の分もりんごをもいでいた。己の頬より赤いりんごを服の裾で磨く。

 愛嬌のいい笑顔になる。

「ジェイデンさまもりんご召し上がります?」

「……ありがとう」

 齧れば、渋く爽やかな水分が口に広がる。秋の霜の味だ。

 ジャスパーとりんごを食べたかった。

 益体もない希望を描いているのも無為だ。

「ジェイデンさま。何かあの小屋に残っていましたか?」

 率直な瞳が、俺を見上げていた。

 この子は善良だ。母のメアリにも恩義を感じている。あそこにメアリの孫がいるとハムブレットに教えたら、世話を申し出てくれるかもしれない。

 だが、この小姓は表情も動作も、あまりにあっぴろげだ。

 遠からずエドマンドの若君にまで知られてしまう。

 ジャスパーを憎悪に晒したくはない。

「いや、ああ、俺の思い入れだけだ」

 俺は後ろ髪を引かれつつ、法廷館へと足を伸ばした。 

 求めるのは指輪。

 エドマンドさまからお借りする算段も考えたが、公印を安全に借りられるならそれに越したことはない。



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