18話 小姓ハムブレット・ボークワイン
独りきりになった小部屋で呼吸を繰り返す。深く、浅く、また深く。
脇腹はまだ、痛む。
……回復には遠いが、ジャスパーが気がかりだ。
手のひらに残る砂糖菓子のかけら。これひとつでもあの子の足しになるだろうか。
俺の荷物は、櫃の横に転がっていた。
古びた筆記用具。鐚銭。それと薬草酢入れ。
隠してあったご領主さまの一筆は無事だ。
ほっとする。
だがすぐ人の気配が近づいてきた。
「失礼します」
さっきの小太りの小姓だ。ハムブレット・ボークワインといったか。あのトーマシン卿の小姓。
「ユーグ卿から、あなたのご用事を伺うように命じられました」
俺に飲み物を出してくれた。
革製のジョッキに満たされていたのは、生姜入り蜜酒だ。
すこぶる濃い蜜酒だ。舌から頬まで豊穣の甘さが染みわたり、じわじわと俺の髄まで染みていく。
さっきの菓子とこの蜜酒で、十年分の甘さを摂ったやもしれぬ。少なくともスコットランドで戦っていた時代より、今日一日の方が甘味を味わった。
ジョッキを眺めていると、ハムブレットが僅かばかり近づいた。
俺を見つめている。
率直な眼差しだ。
怯えと覚悟と従順、それから興味と優しさ。なにもかもが瞳に映る。
城で働くには、裏表がなさすぎる。哀れなほどに表情豊かな眼差しだった。
「おなか減ってます?」
否定しようとする前に、ハムブレットは口を開く。
「正餐はビザンツ風の串焼きに、パリ風の野兎煮込み、あと鶏肉のシナモンスープに、梨の砂糖煮でした。僕ら下っ端は、レンズ豆のハーブ煮込みと焼きりんごでしたけど。厨房に走れば、何か残ってるかも」
……正餐が終わっている?
「今の時刻は?」
「九時課が終わって、いくばかりかといった感じです」
俺は夜明けに気絶させられて、九時課過ぎても気を失っていたのか。
だいぶ長く気絶していたようだ。幾多の戦場で矢傷を負ったとて、これほど伏せはしなかった。
深い眠りだったのは、もしやこの小部屋だからか?
俺の懐かしさを誘うがゆえに、長く途切れず眠っていられたのやもしれぬ。
小姓は、もうちょっとだけ俺に近づいた。
じっと俺を顔を見つめている。
「ジェイデンさまはメアリさまによく似ておいでです」
「母を知ってるのか?」
「はい。僕を手当してくださいました。僕、粗忽で、この城に来る前に怪我をしてしまって、メアリさまが傷を洗って、ベトニーの軟膏をぬってくださったんですよ」
彼は丸い頬を笑みで膨らませた。
幸せな記憶を頬張るような笑い方だ。
「とても大変な境遇なのに、僕まで気にかけて頂いて。善きご婦人でした。むろん天上から祝されるご婦人ですが、地上でも報われるべきではないでしょうか。だから……ジェイデンさまはきちんと養生して、早くお母君の元に戻られるべきです」
眼差しと等しく、純真な語り口だった。
「それに姫君とも親しいと……」
そこまで言いかけ、ハムブレットは丸い顔を赤らめた。唇を結んで項垂れる。
「すみません。差し出がましいことを………」
「いいや、きみの言う通りだ。きみから語られた言葉の正しさにも優しさにも、ひとつの瑕も無い」
俺が穏やかに伝えれば、丸い頬を緩ませる。
「では養生しましょう」
「……ああ、いや、だが、俺の知り合いがいないか見て回りたい。それと俺の育った場所も。うろついてはきみが叱られるか?」
「ユーグ卿はあなたの好きにさせればいいとおっしゃってました。馬鹿若君はどうせまだ寝床です。引っぱたかれたから悔しくて、寝込んでいるってみんな言ってましたよ」
小姓にまで見下されている。
なんたる事態だ。
正統な跡取りが侮られるなど、シャルウッドベリの威信が地に落ちているではないか。
お味方は少ないのか。
……エドマンドさまを一発殴るふりして、どさくさまぎれに印章指輪をお借りして、城から逃げられないだろうか?
エドマンドの若君に殴り負けはしないだろう。
だが印章指輪の紛失は騒ぎを招く。悪徳騎士と猟犬の蔓延る城から逃げられやしない。
となれば手段はもうひとつ。
法廷館にある公印。
公印など私印に比べれば格落ちだが、この際、やむを得ない。
あれを借りて一筆に押し、ジャスパーを見つけて、こっそりと城から逃れる。
ユーグ・ドゥレートルは蝋燭を好きにしろと言った。
日が落ちて昏くなるまで、小部屋まで覗きにこれぬ可能性が高いのだろう。
仮り初めの自由の中、俺は成し遂げるしかない。
脚衣がきつい。
締め付けられすぎて、太ももやふくらはぎが腸詰になった気分だ。殴られた胃と、締め付けられた脹脛は歩くたびに違和感が凄まじいが、それでも小部屋を出た。
閑散とした廊下を歩き、階段を下りる。
階段のすり減りさえ懐かしいが、あちこち改修されていた。仕切りが増え、廊下部屋がいくつかある。
十年経てば、あちこち変わって不思議ではない。ジャスパーに連れられて真夜中に通った折、見知らぬ城と感じたのは、この改修のせいだな。
今、同行しているのは息子ではなく、小姓。
ハムブレットは太く短めな両足で、えっちらほっちらと階段を降りてくる。
「ところでハムブレット。城付き司祭が、遠くまで巡礼中と……城下のウワサで小耳に挟んだが、この城における魂の平穏は、今はどなたが担っておられるのだ?」
「なんでも先代の司祭さまらしいですよ」
「先代の………?」
呟きをシャベルにして、古い記憶を掘り起こす。
俺が五歳くらいの時までいらっしゃった司祭さまか。
エドガーさまやマーガレットさまを洗礼された方。
たしか俺が読み書きを習うようになる前に代替わりされたので、もうずいぶんとご高齢ではないのか?
「よく呼び戻したものだな。ご老体だろうに」
「なんでもあの若君はですね、『老いた聖職者に最後の大仕事として、我が城の礼拝堂という静かな場所を提供して差し上げたのだ。これは慈善である』とかなんとか言ったそうですよ」
「異を唱えにくい……!」
司教区の許しがある司祭かつ、巡礼中の代理としてなら修道院も怪訝に思わぬ。
どれほど年老いた司祭であろうとも、司祭は司祭なのだ。
引退された司祭が教区変更されていなければ、教区へ一時的な代理として知らせるだけで手続きが終わる。
現司祭を巡礼を名目にして追い出す手際といい、先代司祭に留守を任せる発想といい、エドマンドさまにしては巧みに世間体を取り繕っておられる。
あの遍歴学徒の入れ知恵か?
「弓兵長のロジャーはいないのか? 鼻でかのトマスと足でかのトロルド、両利きベネット、ねじり耳のジョージ。騎士のユースタス卿や……」
俺が並べた名前たちに、ハムブレットは首を横に振った。
幼い頃からよく知った名を否定されると、不安感が滲みだす。
若君を見限ってよその荘園に移るものも少なくないだろうが、誰もいないなんてことはあるのだろうか。
「鍛冶場には誰がいる? オズウェンと弟子のラルフではないのか……?」
「僕、鍛冶場には行かないんです」
「トーマシン卿はきみを遣いを出されぬのか?」
驚きを抑えて問う。
剣や鎖帷子、あるいは馬の蹄鉄、狩りの矢じり。鍛冶は騎士と分け隔て難い存在だ。
小姓は主のために馬の世話や、鎖帷子の手入れをする。鍛冶場にはよく出入りするはずだ。
「ええ。我が主は鎖帷子も兜も持ちません。剣や盾はご自身で鍛冶屋と話し合いますから」
鎖帷子を纏わぬ?
そんな馬鹿な。
騎士として鎖帷子と兜は揃えねばならぬものだ。
………そうか。
円卓試合の前の本試合で、鎧兜は取られたのか?
真剣勝負ならば、鎧や兜は奪われるもの。
それならば合点がいく。
「兜や鎖帷子を持たずとも、我が主はきちんとした騎士なんですよ。今はこんなところに身を寄せていますが、神と大天使ミカエルと聖ゲオルギウスの名のもとに叙任されたのです」
彼の口調や眼差しは素直だ。主に対しての愛着と経緯がある。
あの騎士は悪い主人ではないのだろう。少なくともこのハムブレットにとっては。
トーマシン卿か。
俺を逃がそうと言葉を繰り、婦人への礼節ゆえに若君を叱咤した。悪徳騎士には見えなかった。
どうしてあんな連中とつるんでいるのだろう。
何か悪徳を抱えているのか?
「僕、お酌や肉の切り分け手伝いをしてますから、厨房の方々とは言葉を交わします。給仕長のジョフロアとか肉切り職のブライアンとか。外壁側の中庭は、たまにふすまパンを運ぶくらいですね」
俺は厨房の奉公人とは親しくなかった。
奉公人の名前を挙げられたところで、思い出せぬ。
「厨房以外はあまり用がありませんし、客分の身ですから、あちこち出歩くのも控えています」
「客分?」
「ええ、この城にはかれこれ十日ほど逗留させて頂いております」
「俺の母が十日前にいたのか?」
「いえ、メアリさまに会ったのは、ファリンテウォル女子修道院です。そこで手当てをしていただきました」
「そうなのか。きみの主は、あの矮躯とずいぶんざっくばらんだったから、もっと長くいると思っていた」
ただ思ったことを口にすれば、ハムブレットの瞳が曇った。
「長逗留ですよ。旅路の騎士が三日以上、宿を乞うなんて。もう十日目です」
さらに瞳が曇っていく。
もう瞳の奥は、土砂降りの前兆ほどの曇り空であった。
「僕のせいです。僕、城に着いたら傷の痛みがぶり返してしまって、熱も……どうせならばミカエル祭が終わるまでと、ユーグ卿に勧められたのです。ほんとうだったらカンタベリーまで辿り着いている予定だったのに、我が主がご納得されて」
「では、トーマシン卿はユーグ卿の臣下ではないと」
ハムブレットは弾けるよ
うに丸顔を上げた。
「めっそうもありません。我が主は客として滞在しているんです。スカボローの由緒ある家に仕えております」
トーマシン卿はユーグの部下ではない。
それは曇り空から差し込む光明のような事実であり、いつ曇るか分からぬ事実でもあった。
ユーグは腕の立つ若者を勧誘している。トーマシン卿も勧誘のため、長逗留を薦めているに違いない。
夢と呼ぶにも憚られる途方もない妄執だが、あの美貌と美声は魔力を含む。魂を揺らしてくる。
未知の地など正気の沙汰ではないが、ユーグの夢物語をトーマシン卿はどう受け止めているのだろう。




