17話 空腹は狼を森から出させる
小雨が続く。
秋を出迎える雨は、途切れながらも終わり迎えることはない。今の時刻をますます分かりにくくさせている。
静けさの底で、回廊から足音が聞こえてきた。
「失礼致します。ユーグ卿」
小部屋に入ってきたのは、ぽっちゃりと肥えた小姓だった。恭しく、陶器の卓上膳を持ってきている。
14歳くらいだろうか、血色のいいピンクの頬をしている。
ただその弛んだ体形がペトロニラの金壺眼に映ったら、野菜と魚を食えと小言を突き刺していくに違いない。
肥満は忍耐力を害するのだ。
野菜や魚といった栄養の無い食材で、腹を宥めるしかないだろう。幼い子に魚は良くないが、あのくらいの年齢なら淡水魚が多くても問題はない。
そんなことを考えながら、まじまじと観察してしまう。
小姓は俺の視線に気づいた瞬間、狼と遭遇したように総毛立った。卓上膳を落としかけ、ユーグ・ドゥレートルが事も無げに受け止める。
「や、ひゃ、うわっ!」
小姓は短足をどたどた鳴らして、部屋から飛び出す。
滑稽劇めいた一幕に、ユーグ・ドゥレートルは朗らかに笑っていた。
「ジェイデン。きみが大広間で大暴れを披露したものだから、小姓が怯えているではないか」
「それはすまない」
俺が謝罪すると、小姓はそっと壁掛けの隙間から丸っこい顔を覗かせた。
きょろきょろしてから口を開く。
「ユーグ卿。つい先ほど、マストロピエロさまの護衛のヴィクトールさんが戻ってこられました。女性も連れておられるみたいです。何か話し込んでいるご様子で、我が主は、只ならぬ気配と申しております」
「ありがとう、ハムブレット」
「僕、僕、失礼します」
小太りの小姓は、逃げるように退散していった。
「やれやれ。誰か来たらきみの食事も頼もうと思っていたが、あの子は気が弱い」
残された卓上膳には、葡萄酒の盃。それからヌガーみたいな褐色の板がいくつかあった。
「これはバグダッドの砂糖菓子だ。マクシュファ」
呪文を唱えるように菓子の名を告げた。
その音韻は、現実に告げられたと思えぬほど幻想の響きを含んでいる。
ユーグ・ドゥレートルが両手で割ると、蜂蜜や薔薇の香りがふわりと漂う。
「砂糖と蜂蜜とアーモンドを固めた菓子でな。インドの砂糖だから胃のむかつきに効く」
割った菓子をどちら選べというように差し出された。
施しを受けたくはない。
空腹には耐えられる。スコットランドで戦っている時は、豆の若芽やアザミ、香草を、塩もつけず齧ったのだ。
だが今は俺ひとりではない。ジャスパーがどこかにいる。
万全の体調のため、折れるしかないのだ。彼に折られた砂糖菓子の如く。
屈辱を噛み締め、菓子をひとつ貰う。
すでに苦い恥辱を噛んでいるというのに、甘さがいっきに舌に広がった。
蜂蜜以外の甘露。これは砂糖だ。ペトロニラの滋養シロップの甘さが、奥底から蘇ってくる。
薔薇や胡麻の香りもする。アーモンドを噛み砕いていると、蕩けた蜂蜜が舌に染みていく。
ああ、ジャスパーに食べさせてやりたい。あの子は今、何か食べているだろうか。
あの子は勇敢で目端が利く。
だがまだ子供だ。
食べ盛りの息子が独り隠れていると思うと、香しき甘美も泥や砂利に等しくなってしまう。
「きみのお気に召さんか? 私の祖母の好物だった」
ユーグの祖母か。
バグダッドの美女を想像してしまう。
「祖母は私のための寝物語に、バグダッドの豊かさを謳っていた」
歌うように昔語りを始める。
「キリスト教圏で壁に掛けている布は、バグダッドではすべて床に敷きつめてあった。砂糖を浴びるほどに使われ、香辛料も香しい」
語りながら聖地の菓子を食べる。
匂い立つ、香りと美声。
語り香るその異国さに、この小部屋がバグダッドの宮殿になったような錯覚を抱く。
「誰もが求める香辛料だが、荒々しくも長い船旅で、イタリア諸都市へ渡る時には馨しさはすでに僅かな名残りばかり。ましてイングランドまで運ばれた香辛料など、香気も風味も抜け殻に等しい。膨大にかき集めて使わねば、香らぬほどに」
ユーグは葡萄酒を呷り、大きく喉仏を鳴らしてから、俺を見据えた。
「きみは片田舎で終わる男ではないだろう?」
「勧誘か?」
「若く強い男はいくらいても喜ばしい。特にきみは心強い」
外の世界。
ロンドンまでは行きたいと願ったことはある。そこは否定しない。
だが、それはマーガレットさまやジャスパーを連れてだ。独りで無謀な冒険を願ったわけではない。
「海図なき航路など、俺は望まない」
「残念だ。気が変わったらいつでも言ってくれ」
彼はさして気を悪くした風でもない。
マクシュファを食べ終わると、さっきの小太りの小姓が入ってくる。
「湯あみのご用意を致しました」
小姓が重たげに運んできたのは、お湯入りの水差しと盥。大きな海綿、それから櫛と真新しい亜麻布。あと細々した小瓶や布だ。
「気が利くな。トーマシン卿が命じたか?」
「我が主はご婦人のために戦った殿方は、どのような身分であれもてなすべきだと仰せです」
「彼らしい」
盥にお湯がそそがれ、ふっときめ細やかな水蒸気が広がった。優しい湯気の香りだ。雨水を集めたものか。
暖かい湯あみは、ご馳走や音楽と並ぶ歓待だ。
受けるのも癪とはいえ、小姓が持ってきてくれた心尽くしを跳ね除けるのも心苦しい。またペトロニラだったら、汚れと弱りは瘴気に付け込まれるから身ぎれいにしろと言うだろう。
「僕、お手伝いします」
「俺は奉仕されるべき身分ではない。気遣いは無用だ。ひとりで身体を洗う」
「畏まりました。ではお飲み物をお持ちします。この小瓶には、怪我用の軟膏が入っています。ご遠慮なくお使いください」
顔や手を海綿で擦り、髪に水を通す。
沸かされた雨水が、堀の淀みに汚れた身を清めてくれた。
軟膏からはアグリモニーとベトニーが香る。切り傷用の軟膏だな、上質の脂を使っており、鮮度も申し分ない。あちこちの傷に塗っていく。
「その顔の爛れにも塗ろうか」
差し伸べられた手から逃れる。
「いらん。これはそもそも切り傷用だ」
「ではその爛れに効く薬も用意させよう」
変装のためにクサノオウの乳汁で爛れさせた顔を、まじまじと観察される。
俺がそっぽ向いて櫛で梳いている間、ユーグは櫃から何か取り出した。
引っ張り出したのは、まだ新しそうな肌着に、ずいぶん長い脚衣だ。それから染料も鮮やかなイタリア風の服を何枚か取り出した。まるで貴族か富豪の衣装櫃ではないか。
「身丈も肩幅も、私とさほど変わらんな」
青い生地や赤い生地を俺に合わす。抱えきれぬほどの色彩の渦だ。
「マストロピエロ殿は洒落者でな。流行りの服を色々と仕立てられたが、私には馴染まん。どうだろう、この深い青が似合うと思うが」
それはボタン付きという贅を凝らした服だ。銀の飾りボタンが、胸元や袖に数え切れぬほどついている。
寸法は合っているが、身分に合わぬ。
「袖を通すといい」
肉体が服へ押し込められていく。
屈辱的だが、ジャスパーを探すためだ。裸身では身動きできぬ。
空腹は狼を森から出させるのだ。
織り細やかな布地で、染料もむらのない青。フランドル製だろうか。
だが普段の服と違って、イタリア風の服は、身体にぴったりしていて違和感だ。そのくせ丈が短すぎる。こんな丈の短さだと、すぐに太ももより上が覗いてしまいそうだ。
もちろん脚衣は腰まで届くほど長く、露出はしない。だがこんな見苦しい裾丈が当世の流行りとは、世も末だ。
あと袖の長垂れが鬱陶しい。
長垂れも奇異な装飾だが、袖に小さな切れ目が断続的に入って、金の糸でかがられているのも不思議だ。意味が分からぬ。
「それはボタンホールだ。ボタンをくぐらせると、針と糸もなく服が留まる」
「ボタンの穴? ボタンだけでなく、ボタンを通す穴まであるのか?」
「慣れれば便利なものだ」
ひとつひとつ小さなボタンを、ボタンホールに留められていった。
最新流行の服に息苦しさを覚える。
「俺にも馴染まない」
「いや、なかなかの色男っぷりだ」
華やかに微笑む。
俺はずっと殺意を抱いているのに、どうしてこの男は微笑んでいられるのだろうか。圧倒的な強さゆえなのだろうか。
きっと俺など取りに足らぬのだ。
おそらく俺は母の形代、人形だ。
幼子が兵士人形に名高い騎士の名を与えて遊ぶが如く、俺の容姿から母を見出している。
さもなくば母と己の息子として遇している。
女子供の代用品だから、物珍しく甘い砂糖菓子や美しい染めの服を与えているのだ。
二重の屈辱だ。
俺を流行の服を着替えさせて、ユーグは席を立つ。
「きみに散歩くらい許したいが、出歩くのはお勧めしない。今の体調では、エドマンドにさえ殴り負けるぞ」
「それはない」
「そうだな」
ユーグ・ドゥレートルは楽しそうに笑う。
見る者の胸に清々しささえ与える笑みだ。
彼と敵対している身なのがたまらなく惜しくさえ思うほどに。
「私は出かけるが、小姓ひとりを仕えさせておこう。さっきの子だ。ハムブレット・ボークワイン、トーマシン卿の小姓だ。この城でいちばん礼節が何たるかを知っている小姓だよ。不自由があれば、あの子に申し付けてくれ」
「俺が逃げ出せば、その小姓が罰せられるか?」
「きみは逃げられぬよ。私に殴られてしまえば、たいして身動きできん」
己の拳に大した自信だ。
それが自惚れではないのが苛立たしい。
たしかにこの男の拳を喰らったせいで、胃の腑はひっくり返ってしまった。軍馬に蹴られた衝撃にも等しい。
「蝋燭はここに。火口もあるから、明かりを灯すも消すも好きにしたまえ」
ラッテン燭台には白い蝋燭。囚人に火を自由にさせる看守などいないというに。
彼は楽器を手放し、両手剣を携えて行ってしまった。




