16話 聖なる権利を商うべからず
ユーグは弦楽器をつま弾き、歌ではなく心を語る。
「私は故郷を求めていない。旅路焦がれる心が求めるのは、未踏の地だ」
「イングランドでくすぶっている男が、未踏の地とはな」
「地球は丸いだろう」
不意に会話が斜めに投げられた。
地球は丸い。それは知っている。
我々が地面を丸いと認識できぬのは、神が作り給うた地球の巨大さゆえだ。ただ海原の彼方を眺めれば、水平線に現れる帆船は帆先からしか見えぬ。地球が丸いゆえだ。
月の呼吸で潮の満ち引きが生じるのも、マーガレットさまのお話から聞きかじった。
「自然学か地理の講義を行うつもりか?」
マーガレットさまから伺うならばどれほど長かろうと耳を傾けるに値するが、この男からの講義など真っ平だ。
「さきほどの結論だ。オスマンの勢力が強いゆえに、私はイングランド側から新たなる世界を目指す」
「………正気か?」
未踏の地を、イングランドから目指すだと?
しかも海図なき航路を進む?
狂気の沙汰ではないか。
遥かなる果てへと行きつけるとしても、どれほどの年数と金貨を費やさねばならぬのか。
莫大な資産を要する。それこそ国王自ずから動かねば集まらぬほどだろう。
「……まさかシャルウッドベリの資産を、途方もない妄想のために吸い上げているのか?」
「足しになった」
ぬけぬけと答える。
苛立ちがよぎったが、ある意味、これは幸いではないか。
横領されてしまった財産が、どこかに隠されているのだから。
先立つものさえあれば、領地の復興が叶う。
「足しにはなかったが、まだ足りぬ。船を擁して、長旅の物資を贖うには、シャルウッドベリだけでは足らなすぎる」
「それで貿易商のサースタン・ウォーターズを殺したのか?」
あの老商人の名を呼ぶのも忌まわしい。
だが不意打になる。
不道徳なる悪徳騎士は虚を突かれたはずだが、彼の笑みは詩情に富み、呟きは音楽に満ちていた。
「私が? どうして? 私たちではないよ。きみはこの城が人殺しの巣窟だと思いながら、メアリを案じて戻ってきたのか。いや、だかこそ戻ってきたのか。孝行だな」
「はぐらかすな。あの老商人を寡婦産狙いで殺したのではないのか?」
「ああ、きみは誤解しているな。第一、あの老貿易商の手配で、船や物資を用意している最中だった。船を造らせている。私たちにとっては、あの老貿易商の経験と縁故と手腕そのものも、財産と等しいほど価値があったのに」
嘘をついているように思えなかった。
たしかに彼らが船団を望むなら、サースタン・ウォーターズは欠かせない。成り上がった貿易商だからこその着眼点や駆け引き、それらが必要だ。
だが彼らが殺していないなら、誰が犯人だ?
容疑者がペトロニラになってしまう。
引き下がれない。
「マーガレットさまはエドマンドさまの借金で嫁がれた。さらに金を引きだすなら、寡婦産しかあるまい?」
「いや、まだある」
ユーグ・ドゥレートルはその美貌に相応しいほど魅惑的な笑みを浮かべた。
「これでも私は騎士だ。私が持つもので、彼が欲したものがあった。喉から手が出るほどに高貴を求める商人には、己の全資産を費やしても惜しくないものだった」
謎かけを謳う。
はぐらかしているだけだが、美声ゆえについ最後まで聞いてしまった。
彼が持ちうるもので、老人が欲するもの。
あの老人が欲したのは、年代物の黄金細工。
そして由緒正しき血筋の姫君。
それらと匹敵するほど尊いもの?
目の前の美しい騎士は、微笑みだけで答える気は無さそうだった。
そう、騎士。
騎士そのものが高貴な存在だ。
ゆえに騎士の手と剣にだけ、聖なる権利が宿る。教皇も持ちえぬ絶対の権利。
「騎士叙任!」
俺の叫びに、ユーグの微笑みは深くなる。
肯定の笑みか。
いっそ否定の嘲りを受けた方が心安らかではないか!
「正解だ。あの貿易商は、聖なる身分を望んだのだ」
「馬鹿な!」
騎士の本分は戦だ。
幼児、老人、盲人、聾啞の叙任は禁じられている。
絶対的な第一条件は、戦えるもの。鎧纏いて鞍に跨り剣を振るえねば、騎士になれるはずがない。
「武勇無くして騎士足らず! 騎士叙任は第八の秘跡! 戦士の洗礼式! それを戦えぬ老人、まして商人に授けるなど……!」
「老王はいまだ戦場から去らぬのに?」
「我らが長脛王は若き頃より、戦い続けておられる猛き獅子! 商人などと同列に語るな、不敬な!」
「それでも騎士たる私が戦えると言い切ってしまえば、通るだろう。馬には乗れるのだから」
「欺瞞…ッ! いや、涜聖だ」
それはもはや聖なる権利の売り買いではないか。
神殿で供物商いて両替するのと等しい。なんと忌まわしい。なんと罪深い。
「血筋卑しくも、老いさらばえようとも、男が野望を抱いたのだ。騎士への憧れ、私が叶えられるなら叶えよう。そう思ったのだ」
「野望? 上っ面の栄誉を求めただけではないか。弱きもの、聖なるものを守ろうともせずに、騎士だと? 従者としての奉公を学ばぬなら、騎士の卓越した地位を理解しえぬ! そんな者が新たな騎士を叙任する権利を得るなど、道義に悖る!」
「良いではないか。イングランドは誰でも騎士になれる国だ」
「誰でもだと?」
聞き捨てならぬ発言だ。
まことに誰でも騎士になれるならば、どうしてご領主さまが跡取りを大学へ預けようか。
苦渋の決意だったはずだ。
「少なくともフランスほど困難ではない」
弦楽器をつま弾きながら、自嘲めいた言葉を吐く。
「私より遥かに正義に殉じ、慈悲に満ちた男もいたが、フランスでは父親が騎士でなくば騎士として認められん。血統が絶対だ」
苛立ちは収まらぬが、フランスと比較してしまえばイングランドでは誰でもなれると言われても致し方ない。
むしろ騎士になる条件を満たしていて、騎士を目指さぬのであれば罰金が科される。
「イングランドなら商人も農奴も庶子も、そう、道化師でさえ騎士になれるというのにな」
物悲しそうに語り、言葉は伴奏に縁取られる。
項垂れて銀髪は影を描く。
まるで己の銀の髪を弦に、音楽を奏でているようではないか。彼自身が美しい異国の楽器だ。
世界が旋律に呼応したのか、さらさらと雨が降り始めた。
「イタリア諸都市など特に顕著で、騎士の地位は売買されつつある。商人が富によって、騎士の地位を得るのは珍しくもない」
「戦える素質あるゆえ叙任するのであり、騾馬や鶏でも騎士になれる共和国ではない。ここはイングランド! 王が領ろしめす地。我らが長脛王は、騎士位の売買を許すはずがない!」
「軍事費の調達に手段選ばぬ国王が?」
「それでも長脛王は許さぬ。けして、けして」
スコットランドの前線にいたならば、国王陛下のご気性の激しさを知らぬ者はいない。
議会が御せぬ王、戦場に怯まぬ王。それが我らの長脛王エドワード陛下なのだ。




