↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
猟犬の武勲譚
52/74

15話 ベルセルクの裔



 梁に吊るされた薬草は香り、火にかけられた鉄鍋は歌う。トネリコの薪で盛る炎が踊れば、数え切れないほどの壺や瓶たちは明るい翳と濃い影が模様となる。

 調薬小屋の土間は、心地よさに満ちている。

 ぬくもりが集まる片隅で、金無垢の影と、茶褐色の影が寄り添って遊んでいた。

 エドガーさまとジョンだ。


 ああ、これは夢だ。


 ふたりがシャルウッドベリにいるはずがない。

 まして十年前に別れた幼い姿のままなんて。

 ふたりはタブラ双六に興じている。無邪気なお姿だ。額を突き合わせて盤面を見つめ、頬を寄せ合うように笑っておられた。

 エドガーさまは、父上からの贈り物、ぜんぶジョンと遊べるやつだよ、と嬉しそうにジョンにくっつく。ジョンははにかんでいたが、エドガーさまに手を取られて遊びだした。

 夢中で遊び耽る。

 俺の手はふたりに届きそうなのに、ゆらゆらと掴みどころがない。水を覗き込んでいるような感覚だった。あるいは俺が溺れているのか。

 淡く波紋する思い出の底に、もうひとつ影が加わる。

 その横顔には、金色のそばかす。

 ……ジャスパーだ。

 夢とはなんと不思議だろう。幼いエドガーさまたちと、息子がいっしょに遊んでいる。

 不思議で、愛おしい。

 俺もこの微睡に混ざり、夢とひとつになってしまいたい。


「父さま」


 輪郭がはっきりした呼びかけだった。

 いや、色彩もはっきりしている。

 凛とした緑の虹彩。

 掴みどころのない朧な世界で、ジャスパーの眼差しだけ鮮やかだ。

「いけません、父さま。これは幻想です。ここは幽冥のあわい。常夜(ゆめ)に留まっていてはいけません。早く、現世(あちら)へ戻らないと」

 戻る?

 どこへ?

「救わなければ、母さまを」

 ジャスパーが俺の右手を握る。

 指を欠いた手に、体温が伝わってきた。

 ふっと……幻想が吹き消され、そして………



 




 滑らかで密な板張り床、細やかなバックラム生地の壁掛けたち。それから大きな窓。

 ああ、懐かしい。

 母やジョンと過ごした小部屋(オリエル)だ。

 そういえば昔、あの窓枠にエドガーさまから没収したサイコロを置いた。サイコロ賭博など貴族にあるまじき振る舞いだ。あれは結局、返さなかったな。

 今でも残っているだろうか。

 視線を動かした先に、異物がひとつ。

 

 異境の弦楽器。


 リュートによく似ているが、違う。

 聖地の楽器だと語っていた。

 そう、ユーグ・ドゥレートルが。

「あっ……」

 勢いよく藁布団(バリアス)から起き上がる。

「もう目覚めたか、ジェイデン」

 ユーグ・ドゥレートルが革クッションに座していた。あれはエドガーさまがいらした時によく座っていたものだ。

 罵声を発しようとした瞬間、脇腹が捩じれ、痛みが走る。

「ぐっ……」

 腕を伸ばして、身体を起こした。

 チュニックから脚衣に肌着、手袋に靴までも奪われている。

 まったくの裸身だった。

 脇腹の痛みへ視線を落とせば、どす黒く滲んでいた。

 俺は大広間でこの男と拳を交え、敗北したのだ。一対一で、正面からなのに、負けた。

 ………負けたのだ。

「無理をするな。私に殴られれば、誰であろうと三日は起き上がれんよ。熊でもな。まして二撃も食らったのだ」

 言い返したかったが呻きしか零れない。

 殴られた内臓、そこに連なるすべてが、痛みで軋む。

 それでも上体を起こす。脂汗が滲んできたが、呼吸を深く繰り返して堪えた。

 肝心なのは、俺の荷物。

 ご領主さまからのご一筆はどこにいった?

「きみの服は洗濯婦に預けてある。手袋も、靴もだ」

「荷物は?」

「そこらへんに……ああ、櫃の横だ」

 視線で指し示された先、乾いたイグサ束の上で、俺の巾着袋が開かれていた。

 ユーグの様子からして、ご領主さまから預かった書簡は見つかっていないのか……?

 それとも素知らぬふりで泳がされている?

「血相変えずとも、乾かしているだけだ。価値が高いものといえば薬草酢入れ(ビネグレット)か。これも無事だ」

 荷物を確かめる。

 失われたものはない。

 薬草酢入れは庶民には高価だが、誰も仕掛けをいじっていなかった。

 ただインクやペンといった文具は、抜歯屋の助手には不似合いだ。違和感を抱かれているだろうか。

「どうした? 荷物で無くなったものがあったか? 手癖の悪いものがいたなら、私が引っ立ててこよう。何を困っている?」

「歯磨き粉が融けた!」

 俺は動揺を抑えるため、呼吸より早く即答した。

 無理やりな誤魔化しだっただろうか。かえって不審ではないか。

 ユーグ・ドゥレートルは刹那、虚を突かれたように目を見開き、そして朗らかに笑った。

「そうか、歯磨き粉か。それは大事だ」

 すんなり納得してくれた。

 意外だ。

「メアリも毎晩、磨いていたな。清潔さは美しさに勝る」

 母の名前を軽々しく呼ばれ、毛穴が開くほどの怒りが噴き出す。

 だが俺の肉体は、沸き立つ怒りを発散できるほど回復してはいなかった。拳を握るのがせいぜいで、それを振りかざす力は無い。

「ゆっくり休むといい。粗野な男ばかりとはいえ、母親を想う孝行息子を傷つける不埒者はいない。さ、飲み物を用意させよう。大麦の煎じ湯(プティサナ)に甘草を入れて………ミカエル祭なのだから生姜入り蜜酒(ミード)の湯割りにするか?」

「いらん」

 母から名誉を剥ぎ取ったのは、この男だ。俺がどれほど弱り切っていても、厚意を受け取るなど出来やしない。

 不愛想を通り越した非礼にも、ユーグは笑う。

「意地を張る気合はあるのか。さすがデーン人の血が流れているだけはある」

「……デーン人?」

 それは略奪海賊(ヴァイキング)の民だ。古い古い時代に、イングランドを襲っていた海賊の民。

 もはやイングランドの北東部(デーンロウ)の片隅で微かに息づいているのみ。

「きみはデーン系だろう」

「ばかな……ッ」

 大きな声が脇腹を引き攣らせた。

 痛みで藁布団に倒れる。羽毛の入った枕は俺を受け止めてくれた。

「俺の父親は………その祖父も、そのまた祖父も、ずっとずっと、シャルウッドベリの農奴だったはずだ」

「いや、メアリだ」

 この男が母の名を呼ぶのは、身の毛もよだつ不快感だった。

「あの類稀な美貌は、北の血が混ざっている。透けるほどの白い膚に、緑の瞳。彫りの深く整った鼻筋。まさに北欧の美しさだ」

「母が……デーン人の血を引いている……? まさか……」

 そんなこと聞きもしなければ思いもしなかった。

 事実だとしても、デーンロウの血が混ざっていると母が語るはずもない。この領地で生きていく限り、無駄である以上に邪魔な事実だ。

 そしてこんな嘘、ユーグ・ドゥレートルにとって何の意味がある?

「きみとてその背の高さは、周囲から浮いてただろうに」

 長弓兵として褒められることはあった。

 この城でもスコットランドでも、長弓さえ扱えれば、長身は何よりの美点だった。

「おそらく祖父母か曾祖父母の世代に、北の血が入っている。略奪海賊(ヴァイキング)の荒々しき………いや、きみの戦い方からして、狂戦士(ベルセルク)かもしれんな」

 ユーグ・ドゥレートルは詩を弄するがごとく口遊む。

 所作も口調も、音楽的だ。

「鎧も纏わず剣も携えず、戦うさなかは野獣と化すがゆえ、味方のいない最前線で戦う戦士。あの狂気の才能は、まさに北欧の軍神オーディンの加護の賜物だ」

「俺はキリスト教徒だ」

 驚くほどにきっぱりと声が出た。

「そしてこのシャルウッドベリの領民だ。たとえ何代か前にデーン人がいたとしても、俺がその血を濃く受け継いでいたとしても、俺はキリスト教徒でイングランド人だ」

「それでも血は争えん」

 褐色の膚の騎士は、静かに語った。

「ダマスカス生まれからの実感か?」

「いや、私はフランス生まれだよ。私を育てた祖母がバグダッド生まれだ」

 遥かな果ての地を語る。

「祖母はヴェネツィア人にさらわれた。傭兵だか十字軍兵士だかにな。結果、コンスタンティノープルで私の母が生まれ、洗礼を受けた。父はフランスの十字軍騎士だったよ。コンスタンティノープルで花嫁を見つけ、連れ帰ったのだ」

 絵空事めいていたが、この男の美貌はすべてを真実と語っていた。

 異教徒(サラセン)、コンスタンティノープル、フランス………キリスト世界とイスラム世界の美しさを凝らせて、ユーグ・ドゥレートルはここにいる。それは真実だ。

「祖母は繰り返しバグダッドを語ってくれた」

 気だるい所作で、弦楽器を抱き寄せる。

 弦を爪弾く。純粋に美しい振動、音が音楽になる前の胎動であった。

「バグダッド。神からの贈り物の如く美しい都」

「育ちはおろか生まれもしない故郷が恋しいか? さっさと行けばいい、コンスタンティノープルでもダマスカスでもバグダッドにでも!」

「コンスタンティノープル……」

 溜息の代わりのように、楽器の弦を震わせた。それは溜息よりも深く悩ましく、憐憫めいている。

 彼の心臓より深い処に、音楽でしか語れない感情があるようだった。

「アイヤース、シバース、エルジーンジャーン、ダブリース………ヤスド、キルマーン………」

 呪文めいて語られるのは、コンスタンティノープルからさらに彼方の都市たちか。

 彼が呟くだけで、美しい幻想の都が瞼に映し出される。

「百万の(イル・ミリオーネ)マルコの旅路だ。辿りたくもあるが、ヴェネツィアからコンスタンティノープルなどのビザンツ帝領を経由しての旅は、昨今もはや難しい。オスマン帝国の勢力が強すぎる。あのイスラム教国家はアナトリア全域を制圧したのち、バルカン半島にまで手伸ばしてきた。ビザンツ帝領を侵食しつつある」

「そのうちまたビザンツがオスマンを退ける」

「なんとも楽観的な見通しだな。キリスト教徒たちは認めようとしないが、いいや、口にするだけの勇気がないだけかもしれんが、十字軍都市アッコンの騎士の城《クラック・デ・シュヴァリエ》が陥落した瞬間に、キリスト教徒が聖地を統べる未来は失われたのだ」

「……お前は魂も異教徒(サラセン)か?」

「私の魂は私だよ。フランスでもサラセンでもない。ただ私なだけだ」

 はぐらかすような物言いだった。

 だが、ある種の正しさが含まれている気がして、不思議と癇には触らなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。