15話 ベルセルクの裔
梁に吊るされた薬草は香り、火にかけられた鉄鍋は歌う。トネリコの薪で盛る炎が踊れば、数え切れないほどの壺や瓶たちは明るい翳と濃い影が模様となる。
調薬小屋の土間は、心地よさに満ちている。
ぬくもりが集まる片隅で、金無垢の影と、茶褐色の影が寄り添って遊んでいた。
エドガーさまとジョンだ。
ああ、これは夢だ。
ふたりがシャルウッドベリにいるはずがない。
まして十年前に別れた幼い姿のままなんて。
ふたりはタブラ双六に興じている。無邪気なお姿だ。額を突き合わせて盤面を見つめ、頬を寄せ合うように笑っておられた。
エドガーさまは、父上からの贈り物、ぜんぶジョンと遊べるやつだよ、と嬉しそうにジョンにくっつく。ジョンははにかんでいたが、エドガーさまに手を取られて遊びだした。
夢中で遊び耽る。
俺の手はふたりに届きそうなのに、ゆらゆらと掴みどころがない。水を覗き込んでいるような感覚だった。あるいは俺が溺れているのか。
淡く波紋する思い出の底に、もうひとつ影が加わる。
その横顔には、金色のそばかす。
……ジャスパーだ。
夢とはなんと不思議だろう。幼いエドガーさまたちと、息子がいっしょに遊んでいる。
不思議で、愛おしい。
俺もこの微睡に混ざり、夢とひとつになってしまいたい。
「父さま」
輪郭がはっきりした呼びかけだった。
いや、色彩もはっきりしている。
凛とした緑の虹彩。
掴みどころのない朧な世界で、ジャスパーの眼差しだけ鮮やかだ。
「いけません、父さま。これは幻想です。ここは幽冥のあわい。常夜に留まっていてはいけません。早く、現世へ戻らないと」
戻る?
どこへ?
「救わなければ、母さまを」
ジャスパーが俺の右手を握る。
指を欠いた手に、体温が伝わってきた。
ふっと……幻想が吹き消され、そして………
滑らかで密な板張り床、細やかなバックラム生地の壁掛けたち。それから大きな窓。
ああ、懐かしい。
母やジョンと過ごした小部屋だ。
そういえば昔、あの窓枠にエドガーさまから没収したサイコロを置いた。サイコロ賭博など貴族にあるまじき振る舞いだ。あれは結局、返さなかったな。
今でも残っているだろうか。
視線を動かした先に、異物がひとつ。
異境の弦楽器。
リュートによく似ているが、違う。
聖地の楽器だと語っていた。
そう、ユーグ・ドゥレートルが。
「あっ……」
勢いよく藁布団から起き上がる。
「もう目覚めたか、ジェイデン」
ユーグ・ドゥレートルが革クッションに座していた。あれはエドガーさまがいらした時によく座っていたものだ。
罵声を発しようとした瞬間、脇腹が捩じれ、痛みが走る。
「ぐっ……」
腕を伸ばして、身体を起こした。
チュニックから脚衣に肌着、手袋に靴までも奪われている。
まったくの裸身だった。
脇腹の痛みへ視線を落とせば、どす黒く滲んでいた。
俺は大広間でこの男と拳を交え、敗北したのだ。一対一で、正面からなのに、負けた。
………負けたのだ。
「無理をするな。私に殴られれば、誰であろうと三日は起き上がれんよ。熊でもな。まして二撃も食らったのだ」
言い返したかったが呻きしか零れない。
殴られた内臓、そこに連なるすべてが、痛みで軋む。
それでも上体を起こす。脂汗が滲んできたが、呼吸を深く繰り返して堪えた。
肝心なのは、俺の荷物。
ご領主さまからのご一筆はどこにいった?
「きみの服は洗濯婦に預けてある。手袋も、靴もだ」
「荷物は?」
「そこらへんに……ああ、櫃の横だ」
視線で指し示された先、乾いたイグサ束の上で、俺の巾着袋が開かれていた。
ユーグの様子からして、ご領主さまから預かった書簡は見つかっていないのか……?
それとも素知らぬふりで泳がされている?
「血相変えずとも、乾かしているだけだ。価値が高いものといえば薬草酢入れか。これも無事だ」
荷物を確かめる。
失われたものはない。
薬草酢入れは庶民には高価だが、誰も仕掛けをいじっていなかった。
ただインクやペンといった文具は、抜歯屋の助手には不似合いだ。違和感を抱かれているだろうか。
「どうした? 荷物で無くなったものがあったか? 手癖の悪いものがいたなら、私が引っ立ててこよう。何を困っている?」
「歯磨き粉が融けた!」
俺は動揺を抑えるため、呼吸より早く即答した。
無理やりな誤魔化しだっただろうか。かえって不審ではないか。
ユーグ・ドゥレートルは刹那、虚を突かれたように目を見開き、そして朗らかに笑った。
「そうか、歯磨き粉か。それは大事だ」
すんなり納得してくれた。
意外だ。
「メアリも毎晩、磨いていたな。清潔さは美しさに勝る」
母の名前を軽々しく呼ばれ、毛穴が開くほどの怒りが噴き出す。
だが俺の肉体は、沸き立つ怒りを発散できるほど回復してはいなかった。拳を握るのがせいぜいで、それを振りかざす力は無い。
「ゆっくり休むといい。粗野な男ばかりとはいえ、母親を想う孝行息子を傷つける不埒者はいない。さ、飲み物を用意させよう。大麦の煎じ湯に甘草を入れて………ミカエル祭なのだから生姜入り蜜酒の湯割りにするか?」
「いらん」
母から名誉を剥ぎ取ったのは、この男だ。俺がどれほど弱り切っていても、厚意を受け取るなど出来やしない。
不愛想を通り越した非礼にも、ユーグは笑う。
「意地を張る気合はあるのか。さすがデーン人の血が流れているだけはある」
「……デーン人?」
それは略奪海賊の民だ。古い古い時代に、イングランドを襲っていた海賊の民。
もはやイングランドの北東部の片隅で微かに息づいているのみ。
「きみはデーン系だろう」
「ばかな……ッ」
大きな声が脇腹を引き攣らせた。
痛みで藁布団に倒れる。羽毛の入った枕は俺を受け止めてくれた。
「俺の父親は………その祖父も、そのまた祖父も、ずっとずっと、シャルウッドベリの農奴だったはずだ」
「いや、メアリだ」
この男が母の名を呼ぶのは、身の毛もよだつ不快感だった。
「あの類稀な美貌は、北の血が混ざっている。透けるほどの白い膚に、緑の瞳。彫りの深く整った鼻筋。まさに北欧の美しさだ」
「母が……デーン人の血を引いている……? まさか……」
そんなこと聞きもしなければ思いもしなかった。
事実だとしても、デーンロウの血が混ざっていると母が語るはずもない。この領地で生きていく限り、無駄である以上に邪魔な事実だ。
そしてこんな嘘、ユーグ・ドゥレートルにとって何の意味がある?
「きみとてその背の高さは、周囲から浮いてただろうに」
長弓兵として褒められることはあった。
この城でもスコットランドでも、長弓さえ扱えれば、長身は何よりの美点だった。
「おそらく祖父母か曾祖父母の世代に、北の血が入っている。略奪海賊の荒々しき………いや、きみの戦い方からして、狂戦士かもしれんな」
ユーグ・ドゥレートルは詩を弄するがごとく口遊む。
所作も口調も、音楽的だ。
「鎧も纏わず剣も携えず、戦うさなかは野獣と化すがゆえ、味方のいない最前線で戦う戦士。あの狂気の才能は、まさに北欧の軍神オーディンの加護の賜物だ」
「俺はキリスト教徒だ」
驚くほどにきっぱりと声が出た。
「そしてこのシャルウッドベリの領民だ。たとえ何代か前にデーン人がいたとしても、俺がその血を濃く受け継いでいたとしても、俺はキリスト教徒でイングランド人だ」
「それでも血は争えん」
褐色の膚の騎士は、静かに語った。
「ダマスカス生まれからの実感か?」
「いや、私はフランス生まれだよ。私を育てた祖母がバグダッド生まれだ」
遥かな果ての地を語る。
「祖母はヴェネツィア人にさらわれた。傭兵だか十字軍兵士だかにな。結果、コンスタンティノープルで私の母が生まれ、洗礼を受けた。父はフランスの十字軍騎士だったよ。コンスタンティノープルで花嫁を見つけ、連れ帰ったのだ」
絵空事めいていたが、この男の美貌はすべてを真実と語っていた。
異教徒、コンスタンティノープル、フランス………キリスト世界とイスラム世界の美しさを凝らせて、ユーグ・ドゥレートルはここにいる。それは真実だ。
「祖母は繰り返しバグダッドを語ってくれた」
気だるい所作で、弦楽器を抱き寄せる。
弦を爪弾く。純粋に美しい振動、音が音楽になる前の胎動であった。
「バグダッド。神からの贈り物の如く美しい都」
「育ちはおろか生まれもしない故郷が恋しいか? さっさと行けばいい、コンスタンティノープルでもダマスカスでもバグダッドにでも!」
「コンスタンティノープル……」
溜息の代わりのように、楽器の弦を震わせた。それは溜息よりも深く悩ましく、憐憫めいている。
彼の心臓より深い処に、音楽でしか語れない感情があるようだった。
「アイヤース、シバース、エルジーンジャーン、ダブリース………ヤスド、キルマーン………」
呪文めいて語られるのは、コンスタンティノープルからさらに彼方の都市たちか。
彼が呟くだけで、美しい幻想の都が瞼に映し出される。
「百万のマルコの旅路だ。辿りたくもあるが、ヴェネツィアからコンスタンティノープルなどのビザンツ帝領を経由しての旅は、昨今もはや難しい。オスマン帝国の勢力が強すぎる。あのイスラム教国家はアナトリア全域を制圧したのち、バルカン半島にまで手伸ばしてきた。ビザンツ帝領を侵食しつつある」
「そのうちまたビザンツがオスマンを退ける」
「なんとも楽観的な見通しだな。キリスト教徒たちは認めようとしないが、いいや、口にするだけの勇気がないだけかもしれんが、十字軍都市アッコンの騎士の城が陥落した瞬間に、キリスト教徒が聖地を統べる未来は失われたのだ」
「……お前は魂も異教徒か?」
「私の魂は私だよ。フランスでもサラセンでもない。ただ私なだけだ」
はぐらかすような物言いだった。
だが、ある種の正しさが含まれている気がして、不思議と癇には触らなかった。




