14話 薔薇と鋼のダマスカス
白々明けの大広間。
暁を払うように薔薇の馨しさが届いたのは、俺の気のせいだろうか。
馥郁たる香りが先ぶれであったかのように、一拍後、大広間へひとり、足を踏み入れてきた。
「夜通し宴会をしていたのか?」
ユーグ・ドゥレートルだ。
袖を解いた気楽な恰好だが、緩やかに肩から腰へ流れる銀髪は、どのような金銀細工より華やいでいた。
彼自身の鍛えられた褐色の身体に、神々しいばかりの銀の輪郭を与えている。
ごろつき騎士どもはさっきまで下品な酒宴にふけっていたが、頭目が現れた途端に、態度を改めた。髭のシミをぬぐったりとチュニックのしわをのばしたりと、体裁を整える。整え切れていないが。
ただ唯一、トーマシン卿だけは身じろぎせず、紫の眼差しだけユーグへと向けた。
「ユーグ卿。今日はお早いお目覚めね」
「おはよう、トーマシン卿。さっきマストロピエロ殿に呼ばれてね。面白い催しが始まってるからと、たたき起こされたよ」
ユーグの笑顔が綻んだのとは対照的に、トーマシン卿は眉宇に皺を寄せる。
「あのちびめ……事態をややこしくして」
うめき声が俺の鼓膜にまで届く。
トーマシン卿は本気で忍び込んだ俺を赦免して、母とマーガレットさまの元へ行くのを見逃すつもりだったのだろう。
俺自身への慈悲ではなく、ご婦人への礼儀として。
ユーグ・ドゥレートルの澄み切った双眸が、俺を真っすぐ射貫いた。
「見慣れない男がいるが、宴の主演かな?」
問いに答えんと声を上げたのは、エドマンドの若君だ。しわになった大礼マントを引きずるように立ち上がる。
「そいつを八つ裂きにしてくれ、ユーグ卿! 私に暴行を振るって逃げた農奴だ!」
「十年も前にね」
トーマシン卿の補足に、ユーグは笑う。
「それはそれは。十年この地より離れていたならば、農奴の身からは解放されているのではないか? 正しく裁判を受けさせねば」
一年と一日、都市にいれば農奴から自由民になれる。それが習いだ。
「そもそも大罪を犯した逃亡農奴が何故、いまさら舞い戻った?」
疑問に答えたのは、トーマシン卿だった。
「彼は母親を案じてきたのよ。あたくし、虐殺は醜さの極みだと思っていてよ。まして婦人のために危地へ身を投じた男を嬲り殺しなんて、冗談じゃあなくってよ」
「それで若君を引っぱたいたというわけか」
「文句あって? あたくしが責任を持って、彼を追放するわ」
傲然と言い放つ。
エドマンドの若君は拳でテーブルを叩く。二度、三度と。怒りというより、癇癪を起して喚いている子供のように。
「追放だと! 目をくりぬき、鼻を削ぎ、鞭打ちせねば! 生かすのならば、いちばん卑しい奉公人の召使にしてやれ」
「悪趣味」
トーマシン卿は素っ気なく呟き、髪を指で梳く。
「あっ、悪趣味だと! こいつを処さねば、どこに正義があると言う! 他者を傷つけた以上、罰を受けねばならぬ。私のどこが間違っている? 私は正しさしか語らぬ!」
そう、若君は昔から、己より立場の弱い者に対して、正しさという暴力を振るうのだ。
正しさの中にも、傲慢さは宿る。
ゆえに君主は過つならば、同情と慈悲の側へ。
それこそ弛まず目指すべき理想だというのに、跡取りでありながらまったく学んでおられない。
「鼻削ぎとは、こんな綺麗な顔立ちの若者にいささか惨いのでは……」
吟ずるような美声が、途切れた。弦が爪弾きで切れるように。
涼やかな瞳が俺を凝視する。
メアリの息子だと知られたのか。
しまった、ペトロニラからも釘を刺されていたのに。頭目の男には注意するようにと。
「きみはメアリの長男か!」
薔薇の美貌は咲き誇っていた。
両手で俺の顔を包み込む。輪郭を確かめるように撫でられた。
なんだ。薄気味悪いほど友好的だ。
まるで生き別れの血縁、いや、それどころか生き別れの跡取りを出迎えるかの如き歓喜ではないか。
「これほどメアリに生き写しとは。ああ、この眼差し、この鼻梁、この唇!」
褐色の指先が、耳朶から顎を撫でゆく。
愛撫めいた優しさで。
「あの馨しくも柔らかな唇と乳房の女に、まさかこんな大きな息子がいたとは!」
須臾、息が止まった。
母さん。
この男が、母さんを。
俺を抑え込んでいる猛犬を振り払う。猛犬どもの牙に俺の血肉が残ろうが構わない。この男を二度と立てぬようにせねば。
一気に踏み込み、拳を振るった。
だが繰り出した拳は掠めただけで、空を切る。
避けられた?
この至近距離で?
だが僅かに拳で掠めたせいか、ユーグ・ドゥレートルの頬は浅く切られていた。
傷に不似合いな笑みを浮かべている。
子供みたいな無邪気な、玩具を見つけたような明るい笑顔。
「ははっ、威勢がいいな!」
死角に回り込まれた。
後ろから頭部に触れられる。
「なっ……」
肘鉄を食らわそうと、上半身を捩じる。
だがユーグ・ドゥレートルはすでに背後におらず、距離を取っていた。
「15歳くらいの少年だと思い込んでしまったな。だがその髪はどうした? メアリと同じ黒髪ではなかったのか? ニワトコの実で染めたような美しい黒髪だと聞いていたのに、ひどく褪せて」
「……くっ」
力の限り踏み込んで、距離を詰める。
屈み、蹴りを回し入れた。狙うは膝。動けなくするための一撃。
入った。
だがユーグ・ドゥレートルは微動だにしない。微笑みのまま俺を見下ろしている。
完全に蹴りが入ったはずなのに。
刹那の驚きに、ユーグ・ドゥレートルに腕を掴まれた。くるりと踊るように銀髪が舞えば、俺の視界が踊る。
振り回され、身体が宙を舞う。
酒臭い宴席に投げ込まれた。
「ぐわっ!」
小姓の悲鳴で広口水差しがひっくり返り、皿用のパンは転がって、スープ鉢が割れて、角匙や麦酒は飛び散る。
テーブルに叩きつけられながらも、辛うじて後頭部や背中を守った。頭を強打するのがいちばん危ない。ペトロニラの言いつけが、肉体を防御姿勢にした。
俺は呼吸を整え、テーブルのナイフをひとつ握りこむ。
騒ぎから飛び出し、スープ鉢を投げつけながら、ユーグ・ドゥレートルへ一直線に走る。
スープ鉢は躱されたが、ナイフを隠すための囮だ。
彼が体勢を整える直前、俺は懐に飛び込む。
だがナイフの刃は、腕で受けられた。
止められた?
切れ味のよさそうなナイフだというのに、ユーグ・ドゥレートルの薄皮一枚だけで止まっていた。
ナイフから手を放し、間合いを取る。
「魔法か……」
「ユーグ卿の肉体は鋼よ。生まれながらね」
語るのはトーマシン卿だ。
「研ぎ澄まされたナイフも重い剣も、彼の筋肉が刃を咥えてしまうの。あたくしの剣も届かないわ。彼の見た目は異国の薔薇だけど、中身はダマスカス鋼よ」
ダマスカス鋼。
折れず、曲がらず、錆びぬ、麗しき鋼。
褐色の肌の下には、ダマスカス鋼の如き筋肉があるのか。
「きみは熊より力強いな。手加減無しだ」
視線が合う。
本能的な警鐘が響く。
だがユーグ・ドゥレートルは警鐘より早かった。
ドスッ………
重い衝撃が、腹に。
「がはっ……!」
たった一撃食らっただけなのに、なんだこれは。
内臓がすべてひっくり返されて、このまま喉から吐き出しそうだ。だめだ、堪えても堪えても、胃液が喉を焼く。嘔吐感が脳天に届く。目の前が傾く。黒ずむ。視界ごと肉体が潰れそうだ。
「ぅ、ぐ……」
立っているだけでやっとだ。意識がぐらぐらする。僅かでも気を抜いてしまえば、膝をついてしまう。耐えろ。耐えてくれ。
この男の前で膝を折るなど、心が耐え切れぬ。
大広間の左右が騒めいている。
「倒れぬだと? ユーグ卿の一撃を喰らって……?」
「バカな。熊でも殺す拳だぞ」
「化け物だ、化け物……」
イングランド語とウェールズ語が混ざった呟きのさざ波が、大広間の暗がりにまで満ちていく。
俺にはうまく聞き取れず、嵐の前の小雨めいていた。
「はい、はい、はい、見世物は終幕だよ」
おどけた調子でやってきたのは、矮躯のニコーロ・マストロピエロ。
顔つきは毒々しく、俺を睨んでいた。さっきまで韜晦と諧謔を弄していた遍歴学徒とは思えぬ真剣さだ。
「お楽しみは幕引きだ、ユーグ。そいつを殺しちゃお」
「朝っぱらから物騒だな」
「お前に血を流させる男など、危なっかしくて怖いじゃないか」
矮躯から零れた声は、おどろおどろしいものだった。
そして口内はなお悍ましい。
歯がすべて黒ずみ、欠けていた。
若者の歯ではない。中年の歯でさえない。もっと年寄りだ。しかもあの黒ずみは長い事、贅沢をしてきた歯だ。
「私が血を流すなど、そう大した事件でもあるまい?」
「ユーグ、お前が女の平手打ちだの、刺されただので流血しても、いつものおもしろおかしいお話さ。だけど、お前に血を流させた男が今までいたか?」
「記憶にないな」
「面倒になる前に殺してしまえ」
「メアリに瓜二つの顔を、私に殺せと? マストロピエロ殿の進言でもそれは無理だな」
ユーグはそう語りながら、俺の肩に手を置く。
振り払おうとしたが、何かしようと動くだけで意識と胃液が零れそうだった。
「私の名において監督しよう」
「ぐっ!」
胸倉に、一撃が走った。
意識が、途切れ、て………




