13話 女装騎士トーマシン・ワイスマンテル
沸き上がった激昂に、背後のトーマシン卿が僅かに動いた。
いつの間にか彼の剣が抜かれている。鞘走りの音ひとつもなく。
俺へは柄頭が向けられて、刃先は床へ。引きずるほどの長い裳裾は、あたかも小型円盾を構えるように高くたくし上げている。
本能的に冷や汗が噴き出した。
正規の剣を学んだ騎士の姿勢だ。そして刃に揺らぎはない。
己の腕が立つと言い放ったのは、不遜でも脅迫でもない。事実だ。
下手に動いた途端、脇か太ももを切り裂かれる。
エドマンドの若君は俺が動けぬと分かり、安堵か見下しかともあれ口角を上げた。
「ほとぼりが冷めたと思って、舞い戻ってくるとはな。ぬかるみ頭の恥知らずめ」
「恥知らず? それは若君ではありませぬか! 賦役を正しく行き渡らせず、民草に重税を課すとは! 先祖代々受け継いだ領地の有り様を、恥だとお思いではないとッ!」
「私は身体が弱いのだ! 馬で見回ることも出来ぬ身に強いるとは、天罰が下るぞ!」
「天罰を喰らうのはあなたさまです。ご領主さまのご容体を知らぬとは言わせませぬ」
父親の病状を指摘されれば、エドマンドさまとて良心が軋むだろう。
だが俺の予想に反して、貴族的な顔に笑みが浮かんだ。
ぞっとするほどの歪み。
これを笑みと呼ぶには冒涜的だが、それでも笑顔としか形容できぬ。
「そう! ようやく父上は寝床から起きられぬ身体になった。ようやく私の苦しみを知ったのだ! 私へあれをしろこれをしろと、慈悲のかけらもない言い草を続けた天罰だ!」
叫びには、哄笑が宿っていた。
………この男に、なにを語っても無駄か。
エドマンドの若君はまことに恥のなんたるかをご存じない。
悪党に騙され城に居座られて、心ならずも従っているなら、まだ話し合う余地もあった。
だが、ここまで開き直っておられるとは………!
左右に座しているごろつき騎士どもは冷笑と苦笑を浮かべているが、その対象は若君だ。
城には楽師や道化師が集められている。だが最も嘲笑を受けているのは、このエドマンドの若君ではないか。
黙ってしまった俺に、若君は勝ち誇ったように口許を歪める。
「マーガレットの馬を盗んだ次は、財産まで盗みに来たか? 絹や真珠を盗んでも、ついでにマーガレットをさらってしまえば不問になるとでも思ったか? 小賢しい!」
「なっ………」
思いもよらぬ罵倒に、驚きで喉が締め付けられた。
俺の動揺を図星と勘違いなさったのか、エドマンドの若君の口許が嘲いに歪む。不健康な皮膚に皺が寄り、老いたような笑いを滲ませていた。
「マーガレットはここにおらん。不品行な女に縁談を調えてやったのを逆恨みして、あてつけがましく暖炉に身を投げた。まったく正気の沙汰ではない」
「逆恨みだと! 老商人に嫁がせることを! 若君の積み重なった放埓のゆえではないか」
「誰もかれも私のせいにして!」
癇癪を爆ぜさせ、テーブルに拳を叩きつけた。
「老いぼれの金持ちに嫁いだと、どこから聞きつけたのか。だからのこのこ舞い戻ってきたわけだな、宴の後の皿用のパンを狙う犬のように! 狂って穢れた女ならくすねても大目に見られると、乞食の算段をしたのだろう。心根の卑しい農奴だな!」
マーガレットさまを食い終わった皿用のパンだと。
無礼な物言いに、激昂が俺の網膜を焼く。
だが脇腹に痛みが走った。俺の怒りに枷るほどの激痛。
トーマシン卿の柄頭が、俺の脇腹にめり込んでいる。肋骨の隙間を塗って、激痛を齎す箇所を的確に打っていた。
「ぐっ……」
反射的に腕を振り上げた瞬間、マスティフ犬たちが牙を剥く。
闘犬は俺の袖や裾に食らいついて、動きを鈍らせてきた。
それでも喉笛はまだ無事だ。
舌は封じられていない。
「マーガレットさまは己の高貴ゆえに、真珠の身を暖炉に投じた! それをあてつけがましいだの、狂い穢れたなどど何故言える!」
たとえ猟犬に手足を食い千切られようが、騎士に切って捨てられようが、一歩も引けるものか。
己の世俗的崇拝を捧げた淑女の名誉が堕ち、手をこまねき待ちわびるなど、それこそ愛への冒涜。
世間がどう囁こうと、俺は己自身の魂と血肉を賭して、マーガレットさまの気高さを叫ばねばならぬ!
「真の武勇と美徳を行うのは困難だとしても、崇高な振る舞いには敬意を払え!」
エドマンドの若君が醜悪に歪む。
「犬に食われてしまえ!」
「犬を下がらせなさい!」
甲高い号令を発したのは、トーマシン卿だった。
張り詰め、静まり返る大広間。
犬もごろつきも若君も口を噤み、異様なほど沈黙が伸し掛かった。
きらびやかな姫君の姿を装っていても、戦場で通じる一喝を放てるなら、このトーマシン卿は間違いなく騎士であった。
耳鳴りの底で、トーマシン卿が唇を開いた。
「ねえ、メアリの息子。十年も経って、どうして戻ってきたのかしら? 今更じゃなくって?」
柔らかい声色だった。
張り詰めた大広間をたちまち鎮める柔らかさに、俺の舌も回りだした。
「人づてに………噂を聞いた。マーガレットさまがお労しい婚姻を強いられたと。ご領主さまの容態も悪いと……」
「それで何しに来たのかしら? 居てもたってもいられなくなったからと、何ができるの?」
「俺は無力だが、母ひとりくらい連れ出せる」
トーマシン卿が無言で剣を鞘に納めた。引き裾を優美に抓み、貴賓座へと上がる。
「若君」
「なんだ? 農奴を連れてきた褒美が欲しいのか?」
瞬間、甲高い音が響いた。
トーマシン卿がエドマンドの若君を平手打ちしたのだ。
あまりに鋭い平手打ちの勢いに、エドマンドの若君はふらつき尻もちをつく。紫の大礼マントが、ぐちゃぐちゃになって広がった。
「ご婦人への暴言は醜いわ。慎みなさい」
「な、な………」
青ざめた頬に血が滲み、赤くはれている。
不意打ちの打擲に、エドマンドの若君はただ呆然としている。
トーマシン卿は貴賓座の高みから、俺を見下ろしていた。
「この城にあなたの姫君も母君もいないわ。さっさと出てお行き」
「俺を放免するのか」
解放は喜ばしい。
だが印章無き手紙では、州長官を招けない。
城に蔓延る悪徳の騎士たちを排除するために、そしてサースタン・ウォーターズの殺害の真相を暴くために、州長官の力添えは欠かせぬのだ。
「……ほんとうに母はいないのか?」
遠方の荘園にいるとペトロニラから教えられてはいるが、俺は素知らぬふりを演じた。
印章まであと十数歩。むざむざ離れるわけにはいかない。
だが時間を稼いでなんとなるのだ?
どうすれば打破できる?
俺が戸惑っていると、トーマシン卿からの空気が緩んだ。
「メアリはマーガレット姫とご一緒。ここからずいぶん離れた女子修道院の荘園よ。ファリンテウォルって名前の。聖なる泉が名高い修道院だから、近くまで行けば誰でも知ってるわ。オックスフォード方面へ進んで、徒歩で三日か四日よ」
「何故、放免して頂ける……?」
疑うではなく、純粋な疑問だった。
トーマシン卿は乱れた髪を掻き上げて、俺を見下ろした。
東の窓から、うっすらと光が差し込む。ああ、夜が終わり、朝が訪れたのか。
黎明を浴びた彼の眼差しは穏やかだ。
彼の瞳は、なんと夜明けに似た色合いだろうか。微かな金色と仄かな暗さを孕んだ紫は、世界のあわい。
「ご婦人を救いにきた男を無下にするほど、あたくし、騎士道を忘れたわけではなくってよ」




