12話 豚に真珠を与えるなかれ
矮躯ニコーロ・マストロピエロは、片眉を跳ねさせた。
「メアリにそっくりなのか?」
「んもう! 輪郭から目鼻立ちまで、これが他人の空似に見えるの?」
女装の騎士トーマシン卿に怒鳴られて、彼は革巾着から平たい小箱を出した。
小箱から出てきたのは、象牙か?
象牙に縁どられたレンズがふたつ、リベットで連なっている。
ぱちんと開いて、眼前に当てた。
眼鏡だ。
目の前に翳すだけで、老いたる視力が回復する。遍歴学徒に相応しき悪魔の道具だ。
睨むように俺を見つめていたが、かぶりを振った。年老いた仕草だ。
「おちび。あんた、老眼ひどくなったんじゃなくって?」
「ボクの名推理だと、こいつはコドモのワガママで孔雀を見に来たおバカちゃんなんだけどなぁ」
「御冗談。あんたの名推理なんてものが当たったためしがあるっていうの?」
トーマシン卿は頭痛を堪えるように、柳眉を顰めた。
「あなた、メアリの縁者でしょう? 何が目的でこの城に入ったのかおっしゃいなさいな」
痛みを堪えた顔のまま、俺を睨む。
「俺に縁者はいない」
「空々しくってよ。ちょうどいいわ。夜半の寝覚で若君が、大広間に飲みに来ていたもの。面通しをさせればいいでしょ」
エドマンドの若君と対面だと。
まずい。
若君の前に引きずり出されたら、どんな弁解も韜晦も虚しい水泡だ。
正体は看破されて、そのまま八つ裂きにされかねない。
いや………逆に好機か?
エドマンドの若君は印章指輪を身に着けていらっしゃるだろうか。
強引にお借りすれば、探す手間は省ける。そのまま逃げ切れるだろうか。
ただジャスパーを置き去りにできない。
堂々巡りの逡巡が、頭や四肢の動きを錆びさせていた。
逃げればいいのか、従えばいいのか、神ならぬ身では見通せぬ。
どこに正しき道がある?
ただ俺に注目が集まっていれば、ジャスパーを探されない。
むしろここで逃亡に踏み切ってしまえば、城のごろつきたちがあちこちをひっくり返して捜索する。
どこかで難を逃れているジャスパーが、見つかってしまうかもしれない。
あの子がたったひとりで、エドマンドの若君の前に引きずり出されたら………
最悪だ。
それだけはいけない。
「ふん、ふん、ふん。そんなにメアリにそっくりなら、ユーグに会わせてみよっか」
「それこそまったくの御冗談ね!」
トーマシン卿は長い髪を掻き上げて、憤慨を口にする。
騎士の眼差しが俺に注がれた。
「無駄な抵抗はよしてちょうだいね。あたくし、これでも腕は立つ方よ」
柄頭に手を置く。
虚仮脅しではない。俺とて短くはない時間、スコットランドで戦ってきた。
トーマシン卿はうわべこそ麗しく着飾っているが、この静かな気迫や無駄が削がれた動作は、まさに一流の騎士のものだ。
大広間へと引き立てられた。
懐かしいはずの大広間には、拭い難き酒気が満ちていた。
ミカエル祭の時期だというのに、空気はむわっと湿り気と熱を帯びている。重い空気に酒気が混ざり、ぬかるみ、肉と脂、それから香辛料の匂いも漂っている。挽かれた胡椒やナツメグの香りだ。
大広間の両脇で、奇妙な形に髭を蓄えた男たちが、六人か七人ばかり酒を飲み交わしていた。
礼帯に剣を佩いて、靴に拍車をつけている男もいる。
身なりこそは騎士を装っていたが、相応しい礼節に満ちているとは言い難い。
ある男はシラミがいるように髪を掻き、あるものは尻で空気をかき回しているように忙しなく身体を揺する。そしてある男は馬が水を飲むような音を立て、葡萄酒を啜っていた。しかもサイコロ賭博に興じている。
あの赤ら顔からして柄を握るより、盃を掴んでいる時の方が長そうではないか。
しかも野蛮な髭に、葡萄酒の赤が染みている。
酒を飲みまわすならば、髭を盃につけぬよう、仮についても髭の脂が浮かぬよう手入れするのが作法だ。なのにこの連中は、下品にも髭につくのもお構いなしだ。おそらく飲みまわされている盃には、髭の脂が浮いているだろう。ぞっとする。
葡萄酒を煽っているのは、男だけではない。ふくらはぎまで露わにした女も、何人か混ざっている。低い声やいびき、そこに女の甲高い笑いが混ざっている。
あまつさえ交わされている言語は、イングランド語だけではない。
おそらくウェールズ語。
この由緒正しき大広間が、西の野蛮に占領されるとはなんたる痛ましさだ。
中央奥の貴賓座には豪奢なテーブルクロスがかかり、床には摘みたての香草が積まれている。最も馨しい夏の野原を切り取って持ってきたと思うほど、鮮やかで厚みある敷き草だった。
天蓋付きの背凭れに、エドマンドの若君がおられた。
城の主にしか許されぬ椅子を占めている。
金髪に縁どられた顔は貴族的だが、相も変わらず血の気が薄く、不健康にたるんだ皮膚をしている。
大きなマントと金細工の留め金で纏っていた。
……あのマント。蝋燭の薄明りで気づかなかったが、コンスタンティノープルの紫で染めた大礼のマントではないか。
聖地エルサレムに赴かれた先代から伝えられて、ご領主さまが他の何より大切にしていた礼服だ。ご領主さまを差し置いて羽織るなど、なんたる不遜だ。
いや、怒りは鎮めろ。
堪えるんだ。
俺が求めるのは、印章指輪だ。
印章を得て公式文章を作らねば、シャルウッドベリの城に州長官を招けぬ。
エドマンドの若君の左手の指。
骨に皮膚が張り付いているほど細い小指には、領主の印章があった。
儀式でもないのに大礼のマントを纏い、借り物の印章指輪をはめている。
正統な跡取りであるはずなのに、天蓋付きの椅子に座する姿は紛い物のようではないか。姫君の仮装をした騎士より、巡礼バッチを飾り付けた遍歴学徒より、なおも虚飾に紛う。
トーマシン卿が優美に裳裾を翻し、数歩、上座に近づく。
「失礼。若当主、対面させたい男がおりますの」
「吟遊詩人か、道化師か。なんでもいい。芸なら早く見せろ」
エドマンドの若君は尊大に、空の盃を振り回す。残っていた葡萄の雫が飛び散り、テーブルクロスに染みを描いていった。
小太りで短足の小姓が葡萄酒を酌する。継ぎ足される紅色の酩酊。
「歌か……曲芸か……なんだ?」
蒼い瞳が、俺を映した。
酩酊で濁り、緩んでいた焦点が、脈打つように窄まった。
「ジェイデンっ!」
雷のように響き渡る裂帛。
酔いが醒めたのか、白い皮膚が青ざめていく。
「この男を八つ裂きにしろ! 這いつくばらせて目をくりぬけ! 手足を潰してもぎ取って、腹を切り裂き腸を引き出し、犬にくれてやれ!」
怒声の勢いにふらつきながらも、紫のマントを翻して席を立った。
両脇で酔っている無頼漢どもは応じない。むしろ高みの見物といった雰囲気だ。
俺の背後のトーマシン卿も、剣は抜かない。
ここから印章指輪が奪えるか?
俺の願いを潰すように、若君は拳を振り回していた。
「早く! 誰でもよい、この男を嬲り殺しにしろ! その腰に下げた剣は飾りか?」
剣でなく盃を掲げたままのあらくれ騎士どもが、赤ら顔に冷笑を浮かべた。
「我々はユーグ卿の臣でしてな。ユーグ卿に命じられもせず剣を抜くなど、道理に合わんことですな」
「左様、左様。ましてやトーマシン卿が捕虜にしておるではありませぬか。どうして手出しできましょうぞ」
「是が非とおっしゃるならば、ご自身の家臣に命じなされや」
右からも左からも臭気の籠った野次を返され、若君の唇は白く褪せた。
エドマンドの若君は高い貴賓座にいるものだから、靴に視線が合う。
靴までも贅を凝らしていた。真っ赤に染めた絹の靴に、金染めにした革細工を交差させ、いくつも真珠の鋲を鏤めていた。
円やかな真珠だ。
その色合いに古い記憶が刺激される。
「マーガレットさまの真珠ではないかッ!」
美しい真珠たちは、マーガレットさまの金髪を飾っていたもの。マーガレットさまのお母上から受け継がれるもの。
それをエドマンドの若君は、よりにもよって己の靴の飾りにしたのか。
はらわたが煮え立ち、血が沸騰してきた。




