11話 遍歴学徒ニコーロ・マストロピエロ
「恋しい恋しいラザニアちゃん」
フランス語だ。
ややイタリア商人の訛りを感じさせるフランス語。
俺の知り合いではない。
回廊に差し込む月明かりを踏むように歩いてきたのは、奇妙なほど背の低い男だった。
声変わりしているから成人だと分かるが、声を聴かねば子供と見まごう。九歳児より低いではないか。
衣装はとんでもなく派手で、頭にシャプロンを巻き、きらきらとした飾りをいくつも付けている。
服はぴったりとした片身替わりで、深いスリットから覗く脚衣も左右で色違いになっていた。おまけに靴は先端がとんでもなくとんがっている。
大道芸人めいた衣装だ。
周りにはマスティフ犬たちを侍らしている。
巨大な闘犬には、いかつい棘付き首輪。猪や熊、獅子でさえ闘えると言われる獰猛な犬種だ。
「ああ、熱くとろとろ、シナモン、ナツメグ、グローブ香るラザニアちゃん! チーズは絶対ペコリーノ! もうイングランドのしょんぼり飯にはうんざりだよ。葡萄酒はマズイし! いい加減、担ぎ上げてる跡取りちゃんとおさらばしたっていいんじゃないの」
担ぎ上げている跡取り。
考えるまでもなくエドマンドさまのことだろう。
ではあの小男はお抱え道化師ではなく、悪徳騎士の一味か。
「おシゴトが立て込んでるのに、荘園官は副長官と腹の探り合いしてるしさ」
州長官ギルス・ファウラーは、腹心をシャルウッドベリの城に派遣したのか。
領主権は侵せぬ。おそらくは形式的で、儀式的で、格式ばったやり取りだっただろう。
いや、しかし………あの矮躯の男、独り言がよく続く。
他に誰もいない。
回廊に、あの小男とマスティフ犬たちしかいないはず。
まさか他に誰かいるのか?
「……犬たち、咆えているな」
影から低い声が聞こえてきた。
矮躯の男以外、誰か、どこかにいる?
どこだ?
背中から冷や汗が噴き出す。
視線を動かした刹那、狼の頭が眼前に迫っていた。
「なっ……!」
驚きで梁から手が滑り、床に着地する。
その寸前で、殺気が届いた。
反射的に間合いを広げる。
後ろに下がれば、風切り音が耳朶に触れる。
とっさに腕を上げた。
腕に重い衝撃が落とされる。
蹴りか。
体勢を崩さないように、俺はさらに後ろへ下がった。
まずい。これ以上、距離を広げれば犬たちが襲い掛かって来るだろう。おそらく逃走とみなされて、犬の本能を煽る。そんな気配がした。
マスティフ犬たちに喉笛を狙われたら、間違いなく死に至る。
一匹なら兎も角、視界に捉えた範囲に五匹はいた。獰猛なマスティフ犬だけでなく、嗅覚が鋭いタルボット犬もいる。
獣の臭気と唸りが満ちる。
「盗っ人か」
問いを発したのは、俺に蹴りを食らわせた若者だった。
狼の頭をつけたまま毛皮をマントにしている。胴には牛革の革鎧。腰には太矢をいくつも入れた革矢筒。弩こそ携えていないが、弩の遣い手だ。
翳に立ち、己の影を落とさぬよう佇んでいた。
マスティフ犬やタルボット犬は狼毛皮の若者の足元へ集ってくる。
狼毛皮の若者が、猟犬たちの主か。
「ひとり? ひとりか? もうひとつあった……小さい、気配」
ジャスパーを察しているのか?
「でかいネズミじゃないの?」
道化師めいた小男が適当に嘯く。
無責任だが、今はその適当さが通るよう願うしかない。ジャスパーの無事が最優先だ。
にまにま口許を歪めている小男は、俺へと視線を移した。
「おっと、まずはご挨拶をば」
流暢なイングランド語で喋りだす。
「はじめまして、ボクの名前はニコーロ・マストロピエロ。ヴェネツィア共和国からやってきた遍歴学徒さ。親しみを込めて、ピッチーノと呼んでほしいな」
おちびちゃんなんて可愛らしいあだ名が似合う雰囲気ではない。
しかも遍歴学徒か。
初めてお目にかかった。
噂に聞くところによれば、教会の腐敗や十字軍の失態を嘲り、教皇や儀礼を侮り、それをラテン語の詩として残している。冒涜の聖職者どもだ。
しかしこの小男、よく見たら、頭に巻かれたシャプロンに、いくつもの巡礼記念バッチを飾っている。
小さな家、雄鶏や、帆立て貝の貝殻、乙女の乗った籠船。馬に跨った東方三博士を象った精巧なバッチも、燦然と煌めいていた。
バッチは聖地へ巡礼した証だ。
遍歴学徒という冒涜的な輩にしては、敬虔なのか。
あるいはただのこれ見よがし。諧謔の一種なのか。
「こっちはギィ。元狩狼師だから強いよ」
狼狩り専門の猟師か。
何頭もの猟犬を指揮して、罠を張り、狼を殲滅していく。腕っぷしも侮れないが、気配の消し方が獣並みだ。
「さあ、さあ、さぁ! ボクは名乗ったからね。泥棒ちゃんのお名前も教えてほしいな」
「俺は泥棒ではない」
矮躯のニコーロ・マストロピエロはにまにま笑いを張り付けたまま、俺の頭からつま先まで見下ろす。
「じゃあ、キミはなぁに? 敵? 味方?」
「何と問われても………抜歯屋の助手だ」
「ふぅん? ホントでもウソでもどっちでもいいからさあ、ユカイな話してほしいな」
「愉快な……話?」
「ああ、喜劇でも、悲劇でも! ボクを面白がらせてくれれば、見逃してあげてもイイよ」
三日月めいて歪む口許。
葡萄酒と邪悪な臭気がした。
糧を賛美し、酒を愚痴り、言葉を弄する小男だ。
こういう手合いは何を言おうが、いたぶれる相手を見逃さないだろう。
ただ不法侵入者の最後の足掻きを見物したいだけだ。
「あなたこそ冒険譚をお持ちだろう。遥かなヴェネツィア共和国から来た冒険者に献じる話など持ち得ぬ」
「ふん、ふん、ふぅん。キミ、ヴェネツィア共和国って地名を分かってるんだね。ギィの蹴りを躱した動きといい、コソ泥でも農奴でもないな」
「俺は薬師に育てられた。砂糖の都たるヴェネツィア共和国の遥かさは聞き及んでいる。今は、しがない抜歯屋の助手だがな」
嘘はひとつもない。
ペトロニラに薫陶を受け、今は隠れ蓑として抜歯屋助手をしている。何より暴れる患者を抑えるのは、昔から俺の役目だった。
矮躯はにまにまと笑いながら、俺に一歩だけ近づく。
「そこいらの農奴や豚より、おバカさんじゃなさそうだね。どうして天守塔までこそこそやってきたのやら」
「孔雀にお目にかかりたくて」
用意しておいた嘘だ。
稚拙な偽りに、この矮躯は引っかかってくれるだろうか?
「孔雀?」
「城には孔雀がいるものだろう」
「ああ、孔雀ね。残念ながらお目当ての孔雀は、とっくにみんなの腹のなかさ。ずいぶん前の晩餐に食べちゃったんだ」
にぃと口角を上げる。
皺に縁どられた口許だ。
この矮躯、声は若いが、肉体はそれほど若くないのかもしれない。
「コドモっぽい願いだね、珍しい鳥が見たくて、夜のお城に入り込むなんて」
こども。
その単語が鼓膜に触れた途端、俺の肩が跳ねた。大きく跳ねてしまった。
「キミだけじゃなくて、コドモもかくれんぼしてるのかな?」
「……い、いない」
動揺が俺の舌を濁らせた。
返答が思いつかぬ。短くはない沈黙に、矮躯は笑う。
「さっきの小さな気配。あれはキミのコドモかな。息子か? 娘だったらこんなムチャをさせないだろう。好奇心旺盛な息子のワガママを聞いてあげちゃったのかな?」
的外れでありながら、俺の心臓を射貫くほど的中していた。
息子はいる。
天守塔のどこかにいる。
「キミさ、目付きが何か他のところを気にかけているし、動きが所帯じみている。コドモを二、三人くらい育ててるっぽいよね」
面倒をみていたのは異父弟と若君だが、見当はずれではない。
事実からかけ離れているが、真実を掠めている。
「ボクの名推理はピリリと来ただろ? 一粒の胡椒の強さは、ラザーニャをも制するのだ!」
「え、あ……」
「うん、うん、うん。好奇心旺盛な子はキライじゃないよ。見つけたらパパちゃんに返してあげよう。珍しい鳥を見んと真夜中のお城に忍び込むとは、なんとも勇ましい、なんとも賢い。遍歴学徒の素質ばっちりだよ!」
矮躯は上機嫌だった。
教会を知で冒涜する遍歴学徒になれると言われて嬉しいものではないが、彼の機嫌を損ねるよりずっといい。
しかしジャスパーの存在を知られていいのか?
あの子を巻き添えにしないために、否定し続けなければいけない。
だが過剰な否定は、肯定に繋がるのでは?
「ギィ。迷子ちゃんを探しに行こ。西戎どもに見つかったら、オモチャにされちゃうよ」
狼毛皮の男は腕組みしたまま、頷きをひとつ返した。
訛り強い言葉で、タルボット犬たちへ何か命じている。聞いたことがない言語だ。
「匂いが追えん」
「ギィのわんちゃんたちが追えない? バカな。水に飛び込まない限り、そんなこと………」
戸惑いの波紋が広がっていく。
犬たちも戸惑いに溺れぬよう、犬かきするようにうろうろと狼毛皮の男の周りを歩いていた。
彼方の廊下から、誰かがやってくる音が聞こえてきた。
奇妙なほど甲高い足音だ。
苛立ちを足音にしたら、こうであろうかという響きであった。
「何をしているのかしら? 犬どもがうるさくってよ」
三人目の人物は、やや高めな男の声だ。
柔らかさと高さがあるが、それでも男性の声には違いない。
なのに近づいてくる影の輪郭は、長い髪と裾を引くほどのチュニック。そして純白のマント。
貴婦人の輪郭だ。
遍歴学徒に、元狩狼師、さらに続いてやってきたのは女装をした青年。
「これはこれはトーマシン卿。夜半の寝覚に礼拝堂からお出ましになられるとは珍しい」
トーマシン卿は女のような肌や身なりをしているが、肩幅や手のごつさからして俺と同じ性別だった。年齢も同じか、下くらいか。
さらさらした髪を乙女のように伸ばし、捺染の裾をこれ見よがしなほど長く引いている。
だが腰には、礼帯と剣。
騎士としての敬称で呼ばれているのだから、騎士なのだろう、が………………
どうして騎士が、貴婦人の身なりを……?
もしや円卓試合の仮装だろうか?
馬上槍試合や大宴会の余興として、騎士たちがいにしえの騎士や修道士、果ては姫君の仮装までして演じる。エレックとエニッドでも演じるのだろうか?
こんな真夜中に円卓試合なわけもないだろう。練習か、あるは舞台衣装の仮縫いか?
姫を装っているのか、青年はなよなよしく首を傾げる。
「あたくしが礼拝しているのに騒ぐなんて、どういう料簡かしら? まさか侵入者じゃないでしょうね? そこにいるのっぽは誰? 奉公人?」
「侵入者だよ。もうひとりいるはずらしくってね」
「いやねぇ、さっさと追い出して頂戴な」
女装の騎士は気だるげに髪を掻き上げ、俺を一瞥する。月明かりの下、ほんの刹那だけ。
だが瞬間、整った顔がひきつった。
「そいつ、メアリに瓜二つじゃない!」
母の名が、石造りの回廊に響き渡った。




