10話 月を吸取り砂にして
印章指輪を若君からお借りする。
城にいた頃、エドマンドの若君の部屋に近づく愚を犯しはしなかったが、場所は知っている。
「………若君が眠っている隙にお借り致します。どうかお許しを」
ご領主さまは返答ではなく、溜息をついた。
それはただの深呼吸だったに違いない。だが俺には責められているように感じた。
「ジェイデン、フランス語は綴れるか?」
「州長官の下で多少、ひな形の練習を」
「では代筆を」
「畏まりました」
俺は肌身離さず付けていた荷物を解く。
水滴を弾くための蝋引き紙を外して、筆記用具を広げた。
公文書用に真っすぐ裁断された羊皮紙、羽根ペン、インク。薬壺に詰めた蝋。羊皮紙が削れるほど鋭く研いだ食事用ナイフも引き出す。吸い取り砂を欠いているが、一応は整っている。
ご領主さまはたどたどしく、州長官を招聘する言葉を紡いだ。
「ライオネル、シャルウッドベリの男爵より………親愛なる友人、州長官ギルス・ファウラー卿へ………我らと、この地の平穏に関わる緊急かつ重要な案件について、貴殿と直に協議したく存ずる」
長い文章ではないのにずいぶんとかかり、月は傾いていった。
「………我らのシャルウッドベリ城にて、エドワード王治年号33年、ミカエル祭の前日にこれを与える。主があなたをあらゆる悪から守り、望みを叶えてくださいますよう」
手紙の末尾が結ばれた。
ご領主さまの溜息が解かれる。
「そなたに何か証を持たせられれば、まだ証明になろうが………すべてエドマンドが持っておる」
紋章が付いたものひとつ預かれば、印章指輪の代理になったかもしれない。
だが無いものは無いのだ。
俺は筆記用具を片付ける。
インクが乾くまで、あとどれほどだろうか。
時間が落ちる。吸い取り砂の代わりに。さらさらと。
沈黙がふたたび夜を支配した。
「さぞ俺をお恨みでしょう」
「………そなたを恨んだところで、神の御心に添えぬ」
諦めを含んだ呟きだった。
枯れた指が、俺の手を取る。失われた指を慈しむような優しさだった。
「マーガレットがそなたに惹かれておるのは察しておった」
ご存じあらせられたのか。
俺をどこかへ遠ざければ済む懸念であったのに………
目が熱く潤む。
乾いた指先が俺の頬に触れた。
「ジェイデン。恋はどうしようもならぬ」
「ご領主さま………」
「経験も知恵も忠義も、恋には抗えぬ。もし打ち勝てるとしたら信仰のみやもしれぬ。しかしそこまで強き信仰を貫くのもまた難儀よ。そなたにも苦難と後悔があったのだろう。わしには推し量れぬほどの。ならば懺悔は聴罪司祭に語り、そこから先は神に委ねるとよい。救いは信じ続ける者へ、恵みは祈り絶やさぬ者へ。そうであろう?」
「……お言葉まことありがたく存じます」
俺の頬は濡れているが、インクは乾いていた。
あとは印さえあれば、この書状に魂が入る。
乾いた書翰を丸めた。
荷物を改められても見つからぬよう、薬草酢入れに差し込む。
これは一見、旅人がよく持っている真鍮の薬草酢入れだが、底が開く仕掛けになっている。仕組みを知らねば、つんとした匂いがするだけの空っぽの真鍮瓶だ。
「ジェイデン。あとを、頼む。メアリを、くれぐれも………」
力尽きたようにご領主さまは瞼を伏せられた。眠るでもなく、起きるでもなく、ただ浅く呼吸を繰り返す。
物音ひとつ立てぬように、大寝室から出る。
扉の影、そこでジャスパーが小さくしゃがんでいた。
俺は悲しみに溺れぬように、息子を抱き締める。たしかな暖かさ。幼い萌芽。希望。
「父さま。早く戻りましょう」
「まだだ。印章指輪を手に入れねば。エドマンドさまの寝所は、西の小部屋のままか?」
「行かれるのですか? エドマンド伯父の部屋はどの回廊から向かったとしても、犬がうろついてますよ。あの高慢な侍医がいつも侍っていますし。それに寝付けない夜は、たまに酒盛りに加わっています」
「それでも印章がなくば、正式な文書にならない」
印章無き一筆で、州長官が動きやしない。
下手な立ち回りをすれば、貴族と王と対立させてしまう。
「分かりました。では、まずぼくがエドマンド伯父が寝室にいるか確かめてきます」
「危険だ」
「平気です」
そばかすの顔は微笑む。
俺の喉に言葉が詰まってしまった。
真夜中でも明るい笑顔はマーガレットさまにそっくりで、逆らい難い。
「ぼくは嬉しいのです。父さまのお役に立てて。最初からこうやって協力して、母さまを助けるつもりだったんですよ。だから嬉しくて誇らしい。心配しないで、父さま。ぼくはかくれんぼの天才なんですから!」
「だめだ、ジャスパー。犬がうろついていると言ったのはお前ではないか。お前、囮になるつもりか?」
ジャスパーの肩が跳ねる。
ああ、本気で猟犬たちを引き付ける算段だったのか。
向こう見ずな。
マーガレットさまが蛮勇だと俺を叱った気持ちが分かる。
愛するものの蛮勇は、なんと心を削るものだろう。まして年端も行かぬ子が、無謀な策で動くなどあってはならぬ。
いや、どんな策を弄しようが、我が子を猟犬たちの牙に晒せない。
「いっそ俺が引きつけよう」
「それは、できません」
強い断言だ。
一拍後、ジャスパーは項垂れる。まるで落とし物を探すように項垂れたまま首を振った。
「出来ないんです……」
「しかし……」
「仮にぼくが印章指輪を手に入れても、父さまと合流しなければ無意味でしょう。ぼくが州長官さまの部下に届ければ、ぼくと父さまが昔から知り合っていたと疑われます。父さまはスコットランドにいたと、身元が判明したから毒殺のお疑いから外れているのに、ここでぼくと繋がっていたと思われたら不利になります」
ジャスパーは理路整然と、だが、どこか焦っているような……何か隠している口ぶりだった。
異父弟も隠し事をしていると、こんな風に縮こまったものだ。
「不測の事態が起きても、ぼくなら城に隠れる場所がいっぱいあります。囮にはなりますが、朝日が届く前に隠れますから」
「猟犬相手に隠れても、臭いで追いつかれ……」
「父さま。迷っていても、足踏みしても、夜明けはいつも訪れます、今日もまた。だから……」
ジャスパーはすでに駆けだしていた。
よくこんな暗闇で躊躇いなく走れるものだ。
慣れている城かもしれないが、それでもあまりに思い切りが良すぎる。
エドガーさまやジョンとて、真夜中の暗がりに駆けだすなんて無謀をしなかったのに。
遠くから犬の吠える声が響く。
ジャスパーが危険な目に遇っているのに、身動きできない我が身が憎い。己を殴りつけたい衝動を抑える。
呼吸を整えて、闇を進む。
エドマンドさまの住んでいる区画は不慣れだが、城の構造として大きな違いはないはずだ。
背後から足音が響いてきた。
誰だ?
巡回の衛兵か?
俺は回廊の石壁に足を掛け、僅かなでっぱりを見つけて指をかけ、梁へと飛び乗った。暗闇なら誤魔化せるはずだ。
ひょこひょこと小さな人影が訪れた。




