↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
猟犬の武勲譚
47/74

10話 月を吸取り砂にして


 印章指輪を若君からお借りする。

 城にいた頃、エドマンドの若君の部屋に近づく愚を犯しはしなかったが、場所は知っている。

「………若君が眠っている隙にお借り致します。どうかお許しを」

 ご領主さまは返答ではなく、溜息をついた。

 それはただの深呼吸だったに違いない。だが俺には責められているように感じた。

「ジェイデン、フランス語は綴れるか?」

「州長官の下で多少、ひな形の練習を」

「では代筆を」

「畏まりました」

 俺は肌身離さず付けていた荷物を解く。

 水滴を弾くための蝋引き紙を外して、筆記用具を広げた。

 公文書用に真っすぐ裁断された羊皮紙、羽根ペン、インク。薬壺に詰めた蝋。羊皮紙が削れるほど鋭く研いだ食事用ナイフも引き出す。吸い取り砂を欠いているが、一応は整っている。

 ご領主さまはたどたどしく、州長官を招聘する言葉を紡いだ。

「ライオネル、シャルウッドベリの男爵より………親愛なる友人、州長官ギルス・ファウラー卿へ………我らと、この地の平穏に関わる緊急かつ重要な案件について、貴殿と直に協議したく存ずる」

 長い文章ではないのにずいぶんとかかり、月は傾いていった。

「………我らのシャルウッドベリ城にて、エドワード王治年号33年、ミカエル祭の前日にこれを与える。主があなたをあらゆる悪から守り、望みを叶えてくださいますよう」

 手紙の末尾が結ばれた。

 ご領主さまの溜息が解かれる。 

「そなたに何か証を持たせられれば、まだ証明になろうが………すべてエドマンドが持っておる」

 紋章が付いたものひとつ預かれば、印章指輪の代理になったかもしれない。

 だが無いものは無いのだ。

 俺は筆記用具を片付ける。

 インクが乾くまで、あとどれほどだろうか。

 時間が落ちる。吸い取り砂の代わりに。さらさらと。

 沈黙がふたたび夜を支配した。

「さぞ俺をお恨みでしょう」

「………そなたを恨んだところで、神の御心に添えぬ」

 諦めを含んだ呟きだった。

 枯れた指が、俺の手を取る。失われた指を慈しむような優しさだった。

「マーガレットがそなたに惹かれておるのは察しておった」

 ご存じあらせられたのか。

 俺をどこかへ遠ざければ済む懸念であったのに………

 目が熱く潤む。

 乾いた指先が俺の頬に触れた。

「ジェイデン。恋はどうしようもならぬ」

「ご領主さま………」

「経験も知恵も忠義も、恋には抗えぬ。もし打ち勝てるとしたら信仰のみやもしれぬ。しかしそこまで強き信仰を貫くのもまた難儀よ。そなたにも苦難と後悔があったのだろう。わしには推し量れぬほどの。ならば懺悔は聴罪司祭に語り、そこから先は神に委ねるとよい。救いは信じ続ける者へ、恵みは祈り絶やさぬ者へ。そうであろう?」

「……お言葉まことありがたく存じます」

 俺の頬は濡れているが、インクは乾いていた。

 あとは印さえあれば、この書状に魂が入る。

 乾いた書翰を丸めた。

 荷物を改められても見つからぬよう、薬草酢入れ(ビネグレット)に差し込む。

 これは一見、旅人がよく持っている真鍮の薬草酢入れだが、底が開く仕掛けになっている。仕組みを知らねば、つんとした匂いがするだけの空っぽの真鍮瓶だ。

「ジェイデン。あとを、頼む。メアリを、くれぐれも………」

 力尽きたようにご領主さまは瞼を伏せられた。眠るでもなく、起きるでもなく、ただ浅く呼吸を繰り返す。

 物音ひとつ立てぬように、大寝室(チェンバー)から出る。

 扉の影、そこでジャスパーが小さくしゃがんでいた。

 俺は悲しみに溺れぬように、息子を抱き締める。たしかな暖かさ。幼い萌芽。希望。

「父さま。早く戻りましょう」

「まだだ。印章指輪を手に入れねば。エドマンドさまの寝所は、西の小部屋(オリエル)のままか?」

「行かれるのですか? エドマンド伯父の部屋はどの回廊から向かったとしても、犬がうろついてますよ。あの高慢な侍医がいつも侍っていますし。それに寝付けない夜は、たまに酒盛りに加わっています」

「それでも印章がなくば、正式な文書にならない」

 印章無き一筆で、州長官が動きやしない。

 下手な立ち回りをすれば、貴族と王と対立させてしまう。

「分かりました。では、まずぼくがエドマンド伯父が寝室にいるか確かめてきます」

「危険だ」

「平気です」

 そばかすの顔は微笑む。

 俺の喉に言葉が詰まってしまった。

 真夜中でも明るい笑顔はマーガレットさまにそっくりで、逆らい難い。

「ぼくは嬉しいのです。父さまのお役に立てて。最初からこうやって協力して、母さまを助けるつもりだったんですよ。だから嬉しくて誇らしい。心配しないで、父さま。ぼくはかくれんぼの天才なんですから!」

「だめだ、ジャスパー。犬がうろついていると言ったのはお前ではないか。お前、囮になるつもりか?」

 ジャスパーの肩が跳ねる。

 ああ、本気で猟犬たちを引き付ける算段だったのか。

 向こう見ずな。

 マーガレットさまが蛮勇だと俺を叱った気持ちが分かる。

 愛するものの蛮勇は、なんと心を削るものだろう。まして年端も行かぬ子が、無謀な策で動くなどあってはならぬ。

 いや、どんな策を弄しようが、我が子を猟犬たちの牙に晒せない。

「いっそ俺が引きつけよう」

「それは、できません」

 強い断言だ。

 一拍後、ジャスパーは項垂れる。まるで落とし物を探すように項垂れたまま首を振った。

「出来ないんです……」

「しかし……」

「仮にぼくが印章指輪を手に入れても、父さまと合流しなければ無意味でしょう。ぼくが州長官さまの部下に届ければ、ぼくと父さまが昔から知り合っていたと疑われます。父さまはスコットランドにいたと、身元が判明したから毒殺のお疑いから外れているのに、ここでぼくと繋がっていたと思われたら不利になります」

 ジャスパーは理路整然と、だが、どこか焦っているような……何か隠している口ぶりだった。

 異父弟も隠し事をしていると、こんな風に縮こまったものだ。

「不測の事態が起きても、ぼくなら城に隠れる場所がいっぱいあります。囮にはなりますが、朝日が届く前に隠れますから」

「猟犬相手に隠れても、臭いで追いつかれ……」

「父さま。迷っていても、足踏みしても、夜明けはいつも訪れます、今日もまた。だから……」

 ジャスパーはすでに駆けだしていた。

 よくこんな暗闇で躊躇いなく走れるものだ。

 慣れている城かもしれないが、それでもあまりに思い切りが良すぎる。

 エドガーさまやジョンとて、真夜中の暗がりに駆けだすなんて無謀をしなかったのに。

 遠くから犬の吠える声が響く。

 ジャスパーが危険な目に遇っているのに、身動きできない我が身が憎い。己を殴りつけたい衝動を抑える。

 呼吸を整えて、闇を進む。

 エドマンドさまの住んでいる区画は不慣れだが、城の構造として大きな違いはないはずだ。

 背後から足音が響いてきた。

 誰だ?

 巡回の衛兵か?

 俺は回廊の石壁に足を掛け、僅かなでっぱりを見つけて指をかけ、梁へと飛び乗った。暗闇なら誤魔化せるはずだ。 

 ひょこひょこと小さな人影が訪れた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。