9話 ポリクラティカス
「ジェイデン? そなたが州長官の使者……? 包み隠さず申せ。まさか憂慮で、王の臣下が動くと申すか?」
ご領主さまは枯れ果てた肉体を、気力だけで起こそうとする。
事態が末期と悟られたのだ。
俺はご領主さまの背中を支え、耳元で状況を語る。
「動産占有回復令状の増加と街道の荒れ模様が、すでに『王の平和』に背く状態となり果てております」
「なんという……」
しわがれた声が、震えながら散る。
州長官が動くほどの荒廃など、シャルウッドベリを統べるご領主さまにとって、どれほど面目を失う事態か。
ご領主さまが壮健であらせられた頃に、動産占有回復令状の通達など無かった。
ああ、しかし俺はさらに酷い事実を告げねばならぬ。
躊躇いは唇を乾かす。
だが俺は血を噴いても語らねば。
「サースタン・ウォーターズはご存じですか?」
「……聞かされてはいる。漏れ聞くところによれば、マーガレットを………」
苦しそうに呻く。
俺も口にしたくない名であったが、ご領主さまこそ聞きたくない名であっただろう。
「毒殺されました」
沈黙に、微かな呼吸音。
乾きながら脈打つ首筋で、喉ぼとけが大きく動く。あたかもご領主さまご自身が毒杯を呷ったかの如く。
「……『毒殺はつねに忌み嫌われ、犯罪とされてきた』」
それだけを呟かれた。
一拍後、それがソールズベリーのジョンが著した『ポリクラティカス』からの引用だと察する。
引用の続きは、『だが、彼が毒で死んだのはよいことだと誰もが思うだろう』。
口に出すにはあまりに道徳欠いた発言ゆえに、ご蔵書から引用されたのか。
黙祷と似て非なる沈黙を経て、俺は口を開いた。
「州長官さまは犯人をお探しです」
「そなたに容疑はかからなかったのか?」
「幸いにも俺の容疑は晴れています。スコットランド戦争に馳せておりましたゆえに」
「王軍に属していたか。そして州長官もこれ幸いと、王の兵士を密偵に使ったか」
「はい。現在の筆頭容疑者はペトロニラ。砦にて拘留中です」
「疑う理由は……無理もないか」
苛烈で腕利きの薬師だ。
ペトロニラの忠義が殺意となっても、誰しもが納得するだろう。
「あるいは、この城に蔓延る悪徳騎士どもです。マーガレットさまの寡婦産狙いで、毒殺されたのだと。ゆえに州長官さまが、ご自身を城へ招くようにご領主さまの一筆求めて、俺を猟犬として差し向けました」
真夜中の寝所に、陰鬱な溜息が籠る。
ご領主さまの長年の苦しみと悔しさが凝り、僅かな月明かりさえ饐えていく。
「ペトロニラであったとしたらマーガレットが。悪徳騎士どもであればエドマンドか。どちらにせよわしの子が成した罪か。エドマンドだとしたらなんたる罪深さよ………」
呼吸が荒くなっていく。
「……わしは期待しておった」
苦しみを臓腑から絞り出すような声だった。
「寝床ではなく領主の椅子に座せば、エドマンドとて自覚が芽吹くのではないかと………」
ご領主さまのご期待は甘い。
だがその優しさゆえに、民草への慈しみは並々ならぬものがあった。
それを愚かだと誰が言えよう。『ポリクラティカス』とて、君主が法を執行するならば、同情と慈悲の側に誤りを犯すべきだと著していた。
慈悲と寛容に応えられぬ者こそ、恥を知るべきなのだ。
「州長官へ一筆か。だが、印章指輪が、もはやわしの指にないのだ……」
「無い?」
思いもよらぬ事態に、俺の喉は震えた。
高貴なる身分にとって印章は、己自身に等しい。
己の名誉であり、己の信頼であり、そして己の信念。
愛馬や剣を手放す苦難や不運に陥ろうとも、印章を手放すなどあり得ぬのだ。
「………エドマンドが持っているはずだ」
「若君に印章を略奪されたと?」
印章の指輪は、ただひとりのための印だというのに。
若君はなんと不孝に不忠を重ねた振る舞い。
湧いてきた怒りを吐き出しそうになった。
俺は落ち着きをかき集めるための深呼吸をする。
憤っている暇はない。
正式文章のための印章はふたつ。
ご領主ご自身の私印と、法廷館にある公印。
最重要書類には偽造防止のため、ふたつ蝋の裏表に押印される。
今回の招聘には領主私印ひとつで事足りる。そう思って、ご領主さまに会いに来た。
なのに今、ご領主の指には印章指輪が無い。
「異議を唱えるものはおらぬのですか?」
「サイモン司祭が真っ向から窘めた」
城付き司祭さまか。
この城において礼拝を取り仕切り、告解に耳を傾け、ラテン語の書類を精査し、さらにご領主さまの政治が神学的にどう解釈されるかの御相談役でもあった。
オックスフォード大学を出られており、神学と法律にお詳しい。その上、お血筋とて侮れぬ。
若君が軽んじれる方ではない。
「ゆえに早々、巡礼に出されておる。わしの快癒巡礼という名目でな。最初はロンドン、リンカーン、カンタベリー。戻って来るが否や、今はなんとも遥かなヨークとウォルシンガムまでだ」
「ご領主さまの快癒の巡礼…………」
その命令は断れない。
聖職者を追放するなど不可能だが、跡取りからの巡礼は正当過ぎる命令だ。司祭が異議を唱えるわけにはいかない。
それがたとえ遥か彼方、北の聖地であっても。
若君が巡礼を名目に遠ざけているならば、司祭さまがウォルシンガムからお戻りになられたところで、次はシャルトル大聖堂への巡礼を命じかねない。
「しかしご領主さま。そこで眠っている修道士は、ご領主さまの施療のため控えているのでしょう。彼を遣いにして、修道院長へ助けを求めればよいのではありませんか?」
印章指輪の略奪は看過できぬ。
ありとあらゆる布告や契約を正当化できてしまうのだ。
「若君がここまで私兵が集められているなら、修道院長が州長官を伴って城の視察に踏み入れるはず」
「ああ。あの修道士の献身はまこと尊く、わしの感謝は尽きぬ。だが彼は読み書きは出来ず、馬や騾馬にも跨れぬのだ。修道院の迎えがなくば帰る方法はなく、エドマンドも彼を城から出さぬだろう。わしと同じ虜囚よ」
暖炉の前で眠る修道士。
老いた体を薄い毛布を包み、懇々と眠っている。看病疲れなのか起きる気配はない。
「そもそも彼はマーガレットが派遣したのだ」
「マーガレットさまが今、修道院と連絡が取れるなら………」
「いいや、あの子はもっと以前に契約を……エドマンドの専横が始まった直後、すでにマーガレットは最悪の事態を想定しておったのだろう。領主裁判の開廷式を執り行う時、公印によって教会と契約した。わしがミカエル祭前の借地契約更新の話し合いに姿を見せぬならば、肉と魂の癒しに長けた修道士をひとり、寄越してほしいと」
修道士の派遣。
それはただ領主が体調を崩しただけでも、役に立つ契約だ。
どれほど下賤で悪辣な人物であろうと、聖域の住人に手出しはできない。そして異常があれば、修道士が修道院長へ報告できる。
マーガレットさまは事態がどのように転んでも、善きに向かうための種を捲いておられたのか。
「ただ四半期の契約だ。修道院から彼の迎えが訪れるのは、待降節になる」
「そこまで待つわけには参りません」
ぞっとするほど遠い。
やはり州長官を招くのが最速か。




