8話 枯れた箱庭、朽ちた大樹
「ジャ……!」
名を呼び掛け、息を飲む。
ここで大声を発して、誰かに見咎められてはすべてが水泡に帰す。
荊を掻き、藪を踏み、ジャスパーに駆け寄った。丸い額とそばかすの頬へ接吻を贈る。
「ジャスパー。どうしてここに? ペトロニラも来ているのか?」
俺は小声で問う。傍らに生える草にも聞こえぬほどの小声で。
ペトロニラは州長官の砦に、丁重に軟禁されている。老商人殺しの容疑者のひとりなのだ。
ジャスパーも砦に残ったとばかり思っていた。あるいはマーガレットさまの荘園に戻ったか。
何故こんな離れたシャルウッドベリの城に?
「婆さまは州長官の塔にいっしゃいます。元気に悪態付きながら、怪我人を診てますよ」
「では、まさかマーガレットさまがいらっしゃるのか?」
「いいえ、母さまは荘園でお過ごしです」
「では、何故、誰が……」
愛らしいそばかす顔は、月が描く輪郭よりもっと頼りなく、儚い。それでいてはっきりとした含羞を漂わせ、笑みを浮かべた。
「父さま。おじいさまのご寝所へ行くのでしょう?」
何故、知っている?
俺が疑問を口にするより早く、ジャスパーのマントが翻る。
「こっちです。炊事塔には犬たちが行き交っていて、飛び散った脂や髄を舐めまわし、乞食に与えるべきパン皿を喰らっているんです。主人と料理番たち以外にはけたたましく咆えるでしょう。遠回りですが、犬の通らない順路があります」
「……ジャスパー。お前にそんな危険な真似をさせられぬ。言っただろう、お前は罪から遠くありなさい」
「危険も罪もありません。ぼくはかくれんぼが大得意なんです」
「そうは言っても……」
「さ、早く。夜が終わる前に」
夜が終われば、すべてが終わってしまうかのような口ぶりに、俺は急き立てられた。
「父さま、こちらへ」
導かれるまま、闇を歩いた。
槍めいた雑草を折り進み、崩れた塀を登って、導水路を跳び越えて、一粒のひかりも届かない道を行く。
「この扉は開いています。ここの当番は無精者で、よく鍵を忘れるんですよ」
重い扉を軋ませぬように押して、狭い階段を上っていく。ジャスパーは暗闇を物ともせず進んでいった。
勇気と行動力に富んだ子だと知っていたが、これほどの闇にも物怖じせぬのか。
どろりとした闇だ。
闇そのものが足に絡みついてくるのではないかと、錯覚を抱く。
「父さま、父さま」
………そもそも城にこんな回廊があっただろうか?
十年ぶりに戻る城とはいえ、ここがどこか見当もつかない。弓兵として城の警備に加わって、夜間の巡回とて何度かしたというのに、記憶にない場所を歩いているみたいだ。
俺の指と同じく、頭も虫食いになっているのか。
「こっちですよ、こっち」
ジャスパーの囁きだけを頼りに歩んでいく。
どこをどう通り、どれだけ歩いたか分からぬ。
だが領主の大寝室に辿り着いた。
「ぼくは見張りをしていますから、父さまはおじいさまとお話を。介護役の修道士は午前寝に入ったばかりなのでお気をつけて」
頷きを返して、大寝室の扉を開く。
淀んだ空気だ。
一歩踏み入れば、靴の裏で乾いた藁が折れる。立ち上るは香草の古びた匂い。
領主の大寝室の床に撒く薬草を、取り換えていないのか。
暗闇に目が慣れてきた。
暖炉の傍らには、粗末な寝床が作られていた。年嵩の修道士が寝息を立てている。老人は眠りが浅い。起こさぬよう用心して大寝台に近づいた。
天蓋から垂れる布を、そっとめくりあげる。
「ご領主さま……」
大寝台に横たわっている老人。
ほんとうにこの方が、偉大なご領主さまなのだろうか。
あまりにも痩せこけて、頬も首筋も枯れ木のようではないか。折れて倒れて苔むして、霜が降り、あとは土に還るだけの朽ち木ではないか。
そっと手を重ねた。
なんと乾いた皮膚だろうか。焚きつけにされる樹皮めいていた。
看病せねば。
だが、これはもう………手の施しようがないのでは?
薬草園では癒しを学び、戦場にて死を看取り続けた。
俺の内側に積もった経験が、囁くのだ、もうご領主さまは手の施しようがないと。死に向かって歩みを進めているのだと。
薬草園は俺にとって母の優しさだった。母さんだけでなくペトロニラの癇癪さえ愛だった。
そして畏れ多くも俺にとって、ご領主さまのご配慮こそが父の慈悲だった。
だが満ちていた愛情は枯れ、慈悲は朽ちた。
すべて俺のせいなのだ。
マーガレットさまとの恋が破滅の矢だと知りながら、番え弦引き、放ったのは、ほかならぬ俺自身ではないか。
胸を掻きむしり、己の心臓を引き出してしまえればいい。
ジャスパーの姿が脳裏を横切る。
あの子がいる。
楽園が枯れて大樹が朽ちても、幼き芽吹きのために、俺は折れてはいけない。
「どうかお目覚め下さい。ご領主さま………直臣領主ライオネル・オヴ・シャルウッドベリ」
俺の囁きに、瞼が震えた。
樫色の瞳が開かれた。
だがその眼差しに輝きはない。曇った水面に似ていた。揺れるだけで、何も映さぬ虚ろな水面。
「……メアリ、メアリか」
乾いた声は、母の名を繰り返した。
枯れ井戸の反響の如き虚ろさで。
「メアリ。おお、戻ってくるなと、申したではないか。そなたの看護なくとも平気だ………せめて、そなたは安全な………」
「ジェイデンです。メアリの息子、ジェイデン・アットグリーンです」
懺悔するように名乗る。
俺の犯した罪で、マーガレットさまや母さんの運命は狂った。
そしてご領主さまも。
どれほど憎まれているとしても、一筆を乞わねば。
ご領主さまの瞳は虚ろなままだが、涙が浮かんだ。
「………ジェイデン。そうか、戻ったか。長き不孝であったな」
恨み事もお叱りもなかった。
ただ母を放置した罪だけを窘められた。
「メアリを頼む」
「無論です」
上ずる震えを抑え、俺は誓う。
「ですが今は州代官ギルス・ファウラーの遣いとして参りました。エドマンドさまの友人を騙り悪徳の限りを尽くす騎士どもに、州長官は憂慮さなっておられます。ご領主さまがこの領地に招く一筆を下されば、この城に住まう悪徳の騎士らを追い払えましょう」
語っていくたびに、ご領主さまの瞳の焦点があってきた。
夢の淵から這い上がるようにゆっくりと。
瞬きを繰り返し、呼吸を重ね、ふたたび俺を見据えた。
今度はしっかりと、自我の宿った眼差しで。




