7話 幸福の残滓
ごろつきの親玉と聞けば、悪辣さで部下を操るか、残酷さで部下を縛るか、あるいはその両方だと思っていた。
だがこの美丈夫ときたら、なんとも軽やかで、涼やかではないか。
男が戦えば、血潮沸きた熱気が膚から立ち上るというのに、ユーグ・ドゥレートルの涼やかさはなんだというのだ。あたかも気持ちの良い初夏の風ではないか。
幾多の戦で騎士を見かけてきたが、ここまで水際立った男ぶりは見たこともない。
──惑わされるんじゃないよ──
ペトロニラの忠告が反響する。
そう、惑わされてはいけない。薔薇の如く匂い立つ男ぶりも、爽やかな微笑みも、善を伴わぬなら、どうして賞賛できようか。
城の裏門が開いた。
馬丁や厩番たちがユーグ・ドゥレートルを恭しく出迎える。
下働きが丁寧に手綱を預かっている間、猟犬たちまで溢れてくる。
たくさんの、そしてさまざまな種類の犬が、津波のように押し寄せてきた。
おおむね雑種だろうが、白や小麦色のタルボット犬もいれば、白と黒のコリー犬も走ってくる。テリー犬のような小型狩猟犬も混ざっていた。
どの種類の犬も嬉しそうにはしゃぎ、サーベル型の尾を振り、ユーグ・ドゥレートルに纏わりつく。悪徳の騎士だが犬たちの慕いっぷりからして、良い主人なのだろうか。
出迎えは賑わしい。
曲芸熊もふたたび興奮してくる。慌てる旅芸人たち。
そのどさくさに紛れて、厩番のひとりが俺と抜歯屋を手招きする。城内の厩に引き入れてくれた。
「この城には気性の荒い犬が揃ってやがる。考えなしに出歩けば、噛みつかれるからな。野蛮な犬だ」
忠告だか愚痴だか、あるいはその両方なのか。厩番は半ば独り言めいて繰り返す。
案内されたのは、厩のとなりの納屋だ。馬の匂いが強いが、あたたかくて安全だ。
藁は酸っぱい匂いになっているが、それほど汚らしくはない。
厩番が戻ってくる。驢馬のためのライ麦と、真新しい水に満たされた水差しをもってきてくれた。抜歯屋は代わりに馬芹の包みを渡す。厩番は匂いを嗅いで、納得した。交渉は成立だ。
「朝いちばんで出ていく約束は忘れんでくれよ」
「朝いちばんどころか、夜明け前には。この藁ならぐっすり休めそうだ」
感謝なのか皮肉なのか。
厩番は挨拶も愛想も、どうでもいいとばかりに背を向けて、無言で去っていってしまった。不愛想だが、こちらとして好都合だ。
「ジョンくん。冗談抜きで夜明け前に経つ」
俺が戻ってこようがこまいが、どちらにせよ抜歯屋は州長官への報告のため戻る。驢馬に掛けられた袋と抜歯屋の頭には、伝えるべき情報が詰め込まれているのだから。
「きみは先に睡眠を取っ………何をしているのかね?」
「歯磨きしてくる」
合切袋から歯磨き粉を取り出す。
旅のあいだは水が貴重だったが、今なら歯磨きできる。
「………は?」
抜歯屋は奇妙なことを聞いたとばかりの反応だった。
「大丈夫だ。水は俺の分しか使わない」
「いや、それは構わんが」
「俺が立派な歯をしているのは、口の中の瘴気を棄てているからだ」
「………」
変わり者みたいな眼差しを返される。
「歯に気を使うなら、歯磨きなんぞより、聖アポロニアに祈って寄進すべきだろうに」
「むろん聖人に祈るが、歯磨きも信じる」
「………」
抜歯屋は何も答えなかったが、その眼差しは俺を偏屈の変人だと語っていた。
どう思われようがペトロニラの言いつけは守る。
納屋の外で歯磨きをしてから、眠る前に神と聖母とあまたの諸聖人へ祈りを捧げる。
「神と祝されし母処女マリア、天の御国のすべての聖人を讃えよ。この世を旅立ち、煉獄の罰を受けながら神の赦しを待つすべての魂が、我らの祈りによりすみやかに苦しみから解き放され、永遠の喜び、神の喜びを得ますように。神は三位一体にあられて、終わりなく、喜ばしい平穏の中におられ、その高貴なる血で我々の罪を購われました。それが神の御心ならば、偉大なる慈悲と憐れみの神が、最後に我々に喜びを与えて下さいますように。エイメン」
どうか最後に我々に喜びを……
俺は祈り、床に入る。
歯磨きのおかげか祈りの加護か、酸っぱい藁に潜った途端、午後寝に入り込めた。
痩せた月の明かりが、藁を湿らせていた。
抜歯屋は明り取りから外を覗いている。警戒に満ちたままの眼差しが、俺に向けられた。
「待て。午後寝が終わって、まだそれほど経っておらん。厩番たちが夜半の寝覚で、馬たちを見回っている」
砂利や砂を踏む音が微かに耳に届く。
日暮れによって眠りに沈み、真夜中に祈り、朝日が昇るように目覚める。
自然な人の営みは変わらない。
「さきほど厩番らの雑談が聞こえたが、夜通し酒盛りするごろつき騎士もおるそうだ。努々、油断するなよ」
「夜食の宴か。不道徳な」
息を潜めている間に、俺は身体を按摩した。無茶な動きをしても筋を傷めないように、身体を解していく。それからチュニックに袖を通し、革手袋をつける。
俺の親指と人差し指を隠す手袋だ。中に亜麻屑を詰め、指を模している。
物音が絶えた。
夜半の寝覚が終わり、午前寝に入ったか。
抜歯屋が用を足すついでに、厩や門の辺りを見回ってくる。
「今なら行ける」
「ああ、気を付ける」
厩番たちは、納屋や家畜小屋のすぐ隣で寝起きしていた。
眠りの浅い奉公人がいるやもしれぬ。物音どころか影も落とさないように扉を目指す。
天守塔へ続く扉はかんぬきが下ろされて、硬く閉ざされていた。だが厩と鍛冶場の隙間に、養魚池にまで繋がっている導水路がある。
息を吸って潜ってみる。
かなり深い。
潜ってみたが、闇の中で藻掻くと上下も分からなくなる。
息が切れる前に、水面に上がった。
半ば予測していた通りだ。たやすく潜れるなら防衛にならぬ。水が湛えられていれば、導水路に届くはずがない。
俺は息を吐いた。
空気をすべて吐き捨て、肺腑を萎ませる。
人間の肉体は『肺腑に空気を吸い込んでいるから、浮くだけ』なのだ。
導水路に沈む。落下する勢いだ。
空気を吐いた俺を導水路の水は受け入れくれて、瞬く間に暗い底へと案内してくれる。水中の石壁の半ばには、穴がひとつ。そこが城内へ通じる導水路だ。
身体を捩って、細すぎる水路を潜り、流れに抗い、奥へ奥へと入りこむ。
呼吸が、持つか?
意識が遠のきかけた須臾、蒼白い月明かりが視界に触れる。
月明かりに縋り、水面を目指した。
「………はぁっ」
岸に上がる。
頭がくらくらするが、真っ先に物陰に隠れた。呼吸を整え、衣服や靴から力いっぱい水を絞る。
まったく危険な真似だった。
マーガレットさまならきっと、蛮勇だと叱ってくれるだろう。
ここはマーガレットさまと結ばれた果樹園だ。
幾度となく悔んだ夜がここにある。
………あの夜、暁が訪れる前にマーガレットさまを天守塔へ送っていれば。
あるいは調薬小屋の布を集めて巻きつけ、荷物を装って運べば、見咎められることはなかった。夜明け前とはいえ俺が小部屋に掃除用具や洗濯物を運んでいても、それほど奇異に思われない。
マーガレットさまを物のように運ぶ無礼を犯していれば、少なくとも名誉は守られた。
過ぎ去ったことをあれこれと頭の中で巡らしてしまう。
鬱々としていると、我知らず足は調薬小屋へ向かっていた。数え切れぬほど戦場を駆け、友の屍を踏んだ足でも、まだ故郷は忘れていなかったらしい。
だが雑草によって行く手を阻まれる。
夏枯れを芽吹きを繰り返した雑草は硬く重なり、荊めいた蔓が蔓延っている。
長らく薬草園の手入れをしていなかったのだろう。
ペトロニラが大事にしていたローズマリーは葉を失い、いびつな針金めいている。母の愛したアルコレストは姿を消してしまった。残り香さえもない。俺があれだけ世話した薬草たちも、もはやどこに植えられていたのかさえ定かではないのだ。
俺の日常だったカモミールの小路も、歩かれることを忘れ、背の高い雑草と木の葉に埋もれていた。
なにより調薬小屋が崩れかけていた。
屋根は剥がれ、皮を張った窓は奪われている。身ぐるみはがされ怪我を負った老人のようではないか。直視するのも耐えがたい。
ああ、城に戻ってこようとも、けして戻れぬのだ、あの日々には。
俺が思い出を忘れずとも、思い出に俺が忘れ去られている。
幼い幸せはどこにも残っていない。
感傷に囚われそうになるが、溺れるわけにはいかない。
今、なすべきはひとつ。ご領主さまにお会いすることだけ。
州長官ギルス・ファウラーへの手紙を貰わなければ、領地は遠からず死ぬ。
薬草園と同じく枯れ果ててしまうのだ。
ここから炊事塔へ行けば、城主の大寝室へ辿り着ける。
「父さま」
月明かりの届かぬ夜陰から、幼い呼びかけが響いた。
リング・ブローチに嵌っている碧玉が、僅かな月の恵みを掴むように光る。
ジャスパー。
俺とマーガレットさまの息子。
愛しい姫君の顔立ちを受け継ぎ、弟と同じ瞳の色をして、エドガーさまを思わせる背格好。俺の守りたいものを凝らせた姿が、枯れ果てた庭に佇んでいる。
「来てしまいました」
金のそばかすが輝く顔が、マーガレットさまそっくりに微笑んだ。




