付加価値って大事
「この人にはうちで働いてもらうことになったわ」
リビングに戻るなり、紅音は開口一番そう言った。
出された茶菓子を摘まもうとしていた梛紗は目を丸くする。さっきまであれほど拒もうとしていたのだから当然だろう。
「助勤としての仕事はもちろん、炊事洗濯掃除から買い出しまでなんでもやらせていいわよ。わたしが良いというまで無償で働いてくれるそうだから」
「おいおい、ちょっと待て。俺はそこまでするとは……」
「覆せないんじゃなかったかしら?」
澄まし顔でやり返す紅音に、梛紗は口をもごもごさせて黙った。先ほどの紅音と同じように否定の言葉は出せないらしい。
「とはいえ、この家の家長はお父さんよ。住み込みを許可するか否かはお父さんが決めることだわ」
そう紅音が言うと、智春は腕組みをして唸った。
「梛紗……くん、で良かったかな……? 君はその、なんというか……うぅ~ん……」
穏やかで常識的な智春には降って湧いた梛紗という存在が受け止めきれないようだ。当然といえば当然ではあるが、ここは父親としてがんばってほしい。
しかし里穂子は違う。幼少期から多量の少女漫画雑誌を愛読してきた母は男女のアレコレが大好物なのである。梛紗のことを紅音の彼氏だと信じきっているらしい。
「迷う必要なんかないわ、智春さん! 梛紗くんも雪緒ちゃんも悪い子には見えないもの! それに、それにね……!」
少し冷めてしまった紅茶をぐぐいっと飲み干し、里穂子は必死の形相で訴える。
「口を開けば金利がどうのとかしか言わない紅音ちゃんが! 男の子を! 連れてきたのよ!」
「連れてきてはいないわ。勝手に湧いて出ただけよ」
「おいおい、俺は虫か何かか?」
紅音の訂正に梛紗が口を挟む。それが親しげに見えたのか、なおも里穂子は止まらない。
「こんな機会この先もう二度とないかもしれない! いいえ、ないわ、きっと! だって紅音ちゃんだもの! せっかく超絶美少女に生んだのにその恩恵をゴミ箱にダンクシュートしてる子だもの! 幼稚園で同じ組だった男の子にプロポーズされて『あなたとけっこんするめりっとなんて、どこにあるの?』って言って泣かせたことママ忘れてないんだから!」
そう言って里穂子は両手で顔を覆い、わぁっと泣き出した。
事実である。その子とは別に仲が良かったわけでもない。むしろ意味もなく髪を引っ張られたり持ち物を隠されたりと不快なことが多かった。ところが卒園間際のある日いきなり『おとなになったら、けっこんして』と、もじもじしながら言われたのだから不可解である。なぜそのような要求をするのか、疑問を呈するのは当然のことだ。
紅音が言った意味を男の子は正しく理解できなかったようだが、想いが届かなかったことは察したらしい。結果、ギャン泣きである。
それがお迎えの時間でのことで、幼い恋の告白にあらあらまぁまぁと見守っていた保護者たちは唖然。里穂子は相手の母親に平謝りしていた。
後に知ったことだが男の子は卒園後に一家で遠方へ引っ越すことが決まっていたらしい。今どこでどうしているのかは知らない。
「子供相手に容赦ない……。そのフラれ方は大人でも心折れるぞ」
「わたしも子供だったのだから対等でしょう? それに、結婚するかしないかは自分で選べる時代なのよ、今はね」
呆れたような梛紗の言葉に紅音が悪びれず答えると、彼は閉口した。
里穂子も紅音には何を言っても響かないことをよく知っている。だから隣に座る智春の腕を掴んでがくがく揺らし、訴えた。
「ねぇ、かまわないでしょう? 年末年始や例祭なんかの忙しい時には氏子さんに手伝ってもらっているんだし。智春さんが書道教室にいる間、社務所に座っていてもらうだけでも助かるじゃない」
参拝客が決して多いといえない卯山神社では、社務所は無人のことが多い。土日祝日と放課後は紅音が、パートのない平日は里穂子が手伝うわけだが基本的には智春ひとりである。だから受付には呼び鈴が設置されており、それが鳴った時は教室にいる智春が離席して応対するのだ。
「うーん、まぁ、そうだねぇ……」
相変わらず智春は多いに悩んでいた。
「仮に、ここに住んでもらうとして、部屋はどうすればいいんだろうね……?」
里穂子の勢いに圧されている。しかし、夫の言葉に我に返ったのは当の里穂子だ。
「考えてなかったわ」
そのやり取りに紅音はほくそ笑む。この家に空き部屋なんてないのだ。かつて紅音が使っていた部屋は里穂子の少女漫画と小説、そして可愛いものコレクション置き場と化している。
「お母さんのコレクション、処分できるかしら?」
「それは無理」
即答だった。しかも室内は里穂子渾身のDIYで乙女チックに改造されている。まさに里穂子の城である。他人に明け渡すなんて今さらできないだろう。
「では、里穂子さんが離れに移って紅音と暮らして、私と梛紗くんと雪緒くんで母屋に住む、とか?」
「嫌よ、そんなの! 別居みたいじゃない!」
智春の提案に、里穂子は夫の腕にしがみついてイヤイヤと首を振った。
「つまり不可能というわけね」
表面上は残念そうにしながら口元だけは得意げに笑い、紅音は梛紗を見やった。しかし、はたと気づいたような里穂子の声にその笑みは失せる。
「……待って。あるじゃない、空き部屋。――離れに」
離れ。それは今、紅音がひとりで住んでいる家のことである。
元は智春と里穂子も紅音と一緒に住んでいた家だ。家具もそのまま残っており、紅音の手によって管理は行き届いている。しかし。
「親として、さすがにそれはどうかと思うわ」
眉根を寄せ、紅音は母に苦言を呈した。
梛紗の正体はどうあれ見た目は若い男だ。雪緒もいて二人きりというわけではないが、高校生の娘とひとつ屋根の下に住まわせるというのは、いくら少女漫画脳といえど行きすぎている。
けれど里穂子は冷静に答えた。
「それは大丈夫なはずよ。だって紅音ちゃんが自分の付加価値を下げるようなことも、させることも許すはずがないもの。そうでしょう? ママ、その点に関しては何にも心配してないから安心してね」
そう言って朗らかに笑った。
紅音は巫女である。純潔でなければならない。現代においてはあくまで『そういうこと』になっているだけではあるが、紅音にとってはそれもまた己の価値を保つものだ。
「ずいぶん厚く信頼されているじゃないか」
呆れ半分、感心半分といった様子で梛紗が乾いた笑いを漏らす。反論できず黙っていた紅音はひと睨みして、そっぽを向いた。
「ねぇ、智春さんもそう思うでしょう?」
夫の腕をぎりぎりと締め上げて里穂子が圧をかける。
「うーん、そうだなぁ……。確かに、そうかもしれないね。それに……」
梛紗と雪緒をちらりと見て、軽く頭を振って。
「いや、なんでもない。……まぁ、いいんじゃないかな」
何かを言い止し、智春は折れた。
内心で盛大に舌打ちをする紅音の隣で、梛紗は「今日の夕餉は何かなぁ」などと言ってへらへら笑っていた。




