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神様は居候になりたい

 帰宅して、母屋の玄関の前に立った紅音は引き戸に掛けた手を一瞬だけ止めた。

 声がする。母、里穂子の楽しげな笑い声。

 それは別にいい。今日はパートが休みの日だ。だからこそ、いつもは放課後すぐ帰ってきて家の仕事を手伝う紅音は珍しく少し寄り道をしてきた。

 スマホで時間を確認する。午後五時半。であれば、社務所も閉まっているし父の書道教室も終わった頃だ。生徒である子供たちのおしゃべりは聞こえてこないから、きっともう皆帰ったのだろう。

 戸を開けて靴を脱ぐ。リビングからは何やら良い香りが漂ってきている。これは里穂子のとっておきのお茶、京阪北浜駅近くのティーサロン『北浜モダン』で買ってきた紅茶の香りだ。

 客人だろうか。ほぼ一方的に里穂子がしゃべりながら機嫌良く笑っている声だけがして……ふと、誰かが相槌を打つ声がした。子供、と、男の声。

「あら、おかえり紅音ちゃん! 待ってたわよ~!」

 リビングに直行した紅音の顔を見るなり、里穂子がそれはそれは嬉しそうに出迎えてくれた。隣には少し居心地悪そうに父、智春が座っている。

 しかしそんなことはどうでもいい。

 紅音の視線は、テーブルを挟んで両親の向かいに座る者たちへと吸い寄せられていた。

「よっ。遅かったじゃないか、待ちくたびれたぞ」

 軽く片手を上げて馴れ馴れしく声をかけてきた男。

 服装はメンズ雑誌の街角スナップのようなジャケット姿。

 しかし紅音に向けられたその顔。ただの蛍光灯の下であるのに光を纏っているような美貌だった。切れ長の目は気怠げな色香を放っている。

「は?」

 紅音の唇から零れ落ちたのは地の底から響くような剣呑な声。その声に、男の隣に座る子供がびくりと震えた。サスペンダー付きの半ズボンを穿いた、前髪の一部だけが白い、七歳前後の少年。手首には包帯を巻いている。

「紅音ちゃんったら隅に置けないわ~。彼氏くんにここで働いてもらうって約束したんですって? 弟ちゃんと一緒に、しかも住み込みで!」

「は?」

 里穂子の嬉しそうな言葉に先ほどよりもっと重く低い声が出た。冷え冷えとした眼差しで男を睨み据えながら。

 へらへら笑っている男としばし見つめ合う。それからおもむろに荷物を放り出し、彼の胸ぐらを掴んで強引に立たせた。

「表へ出なさい」

 そのまま玄関まで引っ張っていき、さっき脱いだ靴を突っかけて外へ出た。男はされるがまま、「あ~れ~」などとふざけたことを口走って引きずられていく。

「どういうこと?」

「おや、雇ってくれるというから来たんだがなぁ」

 紅音に突き放され、くしゃくしゃになった襟元を撫でつけて皺を伸ばしながら男――梛紗は飄々と答えた。

 そうだ。雇うとは言った。ただし――

「住み込みだなんて許可した覚えはないのだけれど」

「あ、そっち? 普通はこう、『夢の中で会った人が本当に現れるなんて!?』って慌てふためくものなんじゃないのか?」

「目の前で起こっている現実を、ただ信じがたいという逃避思考でもって否定して狼狽えるなんてエネルギーと時間の無駄でしょう」

「合理的すぎてつまらん奴だ」

 呆れたように苦笑いする梛紗。その余裕ぶった態度が尚のこと気にくわない。

「それよりももっと解決すべき問題があるのだから当然ね」

「いやぁ、だって住む場所がないんだからなぁ。必然的にこうなる」

「しかも、彼氏ですって?」

「俺が言ったんじゃない。お前の母君が早合点しただけさ。ついでに、親はいるかと聞かれたからいないと答えたんだが、身寄りのない苦労性の兄弟だと思ったらしい」

 などと言い合っていると、サスペンダー半ズボンの少年――雪緒が追いかけてきて二人の間に割って入った。

「申し訳ありません、紅音様。けれど、その、我々に行く当てがないのは本当のことでして……」

 子供らしからぬ言葉遣いだ。しかしそれより、はたと気づく。

 夢の中でも雪緒はそのようなことを言っていた。我々をここに置いてほしい、と。

 紅音はそれに渋々ながら頷いた。

「お、気づいたか?」

 紅音のわずかな沈黙に、梛紗はにやりと笑った。

 これには紅音も内心で舌打ちする。幼い見た目だからといって甘い顔をするのではなかった。

 背後では玄関の引き戸に隠れながら里穂子がにやにやと見守っている。いわゆる少女漫画脳である母が何を考えているのか、想像するだに溜め息が出る。

「あのね、お母さん。この人に何を言われたのか知らないけれど、住み込みだなんて……」

 そんな約束はしていない。

 振り返って里穂子にそう告げようとした。しかし、声が出ない。

 ただ口がぱくぱくと動いただけで、まるでミュート機能のようにぱったりと声が途切れてしまった。

 思わず首元を抑えるものの、喉に違和感などはまったくなかった。むしろ発声した感覚はあった。出したはずの声だけが消えたのだ。

「言ったろう? これは誓約だ。覆せない、ってな」

 紅音の肩に肘を置き、もたれかかりながら梛紗が言った。それを勢い良く払いのけて睨みつけると、紅音は大きく溜め息をつく。

「あなたがどこに住むにしろ、わたしの一存で決められるわけがないでしょう。……お父さんは何と言っているの?」

 玄関にこそこそ隠れて見ている里穂子に問う。するとその背後から智春がひょっこりと顔を出し、困ったように一同を見渡した。

「ええと、ひとまず落ち着いて話しをしないかい? 里穂子さんが淹れてくれたお茶も冷めてしまうし」

 それを聞いて、はっと慌てだしたのは里穂子だ。とっておきのお茶を出したからにはベストな状態で飲みたいに決まっている。

「さぁさぁ、入って入って!」

 手招きされて、梛紗は「はーい」と愛想良く玄関に向かった。紅音を追い抜きざま、勝ち誇ったような笑みを浮かべて。

 その背中を睨み据えながら、紅音はふんっ、と鼻を鳴らした。

 思考は超高速回転。

 これで勝ったと思わないほうがいい。

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