鵺退治
社叢林の中、羅刹彦は息を潜めて身を隠した。
境内からは鳴弦の音が聞こえる。放出した獣が倒されていく。
あれは今まで食った獣たちの力を具現化したものだ。倒されるごとに羅刹彦の力も減っていく。
この身体を捨てて逃げるか。いや、これ以上は空腹に耐えられない。一度触れたその時から、あの女の肉を食むことばかりが頭を占めていた。
今食わなければ羅刹彦の、わずかに残った人間の意識を失う。完全に獣の化け物になる。
それは嫌だった。奪われたくない。
常に奪い、支配する側でいたかった。
滲む焦りが手足を震わせる。足元で、踏んだ小枝がぱきりと音を鳴らした。
その瞬間、殺気を感じて跳び退る。眼前に太刀の切っ先が迫っていた。
「く、来るな! この外つ国の小僧を殺すぞ!」
叫び、羅刹彦は自身の首に鋭い爪を突き立てた。皮膚が浅く裂け、血が滲む。
「その気配、覚えがあるぞ。福垣の郷で祀られていた神だな。お前もあの女に執着してんのか」
「……執着?」
抜き身の太刀を手に提げて、歩み寄る神――梛紗は羅刹彦を冷たく睥睨した。
「そんなものは生温い。俺のここにあるのは、渇愛だ」
炎に炙られながら水を求めるが如く。触れた胸元には、あの懐紙が収まっていた。
紫野が詠んだ辞世の句。彼女が自身をただ一粒の砂だというなら、砂漠だろうと大海原だろうと、この世の終わりまでその一粒を探し求める。
ただ傍にあって見ているだけで良かった。たとえ憎まれていようと。
けれど彼女は恨むどころか自身の罪に苦しみ、己を罰していた。もう誰も災いに巻き込みたくないと、本来の性分も命を狙われていることも隠していた。
それこそが彼女の持つ、底抜けの慈愛だった。
「お前は紫野を食うために俺から奪った。そういうことだな?」
紫野と梛紗の関係を知っている。ならばあの時、紫野に起きた悲劇は決して偶発的なものではない。
この男の策だったのだ。
閃く白刃。羅刹彦はそれに向かって両手を突き出し、獣を放った。
「ここでそいつらと遊んでろ! その隙にあの女を食ってやる!」
梛紗が獣の攻撃に応戦し、生まれた間隙に羅刹彦はこの場から逃げだそうとした。しかし、足が動かない。
まるで糸で地面に縫い付けられたかのように。
「……は? おい、嘘だろ?」
それは、一瞬の抵抗だった。宿主となった若者の。
大量の獣を放ち、力が弱ったせいだろう。梛紗はその好機を見逃さなかった。
縁切りの太刀の一閃がクリストファに打ち下ろされた。その一撃で彼の身体から羅刹彦は引き剥がされる。
あらゆる獣が混じり合った鵺の姿が露わになった。
倒れたクリストファを梛紗が支える。宿主から追い出された羅刹彦は慌てて空へと駆け上がった。黒雲に乗って逃げるつもりだ。
その姿を見上げ、梛紗は腹の底から叫ぶ。
「紅音、射てぇ!」
黒雲に手を掛けた羅刹彦は嘲笑を浮かべ下界を見下ろした。地上はすでにはるか下だった。
「馬鹿め。鳴弦ごときで俺が射落とせると……」
言い止し、羅刹彦は目を瞠った。
境内に立つ紅音。弓の弦を引き絞る手は震えていた。
それは疲労によるものではない。己と戦う姿だった。
弦に番えられた矢。その鏃に光る刃。
霊刀、神息。かつて砕けた紫野の守り刀の切っ先であった。
いとが持ち帰った紫野の形見。それを梛紗は抱え、この地に流れ着いた。
梛紗を祀った神職はその霊力を敬い、無残に砕けた姿を哀れんで鏃として擦り上げる。そして祭具として長年ここで大切にされてきたのだ。
因果は巡る。再び持ち主の手に戻った霊刀は姿を変え、今、仇敵を射つ。
平家物語の鵺退治伝説において、鵺を射落としたのは弓の名手、源頼政であった。
まるでその再現であるかの如く放たれた矢、は見事に羅刹彦の眉間へと的中した。
雷鳴のような叫び声。それとともに墜落した羅刹彦を、紅音は黙って見下ろしていた。
「……お、のれ……奪うな……奪うのは、俺……」
身に纏った獣の鎧が剥げ落ちる。現れたのは羅刹彦と呼ばれ恐れられ憎まれた男の姿。
しかしそれは一瞬のことで、紅音に伸ばした腕は彼女に届くことなく、消し炭のようにぼろぼろと崩れて塵となった。
上空の黒雲が消え、風が吹く。その風がすべての塵を流した後には、神息の矢が残されていた。
紅音はそれを大切に掲げ持つ。もう刃を見ても震えることはなかった。
これはいとが、そして梛紗がこの日この場所に繋げてくれた大切な祭具だ。
「終わったか」
社叢林からクリストファを担いだ梛紗が戻ってきてつぶやく。扇で人々を守っていた雪緒も、ほっと息をついて主に手を貸した。
しかし紅音は首を横に振る。
「いいえ、まだよ」
そう言って、境内に視線を巡らせた。そこには意識を失ったままの人々がいる。
「次は梛紗、あなたの番よ」
それが何を意味するのか、わからない梛紗ではなかった。
クリストファを地面に寝かせ、雪緒から扇を受け取る。そして大きく舞うように風を起こした。
途端、人々に魂が戻る。
羅刹彦は魂を失った肉を不味いと嫌っていた。魂の緒は完全に身体から離れてはおらず、命綱のように細く繋がったままだったのだ。
その魂を繋ぎ止め戻した。強く結んで、それぞれの命尽きるまでもう離れないように。
日が暮れ始めた頃、雅楽の音が境内に響く。
「いやぁ、しかしすごい雷でしたね」
「ほんとにねぇ。わたしなんて一瞬、意識が飛んだわよ。夕立でも降るのかと思ったわ」
屋台を出していた店主らが片付けをしながら語り合う。縁日が終わって人もまばらになる中、奉納の舞が行われた。
天冠をつけ、千早を纏った紅音が舞う。その手には榊ではなく紫草があった。
背後には祀られた神息の矢。磨き抜かれた鏃が鋭く潔く輝いている。
ばらん、と音がした。雅楽の音が一瞬、止まる。
神楽殿に琵琶を持って現れた梛紗は襲装束を纏っていた。
雅楽で飛び入り参加など考えられない。奏者たちは驚いて、場の総指揮者である紅音を見やる。
普段の紅音ならこのようなことは許さない。しかし、今日ばかりは特別だった。
苦笑を浮かべつつ、琵琶に音に合わせて紅音は舞を続けた。奏者たちも顔を見交わし演奏を再開する。
すると見事な合奏となった。欠けていた音がぴたりと合わさったことに皆も気づき、見学者たちも感嘆の声を上げる。
例祭は滞りなく、そして晴れやかに終わりを迎えた。




