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弓取の巫女

 境内の上空に黒雲が立ちこめる。

 突然のことに参拝客が驚き見上げた瞬間だった。まるでカメラのフラッシュのような光が目を灼く。次いで鼓膜を震わす雷鳴。

 その一瞬で、人々は動かなくなっていた。彩友に琴美、萌歌と子供たち。参拝客も屋台の店主も皆、立って目を開けたまま意識を失っていた。

 まるで時が止まったかのような異様な空気。その中で、クリストファは肩を震わせ笑っていた。

 虎鶫に似た声だった。

「そいつで防御したか。やるねぇ」

 クリストファの青い目に映る紅音は、印を結んだ姿で彼と対峙していた。

「――徒然草、第二百十段」

 風の音さえ失った世界の中、紅音の声はかの有名な随筆の一段を諳んじる。

喚子鳥(よぶこどり)は春のものなりとばかり言いて如何(いか)なる鳥ともさだかに記せる物なし。ある真言書(しんごんしょ)の中に喚子鳥鳴くとき招魂(しょうこん)の法をば行う次第あり。これは鵺なり」

 ――喚子鳥とは春に鳴く郭公(かっこう)のこと。その喚子鳥がどんな鳥であるのか詳しく書かれた書はない。しかし、ある真言書には喚子鳥の声に魂を抜かれるのを防ぐ法が記載されている。これは鵺である――

 さらにこの段では郭公と虎鶫の鳴き声が似ていることから混同されたのだろうと続く。

 ここで言及されている、ある真言書が何の書であるのかは不明とされる。架空の書か、あるいは現存しない失われた書であるとか。

 しかし、紅音はそれを読んだことがある。かつて、紫野だった頃に。

 なんでもすぐ覚えてしまう紫野のために直利が収集した書。戦ですべて焼けてしまった書の山の中に、その本はたしかにあった。

 黒雲が上空に現れたと同時に椅子を蹴立てて距離を取り、記憶を頼りに印を結んで真言を唱えた。それにより紅音は魂を抜かれずに済んだのだ。

 ヒィヒィと不気味な声で笑うクリストファに紅音は歯噛みする。

 あわよくば、これにより調伏できないかと思ったが、そうはいかなかったようだ。

「先輩の身体から出ていきなさい」

 毅然と命じる紅音にクリストファ――否、彼に取り憑いた羅刹彦はその美貌を歪めて笑う。

「いつから気付いていた?」

「図書室で触れた時に。あの時、わたしが受けていた加護は一度破られた。同時にあなたも、わたしが捜している獲物であると気付いたのでしょう?」

 鏡の迷宮で神隠しに遭いかけた際、助けてくれた梛紗は紅音の肩を軽く叩いた。あれは加護を授けてくれたのだ。

 しかし羅刹彦の邪気に触れて、それは破られた。ずっと探し求めていた獲物が目の前に現れ、さぞ嬉しかったことだろう。

「あぁ。見つけた、と腹の底から笑いたかったよ。大口開けて笑ってそのまま食らいついてやりたかった。いや、食ってやれば良かったんだ、あの時に」

 獲物を目の前にして、食欲が我慢できなくなってきたのか。クリストファの顔が獣のように変貌していく。口の端から大きな牙が覗いていた。

「お前が隠していた眼! あれは神罰を受けた眼だったのだろう? 良い匂いがしていた。だからもう一方の眼も染まってくれないかと欲をかいて見逃したのが悪かったんだ」

 熟すのを待っていた果実の食べ頃を逃し腐らせてしまった。そう言いたげだった。

「だが、まぁいい。過去の記憶を残す魂というのも悪くない。――お前、浜戸の姫さんだろう?」

 紅音を指差す手。爪が鋭く伸びていた。

「お前を食い損なってから、お前を食うことだけを考えていた。そのせいで他の獲物が喉を通らないんだ。腹が減って、腹が減って、仕方がない。だからお前を食って、ここにいる人間も全部食ってやる!」

 腕を振り上げ、人間ではあり得ない跳躍で羅刹彦が迫る。それを紅音は真っ向から迎え――目を閉じた。

 異変を察した羅刹彦はとっさに真上へ飛び上がる。直後、銀の一閃が彼のいた場所を薙いだ。

「すまん、仕損じた」

 狩衣姿の梛紗が舌打ちとともに告げる。彼が納刀した音を聞き、紅音は目を開けた。

「いえ、わたしがもっと上手く引きつけられていれば……」

 答えつつ、紅音は遠く離れて着地した羅刹彦を睨み据えた。

 卯山神社は聖域であり梛紗の縄張りでもある。そこで羅刹彦が本性を現したことに梛紗が気付かぬわけがない。そして人ではない彼なら鵺の妖術も効かない。

「悠長に話していたのはこのためか」

 憎々しげな羅刹彦の声。洞窟の中で反響するような声だった。

 紅音が引きつけ、梛紗が斬る。羅刹彦は罠にかけられたとでも思っているようだったが、そんなことはない。

 策などではなかった。打ち合わせも何もしていない。

 ただ、紅音ならこうする。梛紗ならこうする。それを互いに信じただけだった。

 抜刀の構えで梛紗は羅刹彦に駆け迫る。すると羅刹彦は両手を天に掲げ、暗雲をその手に生み出す。

 暗雲は見る間に獣へと姿を変えた。猿に蛇、狐に山犬。

 羅刹彦が食って奪った力の幻影だった。獣たちは無気力なまま立っている人々へと襲いかかる。

 梛紗はとっさに標的を変えて獣たちを斬り伏せた。その隙に羅刹彦は社叢林へと逃げ込む。それを梛紗はすかさず追った。

 残された紅音は上空を見上げる。そこには暗雲が渦巻き、その渦の中心から次々に獣たちが降ってきていた。

「紅音様、これを!」

 その声に目を向けると、水干姿の雪緒が駆け寄って弓を差し出してきた。しかし矢はない。

「鳴弦を! 巫女として修行を積まれた紅音様なら邪気を払えると梛紗様が!」

 頷く間もなく紅音はそれを受け取り、矢のないまま弦を引いた。手を離すと、びょう、と音が響き目に見えぬ矢が獣の幻影を射落とす。

 しかし、きりがない。獣は次々に湧き出でる。それを見て雪緒は手にした扇を広げた。

 梛の葉紋の蝙蝠扇だった。

「私はこれで皆様を守ります!」

 言うなり雪緒は境内を飛び跳ねて回り、扇を振るう。すると扇面の紋から流れ出た光の糸が網となって人々を覆った。

 その網に阻まれた獣を紅音の鳴弦が射る。互いに頷き合い、紅音と雪緒は二手に分かれて対処に走った。

 琴美と彩友に迫る蛇。萌歌に飛びかかる猿。里穂子に牙を向ける山犬。それを次々に射た紅音の目に飛び込んできたのは、本殿に向かう巨大な熊だった。

 あそこには祈祷を受けている氏子と父、智春がいる。

 本殿への石段を駆け上がり、紅音は本殿に飛び込んだ。そこにあったのは、やはり目を開けたまま動きを止めた智春と数名の氏子の姿。そして今にも智春に食らいつかんとする熊。

 紅音は力一杯引き絞った弦を鳴らした。ぎゃっ、と悲鳴をあげる熊。他の獣はそれで霧散し消えたが、もとが強い生命力を持つ山の王であるためか一撃では倒れなかった。

 振り返った熊は唸り声を上げて紅音に飛びかかる。振り上げられた爪を転がり躱した紅音は立ち上がりざまに二の矢を射た。目に見えぬ矢は熊の片腕を吹き飛ばし、次いで三の矢で頭を射貫いた。そしてようやく倒れた熊は煙と化し、墨が水に流れるように消えた。

 本殿内を見渡し、誰も傷ついていないことを確認した紅音はその場に膝を突いた。

 鳴弦のたびに気力と体力が削られていく。もはや限界であった。

 だが、まだだ。まだ終わっていない。羅刹彦を倒し、クリストファを救わなければ。

 クリストファが取り憑かれたのは、彼が図書室に返しにきたあの本が原因だろう。書棚に戻す際に開いてみたら、それは降霊術等について書かれた本だった。

 日本の文化に興味を持っていたクリストファは、その中の術を興味本位で試したのだろう。

 そして、かつて蓮井法隆の反魂の術が羅刹彦を呼び寄せたように、今度はクリストファに取り憑いた。数多の人間を宿主にして渡り歩きながら、紅音の、紫野の魂を捜していたのだ。

 また一人、巻き込んでしまった。本に書かれた降霊術など普通の人がやったところで効果はない。しかし、獲物である紅音と縁を持ってしまったために宿主に選ばれた。

 だから救わなければ。そうは思っても、身体が言うことを聞かない。

 畳の上に両手をついて肩で息をする。倒れ伏しそうになるのを耐えて顔を上げ――あるものが、視界に映った。

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