鵺になった男
目が治ったことにより、端午の節句の鏑矢は予定通りに紅音が担った。
生活は何も変わらない。梛紗との距離も変わらない。少なくとも両親や参拝客の前では互いに何事もなかったかのように振る舞った。
必要最低限の会話はする。梛紗は参拝客にも愛想良く接する。
ただ、離れに戻ると二人は一切の関わりを持たなかった。紅音は常に自室で過ごし、共用部で梛紗と鉢合わせても、以前のように嫌味ひとつ言わない。
彼の前で『高継紅音』を演じるのは、もはや意味を成さないのだから。
粛々と日々は過ぎていく。連休明けには中間テストがあり、それを終えると体育祭。学生であるからには避けられない行事だ。
こうして今世で生を受けたからには、この時代の規則に則って生きていかなければいけない。
己の命への執着はなかった。ただ、智春や里穂子にかつての父母と同じ思いをさせたくはない。もちろん、他の誰にも。
そのために、紅音にはまだやるべきことがある。
眠りに落ちてしばらくすると、また同じ夢を見た。
もういい加減にしてほしい。梛紗にすべて知られた後も続くなら、いつになれば解放されるのか。
溜め息をつくことしかできず、見慣れた最期に辿り着く。そしてエンドロールに入る――その前に、これもまた見慣れた場面が眼前に拡がった。
己の血溜まりに倒れる紫野。もはや魂はなく、抜け殻となった骸である。
そこに、誰かが歩み寄った。遠く近く、家中の者らの悲鳴と怒号が響く中を落ち着いた足取りで。
「なんだぁ、死んでんのか浜戸の姫さんよぉ」
忌々しげに舌打ちをする、その男。
白い素襖に折烏帽子という礼装をした、蓮井法隆であった。
いいや、違う。姿形は蓮井法隆の、別の何か。これはそういうものだった。
「俺は屍肉は食わねぇ。魂が宿る生き肝が食いてぇんだ。それに、神の力で紅く染まった眼をしているとお前の親父が言うからそれを食うのも楽しみにしていたのに、普通の眼じゃねぇか」
薄く開いたままの紫野の眼を見て法隆は吐き捨てると、その頭を土足で踏みにじった。
「俺はお前を食うつもりで腹を空かせて待ってたんだ。なのに勝手に死にやがって。その魂の行き着く先まで追いかけて見つけ出して食ってやるからな。覚悟しとけよ、馬鹿女」
冷たくなりつつある紫野の骸の傍には、その懐から零れ落ちた紫草があった。法隆はそれをも踏んで潰し――がくん、と糸が入れたように、その場に膝をついた。
項垂れて折烏帽子がずれる。丸まった背中が、もこもこと揺れた。
波打つ背中。そして、まるで羽化する蝉のように、ずるりと何かが法隆の中から抜け出す。
まず最初に尾が出た。蛇の形をした尾だった。次いで猿の腕と鹿の足、熊の胴体に虎鶫の羽。
そして顔は、法隆とは違う男。
様々な生き物を継ぎ接ぎしたような姿で現れ出でたそれは翼を拡げると、黒煙と火の粉に紛れて飛び立っていった。ヒィヒィと虎鶫に似た声で笑いながら。
残された法隆は無傷であったが、項垂れていた顔を上げるとまるで夢から覚めたように目を瞬かせた。
そして、足元に横たわる紫野と若い兵の亡骸に気付き、腰を抜かさんばかりに驚く。
「なっ……! こ、これは何事……!?」
後退って慄く法隆。そこに塚原の紋の具足を着込んだ兵たちが現れて声を上げた。
「いたぞ、蓮井の大将だ!」
「どけぃ! その首、俺がもらい受ける!」
我先にと殺到する兵に、わけがわからないという様子ながら法隆はその場から逃げ出した。
しかしすぐに追いつかれ、あっけなく首は落ちる。
そして紫野の物語はエンドロールに入った。その中には法隆の身に起きた顛末も描かれており、紅音はもう何度もそれを繰り返し見せつけらていた。
最初の妻を失った法隆は、悲嘆に暮れるあまり禁忌を犯す。
反魂の秘術。かつて旅の法師をもてなした際に聞かされた与太話を、記憶を頼りに試したのだ。
だがしかし、降ってきたのは妻の魂などではない。
施術のために焚いた沈香と遺骨に塗った毒の香、そして法隆の執着に引き寄せられてやってきたのは、恐るべき化け物であった。
時は平安。それが人であった時、生まれてから親に名を呼ばれたことはなかった。おい、この屑、等々と呼ばれ、物心ついた時から他者から奪うことしかしてこなかった。
盗んで壊して殴って殺す。十二の時には両親も殺し、その髪を一本残らず抜いて売った。十五の時には京の貴族の屋敷を襲い火をかけて回った。そうして気がついた時には誰が呼び始めたか羅刹彦という名がつき、忌まわしき存在として狩られ処刑されることとなる。
捕らわれた後、四肢の骨を折られて山に捨てられた羅刹彦はそこでゆっくりと朽ち果てるはずだった。
死の匂いを嗅ぎつけた獣たちを、動かぬ身体ながら威嚇し追い払う。しかし最後にやってきたのは、大きく育った熊であった。
鋭い牙と爪に腹を裂かれて腸を生きたまま食われた。それこそが刑罰であったのだろう。羅刹彦の手足に石を打ち付けて折り、山に置き去りにした検非違使たちの嘲笑が耳に甦る。殴りながら彼を育てた親の顔が目に浮かぶ。
畜生。食うな。奪うな。奪うのは俺だ。今までもこれからもずっと。
もはや半分以上の肉を食われた身体で、羅刹彦は叫んだ。人のものとはかけ離れた、地獄の鬼のような雄叫びだった。
そして熊の横っ腹に食らいつく。怨念をもって皮を剥いで肉を食い破り、その体内まで潜り込んで生き肝を食らい尽くした時には、彼は人ではなくなっていた。
食ったものの力を奪う鬼、羅刹彦。はじめに食った熊の剛力と獲物への執着を手にした彼は目にした生き物を食っては奪った。
蛇に猿、雄鹿に鳥。時には小さな虫も食った。蟷螂の腹の中には宿主を操る別の虫もいて、その力も得た。
百獣の混ぜ物。それはまるで平家物語に登場する鵺であった。
虎鶫に似た不気味な声で笑い、空から舞い降り人々に恐怖をもたらす。そうして過ごすうち、獣や虫では足りなくなった。
獣の性が弥増して、抑えが利かなくなった羅刹彦はとうとう人を襲って食った。山に入ってきた若く美しい歩き巫女であった。
その肉の甘く柔く芳しいこと。命乞いをする声を聞きながら、生きたまま肝を食うのがまた格別に美味い。死んで魂が抜け、硬くなった肉は不味かった。
そして若い美女の肉に執着するようになった羅刹彦は他者に取り憑き人間社会に溶け込んで、虎視眈々と機会を窺うようになる。正体が知れて鬼退治の手が迫れば宿主を捨てて逃げるを繰り返し、何百年もの時を渡り歩いた。
蓮井法隆も、その宿主のひとりである。
領地の中から評判の美女を娶っては食う。北の座敷に閉じ込め、病で死んだと言うものの家中の者らも気付かぬわけではない。
多くが恐れ、己と家族の身の安全のために口を閉ざしたが、娘を食い殺された郷の者たちは黙っていられなかった。
そして結託した郷人たちが、隣領の守護の力を借りて、あの日あの屋敷を襲ったのである。
羅刹彦の最後の狩りは失敗した。蓮井法隆の身体から離れる際、獲物と定めた紫野へ向けた執着は凄まじいものであった。
その魂の行き着く先まで追いかけて見つけ出して食ってやる。
あの強い怨念が今も紫野を、紅音を狙っているのだ。
いつ、どこで襲ってくるかわからない脅威。しかも紅音が食われたら、あれはまた別の獲物を探して食うようになるのだろう。
それだけは絶対に防がねばならない。




