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大罪人

 ぽよん、と場違いに軽快な音がした。

 巫女装束の袂に入れていたスマホのメッセージ通知音だ。

「……お母さんからだわ。お昼ご飯ができたから母屋に来なさい、だそうよ」

 フリック入力で返信しつつ、紅音は立ち上がる。そして子うさぎ姿の雪緒に手を差し出した。

「眼帯を返して。このままじゃ人前に出られないわ」

 紅い左目が雪緒を射貫く。しかしその圧に負けじと雪緒は人の姿に戻って紅音と対峙した。

「お答えください。あなたは紫野様なのでしょう?」

「その名で呼ばないで」

 わずかに語気を強め、紅音は雪緒を睨めつけた。

 それが答えだった。

「わたしは紅音よ。高継紅音。戸籍謄本を見せましょうか?」

「そういうことを言っているのでは……!」

「雪緒、もういい」

 なおも詰め寄ろうとする雪緒を制したのは梛紗の声だった。

 蔵の扉の前に立ち、彼は静かな眼差しを紅音に向ける。そして懐から古く変色した懐紙を取り出した。

「汀の砂――俺が生きてきた長い時間の中で、お前は自分をただその一粒と詠んだ。無数に打ち寄せては波に流れていく砂粒のひとつ、と。だから忘れろと言いたかったのだろうが……悪いな。無理だった」

 自嘲気味に、泣きそうな顔で梛紗は笑う。

 紅音はそれを否定も肯定もせず黙って聞いていた。しばし沈黙が流れる。しかし、再び電子音がして深く溜め息をついた。里穂子からの追加のメッセージだ。これ以上ここにいては里穂子か智春が様子を見に来てしまう。

「わたしがあの日、鏡の中に見たのはわたしよ。過去のわたし。――これでいいかしら?」

 ふてぶてしく言い捨て、暗転させた液晶画面を見る。すると、そこに映る左目の紅が蝋燭の火を吹き消したように失せた。

 何も見ていないと、梛紗についた嘘。それを撤回したことで元に戻ったのだ。

「まるでピノキオの鼻ね」

 肩をそびやかしてスマホを袂に仕舞い、雪緒と梛紗を押しのけるようにして蔵から出る。そして振り返ることなく言った。

「ええ、そうよ。全部覚えてるわ。だからといって、あの日からの続きをするつもりはないの」



 毎夜のように見る夢は、紫野という少女が生きた十六年の月日。

 それをまるで映画のように、身動きもできずに見せつけられる。もう勘弁してくれと願っても、最後には必ず斬って斬られる。罪なき命を奪った罰だというように、斬ってしまった感触も斬られた痛みも思い出し、血を浴びる。

 さらにはご丁寧に、『その後』も見せられるのだった。紫野自身は見ることのなかった『その後』を、まるでエンドロールのように。

 いとの慟哭。父母の最期。郷の滅び。梛紗と雪緒の絶望と放浪。

 そよ、みつ、茂吉、さち、小太郎。他の郷の者たちも皆、死んでしまった。

 何も、何も守れなかった。紫野の選択はすべて間違っていた。最初から郷に残って戦うことを選んでいたら、ああはならなかったかもしれないのに。

 最後に救おうとした椿壽丸もあっけなく討ち取られ、紫野は無駄に少年兵を死なせただけ。

 故に、紅音は刃物を握れなくなった。

 あの日を境に失われた命の数が、あまりにも重すぎて。



 高継紅音として生を受け、その最も古い記憶は三歳の頃の七五三参りだった。

 神社の娘であるから参るも何も自宅での祝いだ。普通の子ならぐずる着付けも、不思議と懐かしく感じたのを覚えている。

 そして、紅音は見た。本殿の屋根の上から見守る白い神の姿を。

 その瞬間に紫野としての記憶がすべて甦った。喜びも悲しみも、己の罪も。

 だから、彼の名を呼ぶことも手を伸ばすことはできなかった。

 誰も救えなかった手だ。守りたかったものをすべて取りこぼした手だ。

 袖を掴んだ梛紗の手を振り払い、忘れて欲しいと詠んだ歌を綴ったのもこの手だ。

 それを今さら、どうする。

 手を伸ばして、今さら愛してくれなんて、言えるわけがなかった。

 そして紅音は気付かないふりを選んだ。何も覚えていない、彼の姿も見えない、そう振る舞い続けることに決めた。

 その日から始まったのがあの悪夢である。忘れたふりをしたって過去は消せない。変えられない。これがお前の罪なのだというように。

 すぐ傍にいて、悲しげな顔をしている彼を無視し続けるのは苦しい。

 けれど、こうするしかなかった。

 紫野であった時のような振る舞いはしない。あの明朗快活さが悲劇を招いたのだから。

 そこで創り上げたのが高継紅音という少女の人格。斜に構えて慇懃無礼。さらに弱みにつけ込まれ婚姻をはじめとする不利な契約を迫られないよう、ひとりで生きていけるだけの金を稼ぐことにした。

 わざと人を遠ざけ、嫌われるような人間になる。たとえそれで人を傷つけてしまうことがあっても、それがその人を守るためだと割り切った。

 もちろん、人だけではない。梛紗にも嫌われようとした。

 なのに、どうしても見捨てられなかった。あの日、かつてのように怪我をした雪緒を。

 そうして再び絡まってしまった彼との縁。

 紅音が覚えているのかいないのか、梛紗にはわからなかったはずだ。だから、どう対応したものか、彼も迷ったのだろう。

 その迷いの結果、梛紗もまた別の性格を演じることにしたようだった。

 明るくおどけて、よく笑う。まるで紫野のように。

 彼がなぜそんな選択をしたのか。

 それは、そうせざるを得なかったからだ。

 梛紗は縁結びの神として祀られているのに、縁切りしかしない。

 いいや違う。結べないのである。彼はあの日から縁を結べなくなっていた。きっと自分が紫野を死へと送り出してしまったと、そう悔やんでいるのだろう。

 もし紅音に紫野の記憶があれば、と梛紗は考えたに違いない。できないのではなく、しないのだと、嘯くことで紫野のせいではないと示したかったのだ。

 その意図を理解したから、紅音も乗るしかなかった。彼が縁を結べなくなったのをわかったうえで、あえて責めた。守銭奴の高継紅音がそこに噛みつかないわけがないのだから。

 言外にすり合わせていった互いの設定を守る。なんと滑稽なことだろう。

 それでもぼろは出る。破綻していく。紅音が紫野の記憶を持っていると、梛紗は気付いたはずだ。おそらくはかなり早い段階で。

 最初は雪緒だった。動物病院へ連れて行き、飼い主の名前だけでなく患畜の名前も求められたとき、とっさに思いつかなくて『雪緒』とそのまま書いてしまった。

 何せペットを飼ったことがなかったものだから、人間のようにカルテや診察券を作られてそこに名前も書かれるなんて思わなくて。

 ましてや診察室にその名前で呼ばれるなんて思わなくて。

 あぁ、ばれたな、と瞬時に悟った。

 けれど雪緒は真面目な性格だから、告げ口のようなことはしなかったのだろう。板挟みになり、可哀想なことをしてしまった。

 それでも梛紗は気付いた。彼が気付いたことに紅音も気付いた。けれど一度始めた茶番に拍子木を打つことはできなかった。

『紫野』に戻ってしまったら、自ら彼の胸に飛び込んでしまいそうで。

 でも、そんなことは許されない。

 紫野が犯したもうひとつの罪が、それを許さない。



「ひとつだけ、はっきりさせるわ。あの日、あなたが結んだ縁は間違いなくわたしが望んだ縁よ」

 蔵から出て光を浴びながら、紅音は告げた。

「郷の人たちを救いたかったから。でも、それだけじゃない。――この縁が短く絶えるものであれと、わたしは祈ったの」

 天を仰ぐ。雲ひとつない空だった。

「わたしはね。あなたの力を使って間接的に自害したのよ」

 娶った妻を次々に死なせる男。望むところだった。

 もしも蓮井法隆が紫野と末長く夫婦でいたいと願っているのなら、縁が結ばれることは望まない。前妻たちのようにすぐ死なせてくれるなら結んでくれ、と。

「まさか本当に叶えてくれるなんて思わなかった。しかもあんなに早く。あなたって本当にすごいわ、梛紗」

 肩越しに振り返って梛紗を見やると、彼は苦しげに目を伏せる。

 そんな梛紗に紅音は笑った。醜く唇を歪めて。

「どう? 最低でしょ?」

 愛した人の力を利用して死んだ。それこそが紫野の罪。

 あんなことを願わなければ蓮井の屋敷は襲撃されなかったかもしれない。幼い椿壽丸も少年兵も、ただそこにいただけの人々も亡骸となり山と積まれることはなかったかもしれない。その後の悲劇もすべてなかったかもしれない。

 紫野は自らの死を願い、それに多くの人を巻き込んだ。

 何より、そのせいで梛紗は縁結びができなくなるまで己を責め苦しんだ。

 この大罪人に、己の幸福を願い愛を乞う資格などないのだ。

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