辞世の句
明け方に降った雨に火の勢いは弱まった。
塚原の兵と一揆勢も日の出と共に退いていく。それを見届け、逃げ延びたわずかな蓮井の家人や寺の僧侶たちが焼け落ちた屋敷へと踏み入った。
いとも彼らと共に戻った。迎えがくるまで寺に留まるように言われたが、じっと待っていることなんてできなかったのだ。
折り重なるようにして転がる蓮井の兵の亡骸。丸腰の下男や下女もいた。中には首のない幼児の遺体もあり、僧侶が手を合わせて経を唱え、いとはたまらず目を逸らす。
地獄のような惨状の中、急ぎ向かったのは敷地奥。渡り廊下とその先の部屋は焼けていなかった。
わずかな希望を胸に中を中へ駆け込む。しかし誰もいない。すぐに引き返し、当てもなく走り回った。途中、首のない男の亡骸にも遭遇して怯んだが、かまわず走る。
そんないとの目の前を、大きなカラスが悠々と滑空していく。
驚きながら身を引きつつ、それでもカラスの飛び行く先を視線を追い――全身が凍り付いたように動けなくなった。
最初、それがかの人だとは気付かなかった。裾まで朱殷に染まった、白かったはずの婚礼衣装。
仰向けに倒れて少し顔を横に向け、薄く開いたままの目と視線がぶつかる。
けれど瞬時にわかってしまった。もうそこに彼女の魂はないのだと。
カラスが羽音を立てて彼女の胸元へ留まる。そしてその大きな嘴を、輝きを失った彼女の目に近づけ――
「やめてぇ!」
絶叫し、いとは転げるように駆け寄ってカラスを追い払った。そして亡骸――紫野を守るように覆い被さり、血と雨に濡れて氷のように冷たくなった主の名を何度も呼ぶ。
その慟哭を嘲笑うかのように、どこか遠くで虎鶫が鳴いていた。
紫野を見送って一日と半日が過ぎた。
社に戻った梛紗は外に出ることもなく、ただ時間だけが過ぎていく。雪緒の呼びかけにも生返事をするだけ。
騒がしい十年だった。騒がしすぎた。そのせいで今、この静けさが虚しく感じる。
それでも彼女が元気でいてくれるならそれで良かった。明るく優しい紫野ならば、どこに行ったって人々から愛されるだろう。そこで笑っていてくれるなら、他に何も望まない。
しかし、そんな梛紗の祈りは、日暮れ間近に社へ駆け込んできた照によって無駄であったことを報された。
「この、鬼め!」
いきなり掴みかかってきた照を、追いかけてきた直利が引き離した。その拍子に照の懐から懐紙が落ちる。
何事かわからないまま梛紗はそれを拾って開き――戦慄した。
遺髪と思しき髪の束。懐紙に書き付けられた和歌は、紛うことなき紫野の筆跡。
吹く風に 花は散りけど紫草の 色は残せし 郷の錦に
――紫草の花は風に吹かれて散ってしまうけれど、故郷に掲げる錦旗のように誇りは残せたことでしょう。
辞世の句だ。梛紗がその意味を理解するのと同時に、直利の手をふりほどいた照が懐紙を奪い取る。そしてその場に伏すように泣き崩れた。
「どうしてあんな男と縁を結んだのですか!? わかっていたのよ、あなたが紫野をどう思っていたのか! なのに、どうして!? 振り向いてもらえぬなら、手に入らぬなら死んでしまえということなの!? だとしたら、お前など神ではなく鬼だ!」
「照、よさないか」
錯乱したように泣き叫ぶ照を直利が宥める。そして梛紗に頭を下げ、妻を抱えて社を辞したが、彼もまた梛紗に思うところがあるのか、決して視線を向けようとはしなかった。
静けさを取り戻した社の中、梛紗はただ立ち尽くす。何故。何があった。そんなことも訊けなかった。
頭の芯が痺れたようだ。目も耳もその感覚を鈍らせている。
今見たものを、言われたことを、理解しようとするのを頭が拒んでいた。
「――ま、――さま、――梛紗様!」
手を引かれ、揺すられているのに反応できない。それでも諦めず張り上げられた雪緒の声に、わずかに視線を動かした。
目を潤ませた雪緒が必死に呼びかけてくる。傍らで聞いていたこの眷属の子うさぎには、梛紗が何を思っているのか、わかっているようだった。
「梛紗様の御力ではございません! 紫野様が……紫野様が、御自身で望まれた縁でございます!」
そうだ。わかっている。わかっているが、本当にそうだろうか。
照の言ったような感情が、梛紗の中になかったと本当に言い切れるだろうか。
赤く染まった紫野の瞳を思い出す。そして鼓膜の奥に甦る声。
――わたしが梛紗のお嫁さんになってあげる――
どっと心臓が震えた。
「まさか……」
声を漏らし、頭を振る。そんなわけない。約束なんかじゃなかった。
けれど、もし、あれが紫野の誓いとして成立していたのなら。その反故への罰なのだとしたら。
ぐらぐらと視界が揺れる。それを雪緒が支え、梛紗は床に膝をつく。
そこへまた誰かがやってきた。参拝者ではない。
泣き腫らした顔の、いとだった。
汚れた旅装束。急ぎ戻って報せを持って来たのは彼女なのだろう。たった二日前までは溌剌としていた少女が、すっかりやつれて見えた。
「いと殿……。何があったのですか?」
梛紗に代わって雪緒が訊ねる。すると、いとは感情を失った声で淡々と述べた。
「塚原の郎党と一揆勢の急襲により、蓮井法隆様、椿壽丸様、共に御討ち死に召されました。紫野様は屋敷に残り、加勢したのち、おそらく塚原の兵と相打ちなさったものと思われます。亡骸は近隣の寺の僧侶が弔ってくれました」
彼女らしからぬ言葉遣い。まるでからくり人形のようだった。そうすることで心が壊れきるのを耐えているのだ。
虚ろな顔つきでいとは懐紙を差し出す。
「社の神に奉納せよと、紫野様が」
梛紗は震える手でそれを受け取るが、開くことができない。そんな梛紗の前に、いとは布の包みをそっと置いて解いた。
包まれていたのは砕けた短刀の欠片。
「……神も、御霊刀も、紫野様を守ってはくれなかった。でも、そんなのどうだっていいの。わたしは、わたしが許せない……! わたしだけ生き残ったことも、わたしだけ逃がした紫野様のことも、許せない……!」
いとは堪えていたものを絞り出すように言うと天を仰いで泣いた。もはや声は掠れ、涙には血が滲んでいた。
ひとしきり泣いて、いとは幽鬼のような足取りで社を出て行く。懐紙も、折れた刀も残したままで。
手にした懐紙を、梛紗は恐る恐る開いた。その流麗な文字は、やはり紫野の手によるもので、照が持っていたものとは別の和歌が認められていた。
うたかたの 結び消ゆるは常ならば 汀の砂も 波のまにまに
――水の泡が浮かんでは消えていくのは世の常。波打ち際の砂が波にさらわれいくのも、また同じ。
命短い人間の儚さを泡に譬え、波に流されていく砂が一所に留まることのない無常さを詠む歌だった。
仕方のないことだ。これが世の理だ。だから――
「忘れろというのか……!?」
くしゃりと懐紙を握り潰し、梛紗は嗚咽を漏らした。
もう戻ることのない彼女の名を呼びながら。
それから浜戸家の治める福垣の郷は塚原領となった。
しかし直後、最愛の娘の後を追った照が自害。直利は妻子を失った怨みに駆られ、同調した郷の者らと蜂起したが多勢に無勢で大敗を喫し、郷は滅びることとなる。
いとは母であるそよを連れて尼寺に入ったものの、仕えていた主を相次いで亡くしたそよは心を病んで見る間に弱り、没した。
祈る者を失った梛紗は郷を離れた。梛紗自身はもはや動く気力もなくしていたが、雪緒が手を引き、連れ出したのだ。
けれど放浪は長く続かず、ついに倒れたのは河内国と山城国の境。そこで出会った神職の者が二人を哀れみ、祀ってくれた。
それが卯山神社の興りであった。




