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散華

 かつて一ノ谷にて合戦があった際、負傷した源氏の武士を助けた恩賞として賜ったその刀は浜戸の家宝である。

 紫野は固辞しようとしたが、直利と照はどうしても持って行けと譲らなかった。

 なぜなら、これはただの短刀ではない。

 豊前国に鎮座する宇佐神宮の神官の手で、御霊水を用い鍛えられたという霊刀だった。

 切っ先が両刃になっている小烏造(こがらすづくり)(なかご)に刻まれた銘は――神息(しんそく)

 その霊力が紫野を守ってくれると両親は願いを込めたのだろう。

 冴えた刀身に紅い瞳が映る。

「紅の 深染めの衣 色深く 染みにしかばか 忘れかねつる」

 ――紅で深く染めた衣が色褪せないように、あなたへの想いを忘れることはできない。

 詠み人知らずのこの歌になぞらえたような瞳だった。詠み手はきっと叶わぬ恋をしたのだろう。

 詠み人知らずとは作者不明だけでなく、匿名という意味もある。

 梛紗の問いに嘘をついたまま答えることはできなかったために、この瞳は紅いままだ。

 たとえこの身が他の誰かにものになろうと心は決して色を変えない。この紅を拠り所に生きていこうと思っていたが、もうその必要はなさそうだ。

 短刀の刃を首に添える。

 力を入れなくてもいい。引けば切れる。それが刀というもの。

 紫野は目を伏せ――その手を止めた。

 遠くに聞こえる喧噪の中、混ざる悲鳴。女と、幼い子供の泣き声。

 考えるより先に動いていた。刀を鞘に納め、部屋を飛び出す。

 外に出た途端、熱波を感じた。火の粉があちこちに飛び火して燃え広がっている。焼け落ちかけた母屋から離れ、塚原の兵と一揆勢は敷地内の捜索を開始しているようだった。狙いは当主、蓮井法隆と嫡男である椿壽丸だろう。

 紫野は渡り廊下を飛び降りて走る。悲鳴が聞こえた方角に向かって。

 そこは納屋の陰だった。三十手前の女が幼い男の子に覆い被さり、必死に赦しを乞うている。二人の目の前には武装した男が立っていた。

「どうか! どうか命だけは! まだ子供にございます!」

 乳母だろうか。男の子の身なりは立派で、晴れ着のように見えた。

 おそらくあれは、祝言に同席する予定だった椿壽丸だ。

 襲撃は真っ先に母屋を取り囲んだはずだが、そこからどうにか逃げてこの物陰に隠れていたのだろう。椿壽丸と思しき幼児は、わぁわぁと声を上げて泣いていた。

 その子供に向かい、武装した男が刀を振り上げる。だが、今まさに打ち下ろす瞬間、背後から組み付いた紫野によって動きを封じられた。

「立て! 走れ!」

 紫野は短刀を男の首に突きつけ、乳母らしき女に強く言葉をぶつけた。それに弾かれたように、彼女は泣きじゃくる幼児を抱き上げ走り出す。

 せめて幼い命だけは助かってほしい。

 そう念じた直後だった。紫野に組み伏せられた男が、雄叫びを上げて強引に拘束を振り払おうと藻掻く。

 あっと思った時には、彼の首から血が迸っていた。

 当世では珍しい両刃の小烏造。名刀、神息。引く力で切れる刃。

 そのすべてが彼にとっては不運だった。獣のような身震いで紫野を振り回したために、触れた刃が動脈を掻き切ってしまった。

 噴き出す血を浴び、後退った紫野に男が振り返る。

 その顔を見て、息を飲んだ。

 少年だった。体躯は大人のように立派だが顔つきがまだ幼い。十三、四歳くらいだろう。

 怯えと混乱で表情を引き攣らせ、手で傷口を押さえるが脈動に合わせて血が止めどなく流れ出る。

「あぁ、あぁ……!」

 目前に迫った死に抗おうと少年は言葉にならない声をあげた。そして叫びと共に、刀をまるで棍棒のようにがむしゃらに打ち下ろす。彼に死をもたらした紫野に向かって。

 制限の多い婚礼衣装、しかも相手の思わぬ幼さに動揺したことでわずかに動きが鈍った。避けきれずに短刀で一撃目を受け止める。刃が毀れる。次いで二撃目も防いだが刀身が砕け――最後の斬撃が、袈裟斬りに紫野を切り裂いた。

 白い打掛と小袖が見る間に真っ赤に染まっていく。

 膝をついた紫野の傍で、少年兵もまた頽れる。

「嫌だ……おっ(かあ)……俺、死にたくねぇよ……」

 弱々しい言葉を最後に、少年は倒れ伏し動かなくなった。

 少年の防具――胴前には塚原の紋が入っていた。御貸具足(おかしぐそく)だ。領内の農民や郷を失った流浪の民を寄せ集めて即席の兵にしたのだろう。

 当然、刀も借り物。慣れない武器を持ち、生きるため母のために武功を立てようと参じた彼が、おそらく偶然見つけてしまった嫡男、椿壽丸。

 討ち取れば手柄となる幼子とその子を庇う乳母を前に、彼は躊躇った。最初に悲鳴が聞こえてから紫野が駆けつけるまでの間、葛藤していたのだ。

 少し威嚇をするだけで逃げ出したであろう相手の命を奪ってしまった。

 戦場においてそんな甘いことは言っていられない。それでも彼の帰りを待つ母親がどこかにいるのだと思うと居たたまれなかった。

 膝をついたまま咳き込む。喉奥から熱い塊がせり上がってきて吐き出した。鮮血だった。

 ゆっくりと仰向けに倒れた紫野は薄れていく意識の中に白い花を見る。

 懐から零れ落ちた紫草だった。

 その花に手を伸ばす。震える指先に火の粉が触れた。

「梛紗……好きよ……あなたのこと、ずっと……」

 目尻から涙が伝い、それと同時に左目の紅が色を失う。

 告げられた真実を聞いた者は誰もいない。

 力尽きた手が地面に落ちた時、紫野はもう、息をしていなかった。

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