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託された想い

 早朝に発ち、蓮井の屋敷に到着した頃には日も暮れていた。

 小袖の上に被衣を被り、輿から降りる。通されたのはたとえ昼間でも陽が当たらないような、渡り廊下の端にある奥の間であった。

「え、ここ……?」

 紫野は顔にも出さなかったが、いとが困惑したような声を漏らした。

 案内してくれた蓮井家の下女は申し訳なさそうに、けれど無言で行灯に火を灯して部屋を出て行く。

 異様だった。出入り口は廊下に面した遣戸のみで、採光用と思われる窓には格子が嵌まっている。まるで幽閉用の隔離部屋だ。壁や床板には汚れが目立ち、黴臭い。

「静かでいいわね」

 いとを安心させようと、紫野は努めて明るく言った。

 被衣から白い打掛に着替え、座して待つ。この後、祝言を挙げる部屋に案内される予定だ。

 しかし、いくら待っても使いの者が来ない。このまま捨て置いてくれるなら、それはそれで良いと思い始めた矢先、遠くから怒号のような声が聞こえた。

 紫野はいとと顔を見交わす。それと同時に慌てたような足音が近寄ってきて、遣り戸が勢いよく開けられた。蓮井の家臣らしき壮年の武士だった。

「失礼仕る。今宵の祝言は取りやめと相成りました」

「どういうこと?」

 紫野に代わり、いとが問う。すると武士は苦々しい表情を浮かべて顔を伏せた。

「蓮井領に隣接する塚原領が一揆勢と結託し屋敷を包囲しつつあります。おそらくは、婚礼のため人の出入りが多い日を狙い、気配を殺して山に潜んでいたものかと。一揆勢の構成は……津名、篠田、河瀬、江田本の郷の者らかと」

「それって……」

 四つの郷。それは蓮井に嫁いだ後妻たちの郷だったはずだ。

 偶然とは思えない。一揆とは重税への反発や生活苦から起こるものだが、彼らが決起したのにはもっと何か別の理由がある。

 報せにきた武士の、どこか諦念を感じさせる表情から紫野はそう察した。

「紫野姫様と侍女殿は川向こうの寺にお逃げください。屋敷北側はまだ包囲も手薄です。抜け道にご案内します」

「輿を担いできた者らは?」

 待避を促す武士に紫野は問う。輿の担ぎ手の男たちは福垣の郷の者たちだ。一晩ここで休み、朝になったら帰路につく手筈だった。

「彼らはまだ旅装束を解いておりませんでしたので、そのまま一足先に逃げて貰いました。この部屋は屋敷の最奥にて、報せが遅れ誠に申し訳ない。さぁ、お早く」

 そう武士が答え、紫野はひとまず安堵した。その紫野の袖を、いとが強く引く。

「紫野様、行こう」

「ちょっと待って」

 急かすいとを制し、紫野は持ち込んだ行李箱から矢立――携帯用の筆入れを取り出した。

 しばしの瞑目の後、二枚の懐紙にそれぞれ一首ずつ歌を書き付ける。

 そして帯に差していた守り刀を抜き、自身の髪を一房切り落として、そのうちの一枚に包んだ。

 いとはぎょっと目を剥いて凍り付く。

 それが何を意味するのか、わかったからだろう。

「これを父上と母上に」

 懐紙を差し出す紫野に、いとは激しく首を振って拒んだ。

「嫌だよ! 何言ってるの!? だって、そんなのまるで……!」

 辞世の句と遺髪。まるで、ではなくそのものだった。

「わたしはここに残るわ」

「どうして!? 何の義理があるの!? まだ祝言も挙げてないのに!」

「嫁として蓮井の家に入った以上、わたしはもう蓮井の女よ。家中の者を差し置いて我先にと逃げるわけにはいかないの」

 おそらくこの屋敷は落ちる。けれど万一、持ちこたえたら。蓮井法隆が生き残ったら。

 まだ正式に妻ではないからと逃げた紫野も浜戸の父母も責めを受けることだろう。

 これを機に蓮井一族が弱体化し滅亡しても、浜戸出身の妻が婚家の皆を見捨てて逃げたという事実だけは残る。武家にとってはこの上ない不名誉だった。

「だったら、わたしも一緒に……!」

「だめよ、いと。あなたは帰るの」

 縋り付こうとするいとに、紫野は懐紙を押しつけ突き放した。

「あなたはわたしの侍女として派遣されただけ。あなたの身柄の所有権は浜戸にある。だから帰らなければいけないし、蓮井にもあなたを無事に帰す義務がある」

 そう言って、紫野は武士の顔を見た。紫野の紅い瞳に射貫かれ、一瞬たじろいだ武士だったが、すぐに平伏して頭を垂れた。

「御意。――その御覚悟、見事にございます」

 顔を上げた武士はその顔に苦悩の色を滲ませていた。救いたいと思ってくれているのだろう。それだけで充分だった。

「いとを、我が侍女をよろしくお願い申し上げる」

 紫野は床に両手をついて武士に深く頭を下げた。そして、いとに向き直る。

 彼女は唇を噛みしめて震えていた。もはやどうしようもないのだと、わかってくれたようだ。

「いと、その文を必ず届けてね。あなたにしか、こんなこと頼めないのよ」

 堪えていた涙が、いとの目からぽろぽろと零れた。その涙を打掛の袖で拭ってやりながら、紫野はもう一枚の折り畳んだ懐紙も差し出す。

「これもお願いできる?」

「……誰に?」

 洟を啜りながら訪ねるいとに、紫野は薄く微笑んで答えた。

「社の神に、奉納を」

 それは信心深い信徒のようで。けれど、いとには紫野の言わんとすることがわかった。

 何度も頷き、懐紙を受け取る。父母宛のものと重ねて大事そうに懐に仕舞うと、彼女は紫野に抱きついた。

「約束して! きっとまた会えるって! じゃないとわたし、離れないから!」

 まるで幼子のようだ。紫野は姉妹同然の友の背中を優しく撫で、頷く。

「約束する。必ず、また」

 その時、小走りに駆け寄ってくる足音がした。この部屋に案内してくれた下女だった。

「お早く! 火矢が放たれ母屋の屋根が焼けております! もう時間がありませぬ!」

 遠くから、わぁわぁと騒ぐ声がする。火を消そうとする蓮井家の者か、あるいは攻め入る塚原と一揆勢の喊声か。その声はどんどん大きく、近くなってきていた。

「いと、行って!」

 突き飛ばすように紫野がいとを引き剥がすと、彼女の腕を武士が掴んだ。彼はそのまま紫野に黙礼し、いとを担ぐようにして部屋を辞した。

「紫野様!」

 最後に伸ばされたいとの手は虚しく宙を掴んだ。下女も一礼して去ると、取り残された紫野はひとり静かに座を正す。

 そして守り刀を再び鞘から引き抜いた。

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