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あかねさす

 それから一月半の後、紫野は生まれ育った郷を去る日を迎えた。

 奇しくも十六歳になる日であった。

 白い小袖を着た紫野の首に、照が懸守を掛ける。錦の(きれ)の中には直利が手ずから彫った阿弥陀如来像が包まれていた。

「どうか、元気で。落ち着いたら文を頂戴ね」

 目を潤ませた照が紫野の両頬に手を添え撫でる。幼かった日のように。

 馬でなら半日の距離だ。しかし人質という役割を背負っている紫野がこの郷に戻ってくる可能性は限りなく低い。守護代として蓮井の屋敷に出入りすることもある直利ならまだしも、照や他の家人とはこれが今生に別れになってもおかしくはなかった。

 紫野の傍らにはいとがいて、旅装束に身を包んでいた。その娘に対し、そよも名残惜しげに別れを告げる。

「いと、姫様をよくお助けするんですよ。――あぁ、わたしの足が丈夫なら一緒について行けるのに」

 本来なら乳母であるそよも従者を務めるはずだった。しかし足の不自由な彼女では山道を越えるのも困難。蓮井の屋敷で紫野の世話をするにも、先方で邪魔者扱いされるかもしれない。

 そのような懸念があったため、いとだけが侍女としてついて行くことになったのだ。

 いとは不安そうであったが、それ以上に紫野を案じてくれた。姉妹のように育った彼女は、紫野が胸に秘めた想いを知っている。

「紫野様、本当にいいの? 今ならまだ逃げられるよ?」

 輿に乗り込む直前、手を貸すふりをして耳打ちしてくる。それを紫野は薄く微笑んで固辞した。

「いいの。これがわたしのお役目だから。……いと、巻き込んでごめんね」

 故郷や母から離れなくてはいけないのは、いとも同じ。紫野の侍女でなければ、一生をこの郷で終えるはずだったのだ。

 それでも彼女はついてきてくれる。紫野の輿入れが決まった時、自ら供になることを申し出てくれた。

 紫野を乗せた輿が出立する。直利は何も言わず、黙ってそれを見送った。握った両の拳は微かに震えていた。

 袖で目元を押さえる照とそよ。輿の簡易な御簾越しに見えた家族の、最後の姿だった。

 輿を揺らさぬよう、行列はゆっくりと進む。それを子供たちが追いかけてきた。泣いているさちを小太郎が慰める。

 外堀の門の傍まで見送りにきた人々。その中にはお腹が膨らみかけているみつがいて、茂吉と二人、輿が見えなくなるまで手を振ってくれた。

 あの人たちを守るために行くのだ。後悔はない。

 輿は進んで社の前も通り過ぎる。紫野はその間、じっと息を潜めた。

 梛紗とはあれ以来、会っていない。輿入れの準備を始めた紫野は外へ出ることなく、彼も訪ねてはこなかったから。

 梛紗の扇は縁の糸を飛ばした。それは紫野が望んだからに他ならない。

 常世の花にしたいと望んでくれた彼を、紫野は選べなかった。

 本当なら今すぐ輿を飛び降りて社に駆け込みたい。この縁を切って永遠にあなたのものにしてと叫びたい。

 でも、できない。郷の人々を犠牲にして己の幸福のみを願う勇気が、紫野には持てなかった。

 そんな情けない自分の姿を見られたくなくて、御簾の外に視線を向けることすら怖い。そこに彼がいれば、どんな顔をすればいいのかわからない。

 郷から離れ山道に入る。その直前、輿が止まった。

 輿の担ぎ手や仲人の戸惑った声。ぱらぱらと何かの音も聞こえた。

「雨だ」

「晴れてるのに」

 嫁入り道具を担ぐ白丁(はくちょう)の男たちが言った。その言葉につられ、紫野は御簾からそっと手を出してみた。

 その手に、雨ではない何かが触れる。

 驚き引っ込めた手には、小さな白い花がついた草が握らされていた。

 紫草(むらさき)だった。

 紫野は慌てて御簾を捲って外を見る。雨はたしかに降っていた。皆、雲ひとつない空から降る雨に戸惑って天を仰いでいる。

 そんな中、紫野だけが気付いた。山裾の樹上に立つ、狩衣姿の彼に。

 紫野の視線に気付いた彼は小さく手を振り、そして消えた。ほんの瞬きをする間の出来事だった。

「なぎ……!」

 紫野はたまらず飛び出しそうになったが、彼の姿が消えると同時に雨も止み、行列が再び動き出した。

 我に返って御簾の内側に引っ込む。そして紫野は手の中の紫草を見つめた。

「あかね、さす……」

 それもまた、かつて紫野が彼に教えた歌。

「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」

 ――紫草の生えるこの禁足地で、袖を揺らして私に手を振っていたら野の番人に見られてしまいますよ。

 額田王が詠んだ歌。彼女は始め、大海人皇子の妻であった。しかし大海人皇子の兄である中大兄皇子に求められ、彼の妻となる。

 これはその後、大海人皇子に宛てた歌であると言われている。

 そして大海人皇子はこう返すのだ。

 紫草の 匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

 ――紫草のように美しく芳しいあなたを憎んでいるならば、人妻であるのにこんなにも恋しく想うはずがあろうか。

「梛紗……!」

 紫草を両手で握り、額に押し当てるようにして紫野は伏し泣いた。

 幼い頃から覚えた和歌や物語をそっくりそのまま梛紗に語り聞かせた。煩いと顔を顰めながらも、ずっと聴いてくれていて。

 全部、全部覚えているのだ。紫野が話したこと、すべて。

 遠い昔の恋歌に想いを托してくれた。

 紫野ならば、それがわかると信じて。

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