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常世の花

 そうしてまた雪の降る季節が過ぎて、梅の香が郷の風に乗り、池に張った氷が溶ける頃。

 梛紗は琵琶を弾けるようになった。なったけれど、変わらず紫野の元を訪ね続けた。

 関係は変わらない。友として語らい、笑い、時を過ごす。

 鶯の鳴き声に誘われて外へ出る季節になると、二人で山の草花を見に行った。いとも雪緒も、それを黙って見逃してくれた。

 巡る季節は春の盛り。山の中の桜の古木は堂々たる姿で艶やかに咲いていた。

「立派な樹だろう」

 崖の上に立つこの樹の傍近くに、本来なら人は近寄れない。梛紗に抱えて連れてこられ、太い枝に座らされた紫野は風にはらはら散る薄紅の花弁を捕まえようと手を伸ばす。

「うん、すごく綺麗。――見せてくれてありがとう」

 捕まえたひとひらを握って胸元に押し当て、紫野は笑う。こんなにも心躍る春は初めてだった。

「また来年も見たいな」

 ぽつりと零し、手の中の花弁を見る。そよいだ風がそれを攫った。

 来年、再来年、十年後。いつまで続けられるだろう。意識はしないようにしていても、必ず終わりは訪れる。

 わかっていても、未来を願わずにはいられない。

 ひらりしゃらり、花弁は舞う。

 紫野を真似てか、梛紗もそれを捕まえようとした。しかし花弁は彼の指をすり抜けていく。

「あぁ、惜しいな」

「風を読むのよ。そうしたら捕まえられるわ」

 得意げに教えてやると、風に乗ったひとひらが紫野の髪に引っかかった。それを髪ごと掬って梛紗は笑う。

「よし、捕まえたぞ」

 するりと髪を指の間に滑らせる。その滑らかさを愛しむように。

「……だが、やはり惜しい」

 梳いた髪が手から離れ、はらりと紫野の頬に流れると、梛紗はじっとその顔を見る。

 紫野の左の瞳はまだ紅いままだった。

「このままでも良いが、俺は元のお前の瞳が好きだ」

 爪を染めた時と同じように彼は言う。けれど以前とはその意味合いが違った。

「紫野。――俺の、眷属にならないか」

 意を決したように、梛紗は言葉を絞り出した。

 紫野の髪から掬い取った花弁をぎゅっと握る拳は微かに震えている。

「眷属になれば、人より神に近しい存在になる。人間として歳を重ねていくことはできない」

 その言葉に、雪緒の姿が過ぎった。ずっと幼い少年の姿をした子うさぎの姿が。

「いとやそよ、両親とは違う時間を生きることになる。皆、お前より先にいなくなる」

 梛紗の瞳が揺らぐ。それは彼がずっと長い間、ひとりきりで抱えてきた苦しみだった。

「もし……もし、子を成したとしても、その子を見送ることにもなるだろう。それでも俺は、お前を――常世の花にしたい」

 紫野は息を飲み、彼の紡ぎ出す想いを受け止めた。

 それは求婚に相違なかった。色恋はわからぬと言った梛紗が紫野を想い、恐れと向き合って導き出してくれた答えだった。

 人の世の理から外れる。梛紗が今まで耐えてきた寂しさと同じ運命を与える。その罪悪感に苛まれながら、それでも傍に置きたいと願ってくれたのだ。

 震える梛紗の拳に紫野はそっと手を重ねる。

 覚悟なら、とうに出来ていた。

 橘の実を口にした、あの時から。

「梛紗、わたしは――」

 答えようとした唇に梛紗の指が触れる。彼は困ったように笑っていた。

「急いで答えるな。そういうところは変わってないな。……生きるか死ぬかで選ぶ余地のなかった雪緒とお前は違うんだ。直利や照に何も言わぬままで決めていいことでもないだろう」

 たしかにその通りだ。いきなり神の眷属になったと言えば、片目の色が変わった時以上の騒ぎになるのは想像に難くない。

「今、父上は守護の蓮井様の所へ行ってるわ」

 蓮井はこの福垣の郷を含む領地を治める守護大名で、浜戸家にとっては主君にあたる。その主君から文が届いて、直利は朝早くに郷を離れた。戻ってくるのは明日の明け方頃か、はっきりとはわからない。

「そうか。だったら、話は直利が戻ってからだな」

 梛紗がそう言った時、風が強く吹いて花弁が舞った。

 渦巻くような勢いに溺れてしまいそうで、二人で身を寄せ合って忍び笑う。

 この上なく幸福な一時だった。


 梛紗に送られ屋敷に戻った、その日の日暮れ。

 帰りは翌朝以降になるだろうと思われていた直利が戻ってきた。

「まぁ、御前様。お早いお戻りで」

 嬉しそうに出迎えた照が、そよを初めとする家人に夕餉の準備を促す。

 そして紫野は父が早く戻ったことで、どう話を切り出そうかまだ決められずにいた。

 早く言ってしまいたい。でも、梛紗と一緒に話したほうが良いかも。

 などと考えていたが、ふと見上げた父の表情の暗さに気付いた。

「父上?」

 何かがおかしい。そう察した矢先、直利はその場に膝をついた。

「紫野……すまない……」

 絞り出すような父の声。

 屋敷のどこか屋根の上で、虎鶫がヒィヒィと鳴いていた。

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