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縁結びの神様は恋をまだ知らない

 ぺよ、ぺよ、と力なく琵琶を弾く紫野に、梛紗は何度目かになる溜め息を零す。

「なぁ、紫野」

「言わない」

 むすっと拗ねたような顔をして、梛紗の言葉を遮る。

 琵琶を教えてくれる約束だったので紫野の部屋に再訪したはいいが、さっきからこの調子である。

 部屋の柱には竹筒製の花器が釣り下げられ、そこには昨晩置いていった橘の枝が生けられていた。けれど黄色い実は見当たらない。

「あの実、食ったのか」

 紫野は何も答えなかった。不用意な発言はしたくないといったところか。幼い頃と違って慎重になったのは良いことだが、答えてくれなければ異変を戻せない。

「……縁結びの神なんてやってるけどな、正直なところ俺には人間の色恋ってやつはよくわからん。望まれるままに結んで、切るだけだ。それだって、互いに望んでいないものは結べないし、切ってもすぐ絡みつく。その程度なんだよ、俺の力は」

 胡座をかいた姿勢のまま、床に手をついて仰け反って天井を見る。紫野が耳を傾けている気配を感じ取り、梛紗はそのまま続けた。

「俺は元々、山にいた化けうさぎだ。生まれた時のことなんか覚えてない。ただの獣が偶然、山の神気に当てられるでもして力を得たんだろうさ」

 得た力を持て余し、暴れると人は畏れて供え物を寄越した。

 別に物なんていらなかったけれど、そうすることで人が構ってくれると勘違いした梛紗は何度も繰り返し暴れたのだ。

 大国主命によって成敗され、縁結びの神としてこの地の人々と共に暮らすようになってからは人間の輪の中に入れたような気がして楽しかった。

 けれど、やはり違うのだ。

「俺は人間に祀られている限り、永遠の命を得た。だが人間なんてあっという間に死ぬ。懸想なんてしてる暇もないくらい、一瞬だ」

 花のように、咲いたと思えばすぐに散る。だから花を愛でるように人を愛おしいと思い、散る様に溜め息は零れるけれど、それだけだ。

 そういうものだと諦めていた。

 微かな衣擦れの音で、紫野が俯いたのがわかった。姿勢を戻した梛紗は彼女に向き直る。

「お前、言ったろう。山にいた俺が寂しそうだったと。――その通りだよ」

 自嘲めいた笑みを吐息に乗せて言うと、紫野は少しだけ視線を上げた。

「人はすぐ死ぬ。それが嫌で遠くから眺めていた。桜だって遠くから見ていれば薄紅の霞に見えて、いつの間にか散ってる。一輪ずつ見えてしまうよりずっと良いと、そう思っていたんだ。どうして山に籠もっていたのか自分でも忘れてしまうくらい、長い間」

 けれど、降りてしまった。紫の縁に抗えなかった。

「さっきも言ったように俺には惚れた腫れたはよくわからん。――だが、お前が俺を避けてるかもしれんと思った時は、その、なんだ……そわそわした」

 今度こそ、紫野ははっきりと顔を上げた。驚いたように目を瞠っていた。

「これが寂しいってやつかと、久しく思い出したよ。馬鹿みたいだろ? 自分から人を避けてたくせに、避けられていると思ったら落ち着かないなんてな。――だから、言いたくないことは言わなくて良いから、せめて今まで通りに会ってはくれないか。……お前が花霞に紛れて、知らぬ間に散っているのは、嫌だ」

 今の自分が抱えている感情の名前はわからない。たったひとりの人間に執着するだなんて初めてのことだ。

 このまま側に居続ければ、彼女が生を全うして世を去る時、心が千々に乱れることなどわかりきっている。

 わかっているのに、離れがたい。

「それなら、いっそ……」

 竹筒に生けられた橘の枝を見やり、独り言のように零れた言葉は途中で飲み込んだ。

 頭を振って、黙って聞いている紫野に視線を戻す。

「いや、なんでもない。――さぁ、約束だ。琵琶を教えてくれ。対価として渡した実を食ったんだから、嫌だとは言わせんぞ」

 正直な話、琵琶などどうでも良かった。その音色を気に入ったのは本当だが、自分が弾きたいとは思っていない。

 彼女の奏でる音だから聴きたいのだ。

 そしてこの部屋に立ち入る口実が欲しくて、教えてくれだなどと口走った。

 すっかり立場が逆転してしまっている。まるで山に押しかけてきていた、幼い頃の紫野のようだ。

 彼女は少し目を伏せて、小さく頷くと微笑みを見せた。左目の紅が部屋に差し込む明かりに輝く。

「わかった。――ついでに、部屋の外で聞いてる二人にも教えてあげるわ」

 少し声を張り上げて言うと、障子とは反対側の襖がそっと開く。顔を出したのは、いとと雪緒だった。

「ばれたかぁ」

「わ、私は梛紗様が心配で……」

 いとはぺろっと舌を出して笑ったが、雪緒は申し訳なさそうに耳を垂れ下げていた。

「邪魔していいの? いいなら入るけど」

 そう言いつつ北向きで陽の当たらない隣の間は寒かったのか、いとは部屋に入ってくる。雪緒も躊躇いがちにそれに続いた。

「もちろんよ。楽しいことは皆でやったほうがいいでしょ」

「じゃあ、双六もやろうよ。あ、わたし厨でお菓子もらってくる! たしかお饅頭があったはず!」

 入ってきたかと思ったらすぐに慌ただしく出て行くいとに、梛紗は苦笑いを浮かべた。

「相変わらず賑やかなやつだな。背もあまり伸びていないし、昔のままだ」

「それ、いとの前で言わないでやってね。この間も出入りの商人に稚児扱いされて、『生まれ変わったら男より大きな女になって全員見下ろしてやる!』って泣いて大変だったんだから。わたしも未だに、そよの乳をたくさん飲んだってちくちく言われるし」

 紫野もそう言って笑う。すっかり空気が和んでしまった。

 彼女の左目にはまだ紅が宿っている。本来なら忌むべき罰の色だが、まるで海の波間から現れ出でる珊瑚のような鮮やかさに、今しばらくは眺めていたいと梛紗は思った。

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