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非時香菓

 紅葉の時期を過ぎて、霜が降り、山茶花の咲く頃。

 赤く染めた爪はもうとっくに元通りになっている。そよがあまり良い顔をしなかったので、いともまた染めたいなどとは言わなかった。

 けれど、紫野の中に染まった赤はまだ残り続けている。

 最初からわかっていたことだ。彼は失うことを恐れて人から離れ、山の上から俯瞰していた。

 それを引きずり下ろしたのが紫野だ。子供の無邪気さを武器に彼を根負けさせた。

 その責任は取らなければいけない。約束通り、ずっと友でいる。

 いつかまた次の世で会おうと別れる時、互いに笑っていられるように。

 でも、もしも伴侶になってしまったら、きっと紫野にはそれができない。涙を見せれば梛紗を苦しませる。それだけは絶対に嫌だった。

 霜月の夜はもう肌寒く、障子を閉め切ると月明かりが薄く寂しい。

 火鉢に熾した火の赤に、紫野は溜め息をつく。

 そもそも梛紗にとっては紫野はずっと子供のままだ。きっと皺だらけのお婆さんになっても、それは変わらない。

 伴侶だなどと夢想するだけ無駄。それに、余計なことを言ってしまったら、また山に引きこもって二度と姿を見せなくなるかもしれない。

 それなら、せめて今のままで。

 ばらん、と琵琶を奏でる。学問や武術を一通り修めてしまった紫野の新しい修練だが、師として招いた旅の琵琶法師はすぐに「もうお教えすることは何もありません」と平伏して郷を去って行った。

 それでも、この音は好きだ。書は夜には読みづらいけれど、琵琶なら目を瞑ったままでも弾けて、気を紛らわすことができる。

 弓とはまた違う弦の音が響く。物悲しい音色だった。

 それもそのはず。奏でるのは平家物語。

「諸行無常、か」

 手を止め、自嘲めいた笑みを零す。それと同時に障子越しの月が翳った。

 雲ではない。誰かがそこに立っていた。

「紫野」

 その声にどきりとする。けれど平静を装い、紫野は居住まいを正す。

「……どうぞ。入って」

 入室を許した紫野の声に、障子が開かれる。

 梛紗だった。月明かりが室内を照らしたが、彼が後ろ手に障子を閉めるとすぐに薄闇へと戻る。

 夜、男の訪いに応じる。それは衣を剥いで素肌に触れるのを許すのと同義だ。それくらいことはもう、知っている。

 けれど期待なんてしない。だって梛紗だ。ここでは一緒に菓子を食べたり双六をしたりして遊んだこともある。

 来慣れた友の部屋を訪ねた、ただそれだけのことなのだ。彼にとっては。

「邪魔してすまんな」

「構わないわ。何かあったの?」

「いや、それがな……」

 答えつつ、梛紗が座る。紫野のすぐ側に。

 一瞬、身を固くしたがなんのことはない。火鉢の近くに寄っただけだ。そう気がついて紫野はこっそりと息を吐く。

 対し、梛紗はうんざりした様子で事情を話し出した。

「茂吉とみつが社に来て、縁を切ってくれと言うんだ」

 郷に住む若い夫婦の名だった。みつが茂吉の家に嫁入りしたのはつい最近のこと。

「しょうもない理由で喧嘩して、とにかく切ってくれと煩いから縁切りの太刀で切ってやったよ。しかし切った側からすぐに縁の糸が結ばれるんだ。結局のところ別れたいなんて口先だけで、内心じゃ二人してそんなつもりは微塵もないってこった」

「微笑ましくて良いじゃない」

「巻き込まれる俺の身にもなれ。まだしつこく言い争うもんだから、好きにやってろと逃げてきたんだ」

「雪緒は?」

「あいつは真面目だからな。取りなそうとして居残ってる」

 困り顔で男女の仲を仲裁しようとしている雪緒の姿が目に浮かんだ。

「そういえば、最近は余所の郷からも参拝に人が来てるわね」

「あぁ、まったく迷惑だ。旦那の浮気相手を見つけてほしいだの、好いた女が人妻だから別れさせたいだの、縁結びの神をなんだと思ってやがる」

「あはは、大変だ。……でも、なんだか梛紗、楽しそうね。郷の人たちとも仲良くなってくれて嬉しいわ」

 そう笑って言ってやると梛紗はきょとんとした。自覚はないらしい。

 愚痴を言いながらも声には弾みがある。それに、本当に嫌なら社を離れて山へ戻っているはずだ。

 しばしの沈黙。けれど薄闇の中、間近からの視線を感じて少し居心地が悪い。

 その静寂を破り、ぼそりと梛紗が口ずさむ。

「紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あわれとぞ見る」

 ――紫草(むらさき)が一本そこに咲いているだけで、荒れ地である武蔵野に生える草花すべてに愛着を抱いてしまう。

 紫草は花色は白いが、根から紫色の染料が採れる。触れたものを濃い紫に染め上げるその様子は、大切な人に関わるすべてを愛おしく感じる心の機微のようであり、その思いを『(むらさき)(ゆかり)』というのだ。

 そして紫草のその高貴な色は昔から珍重され、栽培地は貴族しか立ち入ることを許されなかった。

 その場所はこう呼ばれる。――紫野(むらさきの)、と。

 よみ人知らずの歌に寄せた梛紗の言わんとすることを察し、紫野は目を見張る。その反応が可笑しかったのか、梛紗は喉奥で忍び笑った。

「何を驚いてる。お前が教えてくれた歌だろう?」

「……そう、だったかしら」

「あぁ、そうだ。頼んでもないのにいろいろと教えてくれたな」

「煩くしてごめんね」

 紫野が苦笑いで謝ると、梛紗はまた黙り込んだ。そして少し躊躇いがちに訊ねる。

「お前、最近俺のことを避けてないか?」

 ぎくりとして、琵琶の首を握ったままだった手に力が籠もる。

 それでも決して悟られないよう、紫野は明るく笑った。

「琵琶の練習をしたかったのよ。それに、子供たちに武術を教える約束もしていたし……」

 すべて本当のことだ。でも、それを口実に逃げていた節はある。

 けれど梛紗は安堵したように息を漏らした。余計な心配をさせてしまっていたようで心苦しくなる。

「そうか。――じゃあ、その琵琶の弾き方も俺に教えてくれ。心地良い音だ」

 そう言いながら梛紗は狩衣のゆったりとした懐から七寸ほどの木の枝を取り出した。

 青々とした葉と、小さな黄色い実がついている。

 橘の枝だった。

「これを対価にやる」

 橘の実は古い書物において非時(ときじくの)香菓(かぐのこのみ)とされる。

 常世の国からもたらされた不老長寿の薬だというのだ。冬につけた実が春まで残っている様子から、そう言われるようになった。

 不老長寿。それを贈られる意図を紫野は深読みしてしまい、鼓動が高鳴る。

 受け取ることを躊躇っていると梛紗は小さく、そして少し寂しそうに笑った。

「いらないか。まぁ、酸っぱくてそのままじゃ食えたもんじゃないからな。――安心しろ。これは茂吉とみつが俺に供えてきた神饌だ。もし食ってもそれは撤饌でしかない。黄泉戸喫(よもつへぐい)にはならんさ」

 黄泉の国の食べ物を口にすると、二度と現世には戻ってこられない。それを黄泉戸喫という。

 だから人ならざるものが差し出したものも安易に食べてはいけない。神隠しに遭うかもしれないから、と。

 紫野は慌てて首を横に振った。違うのだ。拒絶したのだと思われたくはなかった。

 でも、悟られたくもない。末長く傍にいてくれと求められたのだと、勘違いしたことを。

「ありがとう、部屋に飾るわね。――梛紗がこんな風流な贈り物をしてくれるなんて思わなくてびっくりしちゃった」

 笑って取り繕う。そして琵琶をばらんと奏でた。

「明日、明るいうちにまた来て。さすがに手元が見えないままでは教えられないわ」

「わかった。そうしよう」

 答えて梛紗は立ち上がる。そして障子に手をかけ――振り返った。

「なぁ、紫野」

「なぁに?」

「お前が俺を恋い慕っているというのは本当か?」

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