お嫁さんになってあげる
子供たちへの苦情に直利は平身低頭謝り、詫びに宴を一席設けるということになった。
正直、そんなものはいらない。しかしすでに酒の封を切ってしまったと言われれば付き合わないわけにはいかなかった。
奉じられた時点でそれは御撰、御神酒となる。神饌を捧げる行為は神事であり、神人共食――共に同じ物、撤饌を口にすることで人々は神の加護を得るのだ。
これを直会という。
「元気に育ってくれればそれで良いと思っておるのですが、どうにもじゃじゃ馬が過ぎて困っておるのです」
「おとなしくさせようと書や和歌を学ばせてみたりもしているのですけれど、覚えるまで外に出てはいけないと言ったらすぐに覚えてしまって……」
直利の愚痴に続き、溜め息交じりにそう言ったのは小袖に小袿を羽織った女――紫野の生母である照だった。
お産の際に命を落としかけた照を救ったのは梛紗だ。産まれたのは姫だったが他に子は望まない、側女も置かない、だから妻の命を繋いでくれという直利の祈りに応えた。
本来、照の魂の緒はそこで絶えるはずだった。しかし直利が差し出したその代償によって救うことができたのだ。
つまり、この夫妻に間にはもう子ができない。他の女を妻に迎えることもできない。
「たったひとりの子ですから大事にしようと思うのですが、そんな必要もないほど健康でして。いや本当に風邪のひとつもひかなくて逆に不安になるほどで」
「わたくし、時々あの子が分身でもしてるんじゃないかと思ってしまうんですよ。さっきまで寝ていたと思ったら、いつの間にか庭木に登っていた時などは腰を抜かすほど驚きました。本当は男の子を産んだのではないかと自分を疑ってしまうほど元気で困ります」
愚痴の中にも我が子自慢が垣間見えるが、これに萎縮したのは乳母のそよだ。
「申し訳ありません。わたしが姫様をしっかり見ていて差し上げるべきですのに……」
足の弱いそよには紫野を監督するなど無理な話だ。
それでも直利と照はそよを責めなかった。
「良いのだ、そよ。お主には感謝しておる」
「そうですよ。わたくしが立ち上がることもできなかった間、ずっと紫野を育ててくれたのはあなただもの」
そう言われ、そよは袖で目頭をそっと押さえた。
湿っぽくなった空気を払拭するように、直利は梛紗と雪緒に向かってそよの身の上を語って聞かせた。
「そよは須磨浦の漁師の女房だったのですが、夫を急な病で亡くしましてな。他に身寄りもなく、そのうえ身重で路頭に迷っていたところを須磨の寺の和尚に拾われたのです」
「奥様とお産の時期が近いということで、乳母としてご紹介いただきました。教養も何もなく、子供の頃の怪我がもとで足の弱いわたしを、まさか召し抱えていただけるとは」
気の優しい夫妻は困っているそよを放っておけなかったのだろう。結果として、そよは忠義をもって紫野を大事に育てている。
「それもすべては縁だ。そうでしょう? 梛紗様」
話を振りつつ直利は梛紗の杯に酒を注ぐ。その手元はやや不安定で、だいぶ酔いが回っているようだった。
いつの間にか家中の者が皆集まってきており、やがて酩酊したまま歌ったり眠ってしまう者も出てきた。童子姿であるため酒を勧められなかった雪緒はそれを介抱して回る。
喧噪の中、梛紗はそっと立ち上がって宴席を離れた。気配を殺していたために、それに気付いたのは雪緒だけ。その雪緒は梛紗のうんざりした様子を気取っており、引き止めるようなことはなかった。
すっかり夜が更けていた。雲ひとつなく満月が明るい。
屋外へ出て夜風に当たる。静かな場所を求め歩くうちに奥庭まで行き当たり、そこで行灯の薄ぼんやりとした明かりに気がついた。
月明かりと行灯。それを頼りに縁側に腰掛けて書を読んでいるのは紫野だった。
「まだ起きてたのか。子供はもう寝ろ」
「いとならもう寝たよ」
「お前だ、お前。子供の自覚ないのか」
書から目を離さず答える紫野に梛紗は呆れた。
「何を読んでるんだ?」
「和漢朗詠集。これを丸々暗記するまで外で遊んじゃいけないって母上に叱られちゃった」
それは和歌だけでなく漢詩や漢文も収録された文集だった。この年頃の子にはまだ難しいだろう。
「そりゃご苦労さん」
これでしばらくは静かに暮らせる。梛紗はそう思ったが、紫野のその希望をあっさりと打ち砕いた。
「待ってて。三日で覚えてしまうから」
「誰もそんなこと頼んでないが」
照が言った通りなら、きっと大口でもなんでもなく本当に覚えてしまうのだろう。
「なんだってお前はそう俺に構うんだ」
つい、苛立ちの滲む声が出てしまった。すると紫野はようやく顔を上げる。
「だって初めて会った時、梛紗が寂しそうだったから」
「……は?」
頬が引き攣った。じっとりと汗をかく。
しかし紫野は構わず続ける。
「またね、ってわたしが言った時、梛紗笑ったでしょ? ほんのちょっとだったけど」
笑ってなんかいない。いないが、呼び捨てにされ呆れ、への字の曲げたはずの口角は上がっていた、かもしれない。苦笑いというやつだ。
「それに、郷で結婚する人がいるとご神木の上に立って扇を振ってくれているよね」
「……だからどうした」
見られていたとは。視力まで抜群に良い姫だ。
「その時も寂しそうだったら、もしかして羨ましいのかなって思って」
「……んん?」
どうも妙な方向へ話が向かっている。その予想通り、紫野はきりっと真面目くさった顔で告げた。
「だから、わたしが梛紗のお嫁さんになってあげる」
梛紗は盛大にずっこけた。そして大きく溜め息をつくと、紫野の額を指でべちんと叩く。
「阿呆。滅多なことは言うなとあれほど。これがお前の一方的な宣言でなく、俺との問答だったなら大変なことになってたぞ」
「大変なことって?」
叩かれた額を涙目で摩りつつ訊ねる紫野に、梛紗は答えなかった。どうせ婚姻の意味などわからず言っているのだろうから。
「余計なお世話なんだよ。俺は別に嫁なんぞ欲しくはない」
腕組みをして、ふんっ、と鼻を鳴らす。すると紫野はしばし考え込むように目を瞑り――閃いた、と言わんばかりに目を見開いた。
「じゃあ、お友達になってあげる」
姫君らしい無自覚な上から目線だ。ぽかんと呆れ、梛紗の喉から乾いた笑いが漏れる。
それを噛み殺し、ぽつりと零れたのは、隠しきれなかった本音だった。
「……どうせすぐ死ぬくせに」
言ってから、はっとして梛紗は口を噤んだ。どうやら自分でも気付かないうちに酔いが回っていたらしい。
神として力を与えられ、郷の人々に受け入れられた当初は楽しかった。友のような者もいた。けれど彼らはあっという間に老いていく。
嫁を迎えて晴れがましく笑っていた若者が、気がついたら墓の中。そういうことを繰り返すうち、梛紗は郷から距離を置くようになった。
だから、ぎくりとした。寂しそうだと言い当てられて。
こんな子供に。悔しい。癪だ。そんな感情が乗った声は低く鋭かった。
けれど紫野は一切、目を逸らさなかった。
「だったら生まれ変わっても友達になるわ」
子供の戯言だ。来世どころか十年後にすら忘れているだろう。
でも――
梛紗は紫野の頭に触れる。幼子特有の細く滑らかな髪を撫で、そして再び指で額を叩いた。
「痛いんだけど」
「阿呆」
それだけ言って、梛紗は紫野に背を向けた。
「興醒めだ。俺はもう帰るぞ」
「今から? 山へ?」
もう夜更けだが、人間ではない梛紗には闇夜など問題にならない。
けれど梛紗はしばし沈黙し、振り返ることなく答える。
「……雪緒を連れて帰るには、少々明かりが足りんな。今日は社に泊まる」
眷属の子うさぎを言い訳に使ってしまった。
けれど悟られたくはなかったのだ。
こんな幼い子供の戯れ言を、一瞬でも縋ってしまいそうになっただなんて。




