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いと

 その頃、神も悪鬼も人を化かす獣も、人の傍に有った。彼らは人里の近くに住み、人々は特別な力などなくてもその姿を見ることができた。

 とはいえ神域にずかずか踏み入ってきて神を親しい友人かのように扱う奴は稀である。

「梛紗、遊びにきたよ!」

「……煩い」

 春になり、陽の下でうさぎの姿を顕し昼寝をしていた梛紗は身を起こして人の姿へと変じた。こうしないと無遠慮に飛びついてきて、腹の上に座ろうとするのだ。この姫は。

「紫野様、私と遊びましょう」

 主の機嫌が悪くなるのを察した雪緒が割って入ってくる。

「もちろんよ。でも梛紗も一緒に遊ぶの」

 頑として譲らない紫野に辟易する。かと言って逃げるのも癪だった。

「姫様がこんなところに来るな」

 整備もされていない山である。うっかり崖から転げ落ちたり毒虫に刺されることだってある。

「だったら梛紗が麓に降りてくればいいじゃない」

「なんでそうなる」

「だってせっかく父上が麓に社を建てたのに。そこに移ってらっしゃいよ」

 紫野の家は守護代という、地方管理を担う武士の一族だ。西国と都を結ぶ要衝、須磨浦に近いこの郷は物流も盛んで富み栄えている。

 その守護代である紫野の父が社を建てたのは数年前のこと。彼の妻が産後に生死の境を彷徨い、彼は山頂の神木の前で救いを求め祈った。

 梛紗はそれに応じて扇を振った。妻は命を取り留め、その感謝の印として建てられたのが麓の社だった。

 けれど梛紗はそこには寄りつかず、社は空っぽのまま。救った後の人々には無関心で、その時に産まれた赤子が紫野だったことも知らなかった。

「俺はここが気に入ってるんだ」

 低山とはいえ山頂の神木は須磨浦の沖まで見渡せる。静かで何もない。そこが良かった。

「人間は騒々しいくせに弱くて脆い。だから嫌いだ」

「だったらどうして助けてくれるの?」

 純粋な疑問を投げてくる紫野に梛紗は答えられず唇を引き結ぶ。

 しかし、そこに新たな騒音がやってきて、沈黙したことを紫野に気取られることはなかった。

「紫野様! わたしを置いていかないでよー!」

 がさがさと灌木の枝葉を掻き分け、現れたのは紫野より小柄な少女だった。髪に葉っぱをくっつけて、半泣きになっている。

「いと、付いてこなくてもよかったのに」

「姫様がこうやってすぐいなくなるから、見張ってろって(かか)様に言われてるの!」

 いとは小さな体を大きく動かして猛抗議する。彼女は紫野の乳母の実子で今は紫野の侍女であるが、ずっと一緒に育っているためか姉妹のような気安さだった。

「ほら、妹分を困らせるなよ。さっさと帰れ」

 これ幸いにと梛紗は紫野を追い払うように手を振る。しかしこれに大きく反応したのは、いとであった。

「妹!? わたしが妹!?」

「あ、まずいよ梛紗。いとの逆鱗に触れちゃった」

 梛紗の後ろにさっと隠れた紫野がこっそり囁く。その言葉通り、いとは癇癪を爆発させた。

「わたしのほうが紫野様より十日! 十日も早く産まれてるのに! わたしがこんなに小さいのは、きっと紫野様が母様の乳をわたしの分までたくさん飲んだからなの!」

 まるで悲劇を語るように芝居じみた様子でそう言って、いとはわぁっと泣き出す。どうやら体が小さいことを気にしているらしい。

「でもわたしたち、まだ子供だよ。いつかはきっと大きくなれるよ」

「ほんと? いつかって、いつ?」

 梛紗の影から顔を出し、宥めようとした紫野だったが、いとに問い返されて視線を泳がせた。

「えっと、十年後……? じゃなくて二十年……いや百年……五百年後?」

 口から出任せで誤魔化そうとした紫野に、怒ったいとが駆け寄って彼女をぽこぽこと叩く。手も小さくてまったく痛くなさそうではあるが、雪緒が間に入ってなんとか落ち着いた。しかし、いとは不機嫌なままだ。

「とにかく、ひとりで山に入らないで。わたしが怒られるんだから」

「そうだそうだ。もう来るな」

 便乗する梛紗に、いとは鋭い視線を向ける。

「そもそも神様がこんなところに棲んでいるのが悪いの。麓の社に降りてきてよ」

「なんでそうなる」

 さっきも同じ問答をした気がする。傍らでは雪緒が水干の袖で顔を隠して笑っていた。

「この通り、紫野様をじっとさせるのはほぼ無理なので。神様が社に移ってくれれば山まで追いかけてこなくて済むでしょ」

「そうそう。麓に来てくれたら遊べる時間も長くなるよ」

 なんとも手前勝手なことである。梛紗は額に手を当てて溜め息をついた。そしておもむろに少女二人を両脇に抱える。

「ええい、煩い。だったら望み通り郷に降りてやる。お前らの親に一言文句を言ってやらんと気が済まん。どういう教育してるんだ、まったく」

 そう言って軽く地面を蹴る。それだけで梛紗の体は高々と空に舞い、木々の枝を軽快に飛び移って山を駆け下る。

「梛紗様、どうか手加減のほどを」

 慌ててついてきた雪緒が心配そうに言うが、少女たちは振り回されて楽しいのか、きゃっきゃと歓声を上げていた。

 麓につき、郷の一番大きな屋敷に直行する。堀も板塀も軽々と飛び越えて、庭先で子供らを放り出すと、真っ先に駆け寄ってきたのはいとによく似た女だった。

「姫様! どちらにいらしたのです!? いと、見張っていなさいと言ったのに!」

 紫野の乳母で、いとの実母だ。足が悪いのか歩くのが少し難儀そうだった。

 乳母は真っ先に娘であるいとを叱ったが、梛紗と雪緒の姿にぎょっと目を見開く。人と変わらない姿をしている梛紗はともかく、まだ力の乏しい雪緒は人間でないことが明らかだった。

「そよ、梛紗と雪緒だよ。山に棲んでる神様」

 怯える乳母、そよに紫野が笑顔で言う。それを制し梛紗が告げた。

「悪いが、屋敷の主人を呼んできてもらえるか?」

「し、しばしお待ちを」

 足をひきずりながら、そよは屋敷奥へと引き戻る。そしてしばらくすると、慌てた様子で胴服姿の男が現れた。

「これはこれは、梛紗様。お久しゅうございます」

「直利か。健勝なようで何より」

 紫野の父、この福垣(ふくがき)の郷の守護代である浜戸直利(はまと なおとし)だった。

「梛紗様が郷に降りてこられるとは珍しい。いかがされましたかな?」

 見た目は十七、八の若者である梛紗に直利はへりくだる。

 優しげな顔立ちの通り穏やかな人物だが、紫野が産まれた時、妻の助命を乞うて豪雨の山を登ってきた男だ。雪緒を救うため雪山を登ってきた紫野とは、さすが親子と言うべきか。

「この(わらし)らの所業について話がある」

 口元に笑みを湛えつつ目は笑っていない梛紗に、すべてを察したらしい直利は苦々しい顔で天を仰いだのだった。

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