琵琶の音
怪我や病を得た状態で、神社の奉仕はできない。
怪我は気枯れ、転じて穢れ。病もまた然り。現代においては神社ごとに判断は異なるが、少なくとも付加価値を重んじる紅音は眼帯をしたままでは巫女として働くことができない。
しかし、この目の異変は医者にかかったところで治るものでもなかった。眼帯はあくまで応急処置、その場しのぎの足掻きに過ぎない。治す方法は、おそらくただひとつ――
五月の連休に入ったものの、卯山神社の閑散ぶりは変わらず。花手水を見に来る人はちらほらいるが、祈祷の依頼もなく帰っていく。
書道教室も連休中は休みになるため、むしろ平日よりも静かだった。
離れの裏手、社叢林との境に巫女装束を纏った紅音は弓を手にして立つ。
弓や舞の練習場だ。ここなら人目につかないし、万が一にも人に矢が当たることはない。
敷いた筵の上に立って、弦をきりりと引き絞る。
放たれた矢は的を大きく外れた。やはり片目では狙いを付けにくい。
溜め息をつき、次はスマホを操作しポータブルスピーカーから音楽を流す。
町内の伝統保存会による雅楽の演奏を録音したものだ。例祭では神楽殿にて生演奏と共に舞を披露する。
千早を羽織り、額に天冠をつけ、手には花。練習用の造花だが、本番では生花を用いる。
それは白い小さな花をつける多年草。
例祭は小満の頃。五月の末の週末を予定している。境内には近隣の飲食店による屋台も出て、主に書道教室の生徒たちが浴衣や甚兵衛で集い賑やかになるのが毎年のことだ。
授与所も少しばかり忙しくなるために、例年は氏子に手伝ってもらっている。今年はバイトをしてみたいという光都に声を掛けたところ、彼女が臨時巫女を勤めることになり、正直な話少々助かった。氏子も年々減ってきており、例祭に合わせて予定を空けてもらうのに苦労するのだ。世知辛いことである。
篳篥と笙、龍笛の吹物に始まり、鞨鼓と鉦鼓が拍子をとる。そこに楽箏の音が重なり、紅音は手にした榊の造花を掲げ持ち――ばらん、と楽箏より重い弦の音がした。保存会には奏者がいない琵琶の音だった。
音のしたほうへ視線を向ける。社叢林の太い樹の上、枝に腰掛けた狩衣姿の梛紗がそこにいた。抱えた琵琶の螺鈿装飾が木漏れ日に輝く。
「……どこから持ってきたの」
「蔵にあったのを拝借した」
「でしょうね、見覚えがあるわ。壊さないでよ」
蔵には他にも例祭で使用する祭具等が収められており、その多くが歴史的価値を持つ。
持ち出すなと怒りたいところだが、梛紗にとっては鍵などあってないようなもの。制限したところで詮ないことだ。
琵琶の音が加わり深みを増した雅楽に合わせて舞う。天冠の歩揺――細い金の鎖で垂れ下がった装飾がしゃらんと涼やかに鳴った。
ひと差し舞い終え、音が止む。重い天冠を外した紅音はゆっくりと息を吐いた。
やはり舞もいつも通りには動けない。
「節句の蟇目矢はどうするんだ?」
樹上から梛紗が問う。感情の薄い声音だった。休憩用の長椅子に腰掛けた紅音もまた淡々と答える。
「お父さんが替わってくれるそうよ」
蟇目矢は的を射るのではなく、蟇目鏑という空洞のある部品を鏃に装着することで飛ばした際に音を鳴らすことが目的だ。その音により邪気を払う。弓の弦を鳴らす鳴弦という厄除けの儀式もあり、弓矢は梛紗が持つ太刀同様、武器であり祭具なのである。
明日は端午の節句。眼帯をつけた目のままでは儀式は行えない。とはいえ弓術の儀式を紅音が任されたのは中学生になってからで、それ以前は智春や氏子の弓道経験者が勤めていた。儀式と月のものが重なった時も同様に代理を立てている。
しかし先述の通り、この先もずっと氏子に頼りきることはできない。数年前まで巫女舞の舞手を担っていた氏子の娘も昨年結婚して遠方に引っ越している。
智春には宮司の仕事があり、里穂子は弓や舞の技術を持たない。紅音が復帰できなければ例祭を執り行うのは難しくなるだろう。
琵琶を抱えた梛紗が音もなく地上に降り立つ。そして座ったままの紅音の正面に立ち、じっと見下ろしてきた。
「その目、痛むか」
「痛くはないわ」
「……そうか」
紅音の答えに梛紗はわずかに安堵したような表情を見せた。それから何か言いたげに動いた唇は、声を発す前に引き結ばれる。
まるで、問うことを恐れているかのように。
それを誤魔化すように梛紗は手にした琵琶を差し出してきた。
「弾いてみてくれないか」
「……演奏料は?」
「もちろん払うさ」
琵琶を受け取った紅音の両肩を梛紗がぽんと叩く。蜉蝣の羽のような薄絹に包まれる感覚がした。
神の御手による加護の付与であった。
「足りないならツケにしておいてくれ」
そう言って梛紗は薄く微笑む。どこか覚悟を決めたような笑みであった。
紅音は琵琶を抱え、撥を握る。
断ることは簡単だ。だって紅音は、高継紅音は琵琶など習ったことがない。
けれど拒否もできない。もう投了寸前なのだ。逃げ続けたところでこの目は決して治りはしない。どれだけ加護を受けようと、梛紗にすら制御できない天罰に逆らい続けることは現状の悪化を意味する。
渡された琵琶は、諦めろという意味だ。紅音と梛紗、互いに。
それでも足掻きたかった。
手首を翻し撥で弦を弾く。
「元歴二年――」
ほんの短い一節だけの弾き語りで紅音は手を止めた。顔を上げ、右目だけで梛紗を睨めつける。
「弾いたわよ。これで良いでしょう?」
要求には応じた。支払われた報酬分だ。
答える代わりに、何かを確信したように梛紗は目を伏せる。それを無視して紅音は立ち上がった。
「琵琶、蔵に戻してくるわ」
離れのすぐ側にある蔵へ足を向けた紅音に、梛紗は独り言のように言葉を投げる。
「見事だった。――流石だ」
蔵の灯りを点け、琵琶を元あった箱に収める。
整然と並んだ祭具はどれも大切な品だ。美しく、歴史的価値のある宝物たち。
そんな中、一際目立つ場所に飾られたものがある。
けれど紅音は直視することはできない。
それは一本の弓矢であった。
平根という鋼の鏃がついている。殺傷力のある征矢だ。
例祭ではこれを前にし舞を奉ずる。なぜならこの弓矢の鏃は、この卯山神社が創建された当時から伝わる宝物であるからだ。
苦手だった。見たくなかった。舞う時はいつも目を逸らしていた。
刃物だから、だけではない。紅音はこの鏃が元は何であったのかを知っている。
頭を振り、踵を返して蔵を出ようとし――足を止めた。
雪緒がいた。母屋で昼食の準備を手伝っていたはずだが、慌ててやってきたのだろう。息が上がっている。
きっと先ほどの琵琶の音が聞こえたのだ。うさぎの耳ならば、当然。
「雪緒、そこをどいてちょうだい」
「嫌です」
首を振った雪緒は今にも泣き出しそうだった。そして意を決したように、身を低くて一瞬で間合いを詰める。
「失礼仕ります!」
顔面に向かって伸ばされた手。それを紅音は一歩引いて打ち払う。しかし手応えはなかった。少年の姿は小さなうさぎに変わり、紅音の手をすり抜ける。
頭に軽い衝撃を受け、紅音はその場に膝を突いた。祭具のある狭い蔵の中、派手に動けなかったのだ。
髪をまとめていた水引が解ける。黒髪が乱れる。
蔵の床に降り立った子うさぎは眼帯を咥えていた。それを口からぽろりと放し、雪緒は嘆くように言う。
「先ほどの琵琶の音……。やはり貴女はすべて覚えておいででしょう? 紅音様。いいえ――紫野様」
そう呼びかけた雪緒を、露わになった紅音の左目が捉える。
その瞳は深紅に染まっていた。




