隠した異変
その晩も、いつも通りあの夢を見た。
一人の少女の短い生涯を辿る、映画のような夢。
うんざりする。もう飽きた。だけど決して慣れはしない。慣れることなど許されない。
これはきっと、神を欺き犯した罪への罰なのだろうから。
アラームが鳴るより先に目が覚める。
いつものことだ。しかし疲労感がいつもより強い。
夢の中で浴びた血の臭いがまだ残っている気がした。憂鬱が肩にのし掛かり、なかなかベッドから出られなかった。それでも朝の務めはしなければならない。
洗面台に向かって歯を磨き顔を洗う。最近の気温上昇で水道水も温く感じた。本当なら氷水でも浴びたい気分なのに。
溜め息を零し、タオルで顔を拭く。鏡の中、不機嫌そうな自分と目が合い――
呼吸が止まった。組み付くように鏡に顔を寄せ、凝視し、それから床にへたり込む。
しばし放心し、小さく肩が揺れた。紅音は笑っていた。可笑しくもないのに。
「紅の深染めの衣色深く、か……」
項垂れ、掠れた声で呟く。垂れた長い黒髪はその表情を隠していた。
「紅音お姉ちゃん……?」
ふいに背後から声がして、紅音は驚き振り返る。――己の左目を手で押さえながら。
「あ、あの、申し訳ありません。いつも起きてこられる時間を過ぎていたので、どうされたのかと……」
紅音の様子に少しの怯えを滲ませて、それでも雪緒は案ずるように問いを重ねた。その視線から逃げるように紅音は顔を背ける。
「目を、どうなさったのですか?」
「ちょっと腫れただけよ」
そう答えた紅音は立ち上がって洗面台を離れる。手で片目を隠したままで。
「悪いけど、今日の朝のお勤めは休ませてもらうわね。ドラッグストアに行ってくるわ」
早朝だが二十四時間営業の店が府道近くにあったはずだ。自転車で走ればそう時間はかからない。
部屋に駆け込むと外着に着替え、スマホを引っ掴んで急いで外へ出る。
玄関を出る時、梛紗とすれ違ったが、俯いて髪で顔を隠したまま言葉は交わさなかった。
彼も何も言わなかった。
「あ、高継さん。おはよ――どうしたの? その目」
教室に入ると扉近くにいた彩友が声をかけてきた。部活がある彼女は朝練のために登校が早く、いつも紅音より先に来ている。あちらから挨拶をされたのは初めてだった。
「おはよう。アレルギーで腫れただけよ」
返事をして自身の机に通学鞄を置く。
紅音の左目は眼帯で覆われていた。ドラッグストアで仕入れたものだ。
両親にも心配されたが、しばらくはこれで過ごすしかない。この下にあるものを晒すわけにはいかない。
教室には琴美も先に来ていて、彩友の背後から寄ってくると紅音の机に軽く腰かけるようにして笑みを見せた。
「大丈夫? 黒板見える? わたしの席、前のほうだから替わってあげる。でさ、相談なんだけど今度また梛紗さんと一緒に――」
「気遣いはありがたいけど問題ないから平気よ。あと、梛紗と懇意にしたいなら社務所の受付時間内にうちに来て、自分で交渉してちょうだい」
琴美の言葉を遮ってそう言うと、彼女はむぅっと頬を膨らませた。
「縁切り神社なんでしょ? 行きたくないんだけど。友達なんだから協力してくれたっていいじゃん。それとも、やっぱ付き合ってんの?」
いつの間に友達になったのか知らないが、面倒なので指摘はしないでおいた。それよりも否定しなければいけない箇所がある。
「縁切りではなく縁結び神社だし、彼はただの従業員よ。それ以上でも以下でもないわ」
などと話しているうちに、続々と生徒が登校してくる。チャイムが鳴る寸前に滑り込んできたのは光都だった。
「おはよー! って、紅音どうしたの!?」
「おはよう。ただのアレルギーよ」
「うわーん! 紅音、死なないでー!」
「人の話、聞いてくれるかしら」
抱きついてきて泣き出す光都に、紅音は嘆息しつつされるがままだった。
「高継さんと光都くん、仲良いよね」
少し羨ましそうに彩友が言う。力が強くてほぼ首を絞められているので、替わってくれるなら大歓迎だ。
「ただの昔馴染みよ」
答えながら、そろそろ離せの意を込めて光都の背中に手を回し、ぽんぽんと叩く。
昔に比べてずいぶんと大きな背中だった。
昼休みになり、紅音は委員会の仕事のため図書室の受付に座っていた。
週に一、二度ほど昼休みか放課後に当番をしなければいけない。もうひとり別のクラスの女子生徒が当番に入っていて、彼女は返却された本を書棚に戻しに行っている。
静かだ。室内には数名の生徒がいるものの、黙々と本を読んでいるか寝ている。返却に来た生徒も返却台に本を置くと別の本を手にとって、貸し出しの手続きをして帰っていく。そこに業務以外の会話は発生しない。
しかし、次に入室してきた生徒は紅音に気がつくと驚いたような声を上げた。
「アカネ、What happend your eye?」
金髪に青い瞳。留学生のクリストファだった。読書をしていた生徒がちらりと視線を向けてきて、彼は声を潜める。
「目、大丈夫デスか?」
「アレルギーで少し腫れてしまって。でも問題ありません」
今日だけで何度も繰り返した問答。純粋に心配してくれている人には申し訳ない気もするが、こう答えるしかない。
傘を貸し、教室まで返しにきてもらって以来、クリストファとは顔を合わせると挨拶を交わすようになっていた。
端正な顔立ちで礼儀正しく、勉強熱心な留学生。廊下を歩けば女子生徒が振り返り見惚れる。
そんな彼が一年生の、しかも呪い巫女などと呼ばれる紅音に慕わしげに話しかけるのを快く思わない上級生も少なくない。呪われるから近づかないほうが良いと進言されたこともあるようだが、むしろクリストファの母国には超自然的な力を尊ぶ文化があり、より興味を引かれる結果となったようだ。
「Get well soon.早く良くなると良いデスね」
気遣わし気にそう言ってくれる。
彼は『日本の巫術と歴史』という本を手に持っていた。返却しにきたらしい。けれど台には置かず、直接紅音に差し出してきた。
それを受け取った紅音とクリストファの指先が触れる。その瞬間、ぱちっと静電気のようなものが散った。
「Oh,sorry!」
その衝撃に手を引いたクリストファは申し訳なさそうに謝る。対し紅音はそのまま返却の手続きを始めた。
「こちらこそ、すいません。部屋が乾燥しているのかもしれませんね」
粛々と仕事をこなす紅音にクリストファは安堵の表情を浮かべる。
「僕、もっとアカネと話したいデス。でも、ここは図書室だからだめデスね」
そう言ってクリストファは受付を離れた。
「Take care.またね」
ウィンクを飛ばし去って行ったクリストファに、返却本を回収に来たもうひとりの図書委員が流れ弾に被弾したように顔を赤くする。
彼女に本を渡し、元の場所に戻すよう頼んだ紅音はまだ少しひりつく指をぎゅっと握りこんだ。




