留学生
不覚どころの話ではない。
起きたらベッドの上だった。しかもアラームの音で目を覚ました。
いつもの夢を見ていなかったからだ。意識を手放してから目覚めるまでずっと深く眠っていたらしい。
眠る前の最後の記憶はふわふわもふもふの椅子――もとい、梛紗の腹の上に座ったこと。
しかし、いつの間にか自室に戻ってベッドの上だ。つまり、梛紗に運ばれた。
寝間着は乱れてすらおらず、布団は肩まで掛けられて、履いていたルームシューズもご丁寧にベッド脇に揃えて置かれていた。まるっきり寝落ちした子供への対応だった。
重苦しい溜め息をついて身支度をする。せめて朝の清掃で気を紛らわせたいところだったが、窓の外からは雨の音がした。
こういう日は屋外での仕事は休みとなる。智春が拝殿で大祓詞を唱える朝拝や、社務所での参拝者対応だけなので紅音はやることがなかった。
学校の制服に着替えて一階に下りる。リビングでは助勤姿の梛紗が朝五時からやっている情報番組を眺めていた。雪緒はいないが、風呂場から乾燥機付き洗濯機が回る音がする。掃除と洗濯をしているようだ。
「よぅ。おはよう」
「……おはよう」
「よく眠れたか?」
「まぁね」
素っ気ない受け答えが済むと、沈黙が落ちる。溜め息を零した紅音が謝意を口にしようとした瞬間、それを遮って梛紗はテレビ画面を指差した。
「これ、いいなぁ」
紅音が画面に視線を移すと、そこには若手のお笑い芸人たちとアナウンサーが陽気なカチューシャをつけ、多彩なギミックを持つケースに入ったポップコーンを食べる姿が映っていた。背景には巨大な回る地球儀。そのテーマパークで行われる季節のイベントを紹介する内容だった。
「行ってみたいなぁ」
わざとらしい独り言で梛紗が訴えかけてくる。紅音はぎりっと唇を噛み、苦々しく頷いた。
「……福利厚生も大事だからね。検討するわ」
「マジか!? いやぁ、言ってみるもんだなぁ!」
梛紗はぴょんとソファから立ち上がり、小躍りを始めた。画面の中で踊るパレードのダンサーの動きを真似ているらしかった。
その後ろ姿を眺めつつ、紅音はもう一度深く溜め息をついたのだった。
早朝に降っていた雨は登校する時間には止み、しかし下校時にはまた降り出してしまった。晩春は天気が移ろいやすい。
油断して傘を持ってこなかった生徒たちは準備の良い友人の折りたたみ傘に身を寄せ合って入れてもらったり、濡れるのを覚悟で走って帰るなどしていた。
「紅音ぇ」
「嫌よ」
「まだ何も言ってないけど!?」
すがりついてくる光都を置いて、紅音はさっさと靴箱へ向かう。傘に入れてくれと言いたいのはわかりきっていた。
「あなたと一緒に傘に入るとわたしが濡れるのよ」
背の高い光都が傘の柄を持つのは必然。すると身長差のせいで、露先から滴る雫は紅音の肩や場合によっては頭に落ちる。傘の持ち主であるにも関わらずだ。
「子猫ちゃんたちに入れて貰えばいいでしょう」
「みんな部活やってるからさぁ」
光都にきゃあきゃあと黄色い声を上げる女子生徒たちは今は周囲にいない。いたら押しつけられたのに。
靴を履き替えても絡んでくる光都に辟易しながら外へ出る。すると、庇の下で困ったように立っている人影に気づいた。
光都と同じく傘を持ってこなかった生徒だろう。普段なら気に留めることはない。
ただ、その生徒は紅音や光都と同種の人間であった。
ようするに非常に人目を惹く。金髪に長身の男子生徒だった。
紅音が彼に目を向けたのはほんの一瞬。けれどその一瞬で、ぴたりと視線が合ってしまった。澄んだ空のような青い瞳だった。
「Shrine maiden……?」
つい声に出してしまった、というように、彼は慌てて口を噤んだ。それから照れた様子で笑う。
「ゴメンナサイ、僕は留学生デス。この学校には巫女サンがいるとウワサ聞きましタ。あなたデスか?」
長くまっすぐな黒髪。紅音が保ち続ける、巫女としてのわかりやすいアイコンだ。
今は学校の制服を着ているが、その漆黒の艶はたとえ群衆の中にあってさえ一際輝く。
「Yes,I am.卯山神社の巫女、高継紅音と申します」
問われたからには無視はできない。それに、彼の襟元には二年生を示す学年章のバッジがついていた。先輩だ。
「As expected! そうだと思いましタ、such a beautiful girl!」
少し興奮気味に詰め寄ってくる。青い目がきらきらと輝いていた。
「Knightと一緒にいると聞いていたので、すぐわかりましタ」
そう言って光都に目を向ける。騎士とはずいぶん良く言われたものだ。おそらく誰かが言った『ライト』という名前を聞き違えたのだろう。
「僕はクリストファ・ストリングス。日本の神社やお寺、とても興味ありマス。お会いできて光栄デス!」
それはそれは嬉しそうだった。しかし、チャイムの音が鳴って慌ててスマホを見る。
「ああ、いけない。Host familyと食事に行く約束しテいるので帰らないとデス」
「では、こちらをどうぞ」
そう言って紅音は鞄から折りたたみ傘を出した。
「Oh! 良いのデスか?」
「わたしはこちらを使うので大丈夫です。それも後日、教室へ持ってきていただければ。一年B組です」
片手に持つ長傘を視線で示し答える。光都が何か物言いたげにしているが無視した。
「これも何かのご縁。よろしければお参りにいらしてくださいね」
「Thanks! ありがとうございマス!」
紺色の傘を差し、クリストファは大きく手を振って雨の中を駆けていった。
「……折りたたみ傘も持ってるなら、わたしに貸してよ」
「前に貸した時、どこかに忘れてなくしたでしょ」
前科をあげつらうと、ぐっと光都は黙った。なんならあの傘はその後に光都が弁償として買ってきたものだ。
手元に残った長傘を広げる。すると光都は身をかがめて強引に入ってきた。
「今の、山川先輩との交換留学で来た人だね」
あの性格の激しい女子生徒だ。そういえばそんな名前だった。
「他の先輩から聞いたんだけど、山川先輩と笠井先輩、別れるみたいだよ。なんか向こうに行ってすぐ新しい彼氏できたっぽい。RINGのストーリーに写真載せてて二年生の間で噂になってるって」
「へぇ、そう」
まったく興味がないため雑な返事をする。しかし光都は笠井涼大と多少なりとも交流があったからか、彼に同情しているようだった。
「笠井先輩には絶対浮気させないって感じだったのにね」
「浮気や不倫をする人間は、自分がそういうことをするから他人もそうだと疑ってかかるのよ。やらない人間にとっては自分とは縁遠い話だと思っているもの」
ほぼ抱きつくように身を寄せている光都は、至近距離からまじまじと紅音を見つめる。
「なんか紅音って時々、人生二週目みたいな感じするよね」
ぱしゃっ、と足元で水飛沫が飛んだ。思いのほか深かった水たまりの前で紅音は足を止める。
「……紅音? どうしたの?」
訝しげに光都が問う。
「別に。なんでもないわ」
地面に溜まった水は曇天を映して鈍く光っている。
その中に映る自身の顔をあえて踏んで水を蹴立て、紅音は歩みを進めた。




