大きな桜の木の下で
一般的な木工細工で使用するものより明らかに太く長い釘。ちなみに五寸とは約十五センチで、ホームセンターなどで十五センチの釘を買えばそれは五寸釘ということになる。藁人形も手作りキットが通販で買えたりする。材料は二個分入っていて予備も作れる手厚さ。実に便利な世の中だ。便利すぎて――
「腹立たしい」
手にしたバールのようなもの――釘抜きで肩をとんとん叩きながら、紅音は眉間に皺を寄せて舌打ちをした。
参道である石階段。そこへ沿うように立ち並ぶ木々の一本に、真新しい藁人形が打ち付けられていた。
入学式から一週間ほど経った日、帰宅した紅音がこれを見つけ、自宅から工具を持って戻ってきた次第である。
参道から目に付きやすい場所にこんなものを長々と放置していては見苦しい上に、傷つけられた木々を見逃していると枯れて倒れることもある。もしそれで人が怪我をしたとなれば卯山神社の管理責任となるのだ。
そもそも社叢というのは鎮守の森である。それそのものが聖域であり、倒木などの恐れがない限り人が手を加えてはならない。故意に痛めつけるなどもってのほか。
だというのに、こうしたものが頻繁に見つかる。いい加減にしてほしい。
釘の頭に釘抜きの先端部分を引っかけ、体重をかける。しかしなかなか抜けない。紅音の目線よりずいぶん高い位置にあるうえに深々と刺さっている。
藁人形の表面には紙が貼り付けられていて、赤い水性ペンで何かが書かれていた形跡があった。しかし昨夜遅くに降った雨に滲んだのか読み取れない。
呪った相手の名前か何かだろう。よくあることだ。どうであれ撤去した後はただのゴミになる。絵馬や納札所に納められた古い御札などのように祈祷してお焚き上げしてやる謂われはない。人形や写真といった品が持ち込まれることもあるが、それだって受け付けるのは初穂料が納められたものに限る。誰かに何かをしてほしければ金を出せという話だ。
背伸びをし、歯を食いしばって釘抜きに力を込める。がくんっ、と手応えが軽くなって釘が抜けた。一仕事終えた紅音は額に浮いた汗を拭って落ちた藁人形を拾い上げ――ギャアッ、と頭上で聞こえた声に、思わず天を仰いだ。その顔面に、覆い被さるように何かが落ちてきて張り付く。息ができず慌ててそれを摘まみ上げて顔から離した。
「これは……」
白い毛玉。手のひらに乗るくらい小さな子うさぎだった。所々が赤く滲んでいる。――血だ。
ギャアッ、ともう一度声がした。樹上に見えたのは黒い影。大きなカラスだった。
獲物を横取りされたと思ったのかカラスは紅音めがけて舞い降りてくる。咄嗟に避けた紅音はそのまま石階段を駆け上がった。
開けた境内まで辿り着くと、隠れる場所がないことを警戒したのかカラスは追ってくることなく、ほっと息を吐く。
「はぁ、まったくもう……」
境内の桜が花弁を散らす中、紅音は手の中に収まったままの子うさぎに視線を落とした。
息はある。人のものよりずっと早い鼓動が手のひらに伝わってくる。温かい。でも動かない。
もう一度溜め息を吐き、紅音はスマホを取り出した。近所の動物病院を検索する。
「もしもし、初診なのですが予約いいですか? ――うさぎです。怪我をしているのですぐに診ていただきたいのですが――ええ、ありがとうございます。今から向かいます」
通話をする紅音の声に毛玉から飛び出した長い耳が、ほんのわずか、ぴくりと揺れた。
昔から何度も同じ夢を見る。
小さな映画館で長い長い物語を見る夢。カタカタと映写機の音が聞こえる。観客は制服姿の紅音だけで他には誰もいない。
映写機の音が聞こえるような古い映画館になんて行ったことはない。だからこれは紅音の深層心理なのだろう。この映画館は夢の入り口の象徴だ。
今宵も気がつくと映画館の座席に座っていて、またあの夢かとうんざりする。せめてコーラとポップコーンでもあればいいのにと思うのに何もない。買いに行きたくてもそもそも座席から立ち上がることさえできない。まぁ夢なんてだいたいそんなものだ。
やたら意識のはっきりした夢の中で紅音は諦念じみた溜め息をついた。それと同時にブザーが鳴って場内の灯りが落ちる。しかし、なかなか映画が始まらない。
いつもとは様子が違う。そう感じた瞬間、銀幕に一点の光が見えた。点はぽつぽつと増えていく。それが桜の花弁だと気づいたのは、溢れ出た薄紅の光に視界をすべて奪われてからだった。
眩しさに堪らず目を閉じる。その瞼に何かが触れた。そろりと目を開けてみると、それは紛れもなく桜の花弁だった。風に舞って頬や髪にも触れる。
紅音は巫女装束で卯山神社の境内に立っていた。脈絡のない瞬間移動も早着替えも夢にはよくあることだ。特に驚きもしない。巫女装束だって家の手伝いをする時に着るものだからほぼ普段着のような感覚だった。
境内の桜が咲いている。けれどここは『今』の卯山神社ではない。この桜は満開だが、現実ではもう散り始めてちらほらと葉の緑色が目立ち始めている。
そう冷静に考えながら桜の木を見上げる紅音の背後に、誰かが立った。
白い狩衣を着た若者。十七か十八。高校生か大学生一年生くらいに見える。
しかしその風貌は人間とは思えないほどに秀麗であった。黒い髪は光を纏い、切れ長の目には気怠げな色香を宿している。
青年は振り返った紅音に尊大な様子で微笑みかけた。
「娘よ。此度は我が眷属、雪緒を救ってくれたこと感謝する」
彼が言うと、その背後から七歳くらいの少年がひょっこりと顔を出した。水干姿で黒髪の一部だけが白い。
雪緒と呼ばれた少年は紅音に一礼した。着物の袖から見える手首には真新しい包帯が巻かれていた。
「我はこの社の神、梛紗。不本意ではあるが受けた恩は返さねばならん。それが理というやつでな。願いをひとつ聞き届けてやろう。なんでも良いぞ」
「……なんでも?」
美しく整った眉をぴくりと動かし、紅音は小声で呟いた。梛紗と名乗った青年をじっと見つめる。
「遠慮することはない。富でも名声でも、好きなものを望め」
「これは仮の話だけど」
両腕を開いて鷹揚に促す梛紗に対し、紅音は逆に腕を組んで斜に構えつつ尋ねた。
「もし、わたしが『素敵な恋人が欲しい』と願ったら、あなたはどうやってその願いを叶えるのかしら」
探るような紅音の視線を受け、梛紗は顎に手を当て少し考えるような仕草を見せた。
「そうさなぁ……。まぁ、悪縁を切れば良かろうな。そなたがこの先、真っ当に生きて行けばそれで良縁は得られよう」
梛紗の答えを聞いて、紅音は組んでいた腕を解くと自身の腰に当てた。そして梛紗に負けないくらいの尊大な態度で告げる。
「だったら、わたしの願いはこれ意外ないわ。うちの神様を――あなたをクビにしたい」




