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まつとし聞かば

「……実は、近所に地域猫のお世話をしている方がいて、そのお宅にもチラシを持って行ったんです」

「知ってるわ。田原さんね」

 心当たりがあるように里穂子が相打ちを打つ。

「そう、その田原さんが仰ったの。お世話している猫のうち何匹か、ここ数日姿を見せないんですって」

 沈黙が落ちた。萌歌の母と里穂子、双方の脳裏を過ぎったのは、おそらく同じ不安だろう。

 時折、全国のどこかで発生する胸の悪くなるニュース。小さな生き物の命が悪戯に奪われる事件は、残念ながら後を絶たない。

「……きっと大丈夫よぉ! ほら、最近暖かくなって過ごしやすいから! 猫集会してるんだわ!」

 励ますように里穂子が明るく笑うと、萌歌の母も力なく笑みを浮かべた。

「そうね……。今日は本当に、遅くまでお世話になってありがとうございました」

 最後にそう言って頭を下げ、萌歌の母は停めてある車へと向かっていった。

「……ああは言ったけど、心配ねぇ」

 本音を吐露する里穂子。猫も心配だが、近所に不審者がいる可能性も出てきたなら不安にもなるだろう。

 しかし紅音はまったく別のことを考えていた。

「ねぇ、お母さん。ちょっと確認したいことがあるのだけど……」

 そう言いながら、スマホを操作する。

 立ち上げたのは地図アプリだった。


 夕飯を終えて離れに戻ると、梛紗はリビングのソファで寛ぎ始めた。すっかり我が物顔である。

「しかし『うちの神社に古くから伝わるおなじない』ねぇ。よく言ったもんだ」

 テレビを点けてごろ寝しつつ、感心したような呆れたような声で言う梛紗に紅音は肩をそびやかす。

「間違ったことは言っていないわ。うちにも伝わっている――民間信仰のまじないよ」

 紅音が萌歌に渡した短冊。そこにはこう書かれていた。

『立ち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む』

 古今和歌集巻第八、在原業平朝臣が詠んだ和歌である。

 小倉百人一首の第十六番としても有名なこの歌は離別歌(わかれのうた)だ。しかし、いつの頃からか、行方をくらませた飼い猫を呼び戻すまじないに使われるようになった。

 地域差で紙を玄関に貼ったり枕元に置いたりと変化はあれど、概要はほぼ同じ。紅音が萌歌に教えた通りのまじないが全国各地に伝わっている。

 もっとも、これを知るのは今となっては高齢者か古典及び歴史愛好家くらいだ。萌歌が知っている可能性は限りなく低かった。

 萌歌の両親や周囲の大人なら、あるいは知っているかもしれない。しかしあの短冊の文字はそうそう読めはしないだろう。

 くずし字――古文書などに見られる細く蛇行した字体で書いたからだ。

 萌歌がこの先ずっと書道を続けていけば、いずれ習うことにもなろうが、その頃にはもう時効だ。

「……けれど、猫が帰ってこなければあの子は逆に傷つくのではないでしょうか」

 ソファの端にちょこんと座った雪緒が不安そうに零す。

 白かった短冊はやがて煤けて時の経過を視覚的に訴えてくる。それを諦めるための手段とするには、萌歌はまだ幼い。

 だから雪緒の言いたいことはわかる。――しかし。

「そこでだらしなく寝転がってる人が仕事をしてくれるなら、万事解決なのだけど?」

 そう言って紅音は非難がましい目を梛紗に向けた。主人の怠慢を責められ、雪緒は縮こまって黙る。

 当の梛紗はといえば、チャンネルをザッピングしながら薄笑いを浮かべていた。

「だって俺、神様クビになったしぃ。今はただのバイトだしぃ」

 清々しいまでの開き直りっぷりである。紅音は閉口し、冷やしていたお茶を飲もうとキッチンの冷蔵庫を開け――閉めた。

「念のため訊くわ。――どっち?」

 その問いに、雪緒はきょとんと紅音を見上げた。

「何がでしょうか?」

「冷蔵庫に入れておいた、わたしのエクレア。食べたのはどっち?」

 もはや訊くまでもないが。それでも冤罪は避けるべきである。

 いろいろ察した雪緒が苦い顔をした。そして第一容疑者は寝転がったまま片手の親指を立ててみせる。

「美味かった」

「感想は訊いてないのよ」

 呆れたが、食べられてしまったものはもう元には戻らない。

「給与から天引きしておくわね」

 梛紗の給与は現時点ですでにマイナスに振り切っているが、仕方ないと諦めてしまっては泣き寝入りである。

 溜め息を零して紅音は一旦、部屋に引き戻った。そしてジーンズ、パーカー姿にサコッシュを斜め掛けして下りてきて、玄関でスニーカーを履く。それに気づいた雪緒が玄関までついてきた。

「どちらへ?」

「コンビニよ。糖分を摂るつもりでいたのに叶わなかったからね」

「お供します!」

 主人の過失を補うつもりか、殊勝なことだ。

「ありがとう。お願いするわ」

「なんだなんだ、二人して。俺も行くぞ」

「あなたは来なくていいのよ」

「仲間はずれか? そういうの良くないぞ」

 拗ねたように頬を膨らませる梛紗に、紅音は冷ややかな視線を返す。

「だったら好きになさい」

 そんなわけで、三人連れ立ってコンビニに行くこととなった。


「夜の散歩もなかなか乙なもんだ」

 晩春の夜風に吹かれながら、梛紗は上機嫌でついてくる。

 今はジャケットを羽織ったカジュアルな姿だ。住宅街を歩いていても違和感のない格好だが、それでも塾帰りらしい女子中学生たちに二度見される程度には目立っていた。

 紅音自身も目立つうえに、雪緒も愛らしい見た目をしている。連れ立っていると効果は倍以上だった。

 やがて道の先に明るく光る看板が見えた。青と緑と白。店内から漏れる灯りも煌々として、暗い夜道を照らしている。

 しかし紅音は店の目前、ひとつ前の角を曲がって横道にそれた。

「おい、コンビニってあれじゃないのか? CMで見たことあるぞ」

 店の方向を指差しながら梛紗が言う。雪緒も不思議そうについてきた。

「悪いけど、ちょっと寄り道するわ」

 振り返りって紅音は告げる。

「おまじないの効果を確かめに行きましょう」

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