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おまじない

 内田家の庭には藤の木がある。

 ちょうど萌歌の部屋に面していて、通りかかる人が足を止めて見上げ、花の香りを楽しむこともあった。

 萌歌もその香りが大好きで、今の季節、夜に少しの間だけ窓を開けて楽しんでいたそうだ。夜には大きな羽音で飛び回る熊蜂も来ないから。

 昨日も宿題をしている間、十センチほど開けておいた。侵入防止の柵はついているが、網戸のない窓だった。

 ちょうど宿題を終えた頃に、「ご飯よ」と呼ぶ母の声がした。そして「『みるきぃ・てぃあら』がテレビに出てるわよ」とも。

 それは萌歌が今ハマっているアイドルグループで、慌てて部屋を出た。――窓を閉めずに。

 ドアを開けた瞬間、するりと部屋に入ってきたのは内田家の飼い猫であるマリン。萌歌が小学校に入学したお祝いに迎えた、ロシアンブルーという品種の猫だった。

 あっ、と思った頃にはもうマリンは勉強机に飛び乗って、興味深そうに窓の外を覗いていた。

「マリン、だめ!」

 叫んだその声に驚いたのか、たった十センチの隙間、侵入防止の柵すらもすり抜けてマリンは窓の外へ飛び出してしまった。

 急いで両親に伝えて家の周囲を見て回ったものの、マリンの姿はどこにもない。今日も学校や書道教室を休んで探したいと萌歌は訴えたが、それはだめだと両親に言われてしまった。


「萌歌がいけないの……。ちゃんと窓を閉めなかったから……」

 そう言うとまた萌歌の目から涙が零れた。

 完全室内飼いのマリンは今まで一度も外に出たことがないという。だからきっと庭先に潜んでいるはずと萌歌も両親も思っていた。それで初動が遅れたというわけだ。

「マリン、今頃ひとりぼっちで、お腹空かせてる……。このまま帰ってこなかったらどうしよう……」

 しゃくりあげ、借りたハンカチで何度も目元を拭う。

 その背後で紅音は静かに立ち上がった。そして書道教室の文机に向かって墨を磨り、小筆を手に取る。

「萌歌ちゃん。これを」

 まだ泣いている萌歌に歩み寄って膝をつき、紅音が差し出したのは練習用の白い短冊。萌歌はしゃくりあげつつも、不思議そうにそれを見た。

「これ、なぁに?」

「萌歌ちゃんは、うちが神社だということはもう知っているかしら」

「え……うん。お友達のレナちゃんが縁切り神社だって……」

「縁結びよ、萌歌ちゃん」

 笑顔で短冊を萌歌に握らせる。その力強さに萌歌は少し戸惑いの表情を浮かべた。

「子供に圧をかけるな、圧を」

 梛紗が呆れたように言うが紅音は無視する。

「これはうちの神社に古くから伝わるおまじない。マリンちゃんがいつも使っているお皿を逆さに伏せて、この紙をその下に敷いて。そうすればきっと帰ってくるわ」

「ほんと!?」

「ええ。だってうちは縁結び神社だもの」

 そう言って、紅音は梛紗をじっと見た。えげつないほど強い目力で。

 ガンをつけられた梛紗は嫌そうに身を引く。そして短冊に気を取られ泣き止んだ萌歌に視線を落とした。

「口、開けな」

 ふいにそう呼びかけて、梛紗は萌歌の口にいちごを放り込む。小粒だけど甘くて、萌歌は目を丸くした。

「撤饌だ。御利益があるぞ」

 そう言って頭をぽんぽん撫でた。

 甘さとその言葉に安心したのか、萌歌の口元に微かながら笑みが戻る。

「ありがと……」

 その時、縁側に面した庭の向こう、生け垣を挟んだ場所に車が停まった。高継家の駐車場及び、参拝者や書道教室の生徒向けに設けてある駐車スペースだ。

「遅くなってすいません!」

 小走りに駆け寄ってきたのは萌歌の母だった。紅音と梛紗にぺこぺこと頭を下げながら、萌歌に帰る準備を促す。

「構いませんよ。今、うちの父は席を外しているので母を呼んできますね」

 そう言って紅音は一旦、退席する。台所で夕飯の準備をしていた里穂子に声を掛けると、里穂子はフリルのエプロンをつけたまま教室へ向かった。

 紅音も一緒に戻ると、そこにいたのは萌歌の母だけ。萌歌は梛紗と雪緒に付き添われ、先に車に乗って待っているようだった。

「里穂子さん、すいません。いちごまでご馳走になったようで……」

「いいのよぉ。こちらこそ、余計なことしてごめんなさいねぇ」

 顔を合わせるなり、萌歌の母は里穂子にも深々と頭を下げた。里穂子はそれに朗らかに返し――きょとんと目を丸くした。

「内田さん、疲れてるようだけど何かあった?」

 問われ、一連の事情が萌歌の母の口から語られる。萌歌自身の話と相違なかった。

「今日、パートの仕事が終わってから保健所や警察署に連絡してみたり動物病院も回ってみたんです。でも何も情報がなくて……」

 言いながら、萌歌の母はトートバッグからチラシを取り出す。

「スマホで作ってコンビニで印刷しただけだから雑なんですけど、ないよりマシかなって……」

 そこに印刷されていた写真はグレーの体毛にエメラルドグリーンの瞳が美しい猫。青い首輪には鈴ではなく、ひらがなで『まりん』と書かれたプレートがついていた。

「うちの社務所にも貼っておくわ」

 心配そうに眉尻を下げながら、里穂子がチラシを受け取る。手渡した萌歌の母は「ありがとうございます」と頭を下げ、しかしまだ何か気がかりがあるような表情をしていた。

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