縁切りの神様
「あら、今日はなんだか賑やかね」
雪緒の言葉は、ふいに背後から掛けられた声に遮られた。
少し腰の曲がった老女が参道をゆっくりとした足取りで歩いてくる。振り返った紅音は竹箒を持ったまま深々と頭を下げた。
「おはようございます、遠藤さん。お久しぶりですね」
「ええ、おはよう。ちょっと入院していてね。一時退院できたんだけど、今日の昼にはまた戻らないといけないのよ。だからその前にお参りしておこうと思って」
老女――遠藤千枝は卯山神社の氏子で、よく参拝にきていた。それこそ紅音が産まれるもっと以前、祖父母の代からの付き合いである。
しかし最近は顔を見せず、智春と里穂子も気にしていた。一目で痩せたとわかるその様子から、抱える病が軽くはないと窺える。
それでも千枝は穏やかな表情で、会釈をした雪緒に笑みを深めた。
「可愛らしい子ね。坊や、朝早くにどうしたの?」
「昨日からここで働かされることになった可哀想な兄弟でーす」
答えたのはいつの間にかまた戻ってきた梛紗だった。氏子である千枝の手前、舌打ちを我慢した紅音は余所行きの笑みを顔に貼り付ける。
「新規採用した助勤さんと、その弟さんです」
「あら、そう」
千枝が朗らかに納得した時、彼女の来訪に気づいた智春が挨拶にやってきた。二人が世間話をはじめたので紅音はお辞儀をしてその場を離れる。
「働かせてくれと泣きついてきたのはどこの誰だったかしら」
「追い出されかけた住処を見事に確保したんだ。策士と呼んでくれ」
不機嫌な紅音にふてぶてしく返す梛紗。そんな二人に挟まれた雪緒はすっかり疲れた顔になっていた。
そこへ拝殿での参拝を終えた千枝が戻ってきて、紅音ちゃん、と呼びかける。
「それじゃあ、帰るわね。遅くなると息子に怒られちゃうから。……また来るわ」
「はい。ようお参りでした」
巫女としての表情を崩さず、紅音は一礼した。
また、という千枝の言葉は祈りだ。声に出して、言霊にして、そうなりますようにと願う。
その願いを捧げられた神は紅音の隣で薄く笑みを浮かべていた。そして千枝に手を差し伸べる。
「下の道まで送ろう」
「あら、ありがとう。助かるわ。ここの階段、上るのも下りるのももう辛くなっちゃって。裏から来ればいいのだけど、こっちのほうが近いから、つい、ね」
少し照れたように笑い、千枝は梛紗の手を取った。梛紗は許可を求めるのように紅音へ視線を向ける。
返事の代わりに、紅音は梛紗の竹箒を預かって頷いた。
「ぼ、僕も行きます」
歩き出した二人を追い、雪緒が駆け出す。梛紗と雪緒に支えられ、階段を下りていく千枝の後ろ姿に紅音はもう一度一礼する。箒二本を地面に寝かせ、両手を重ねて丁寧に。
「また、お待ちしております」
この縁の結い目が解けないことを祈って。
ゆっくり、ゆっくりと階段を下りていく。
足腰が弱っているから。けれどその一歩には踏みしめるような強さもあった。
「嫌ねぇ、子供の頃は駆け上がることだってできたのに」
「あぁ、知ってるさ」
囁くような梛紗の相槌。千枝はそれに気づかず、遅い足取りの恥ずかしさをごまかすように話を続けた。
「この階段を上るたびに思い出すの。お式を挙げた日のこと。色打掛を着たのよ。素敵な着物で嬉しかったけれど、礼装の草履は底が厚くて歩きにくくてねぇ。そうだわ、あの日もこうやって、あの人が手を引いてくれた……」
六十年前の花嫁が花婿に手を引かれて上った階段を今、神に導かれて下りている。千枝自身はもちろんそれを知らない。
けれど梛紗と雪緒は、この老女が幼い頃から何度もこの階段を行き来した時間を見てきた。境内で鬼ごっこをして転んで泣いた日のことも、産まれた息子をお宮参りに連れてきた日のことも覚えている。
千枝が夫となる青年に交際を申し込まれたのもこの場所だった。青年は弱気な自分と縁が切れますようにと祈ってから告白に臨んでいた。
階段を下りきって鳥居に一礼した千枝は梛紗に礼を言い、雪緒に「じゃあね、坊や」と声をかけて背を向ける。
早朝の住宅街。人通りはない。
梛紗が腕を振る。つうっと弧を描いた指先の、その軌道に沿って一振の刀が姿を顕す。
金沃懸地の鞘。それを鷲掴みにした梛紗が抜刀すると、朝日を浴びて刀身が光った。
一呼吸置くこともなく、千枝の背中の向かって打ち下ろされる刃。
すると細い老女の輪郭が一瞬歪み、その歪みはぷつぷつと生糸が切れるように解けて宙へ溶け消えた。千枝は歩みを止め、不思議そうに振り返る。その時にはもう梛紗は納刀し、太刀は消え去っていた。
笑ってひらひら手を振る梛紗に千枝は再度会釈をしてまた歩き出す。その足取りは先ほどに比べて幾分か軽くなっていた。
「病との縁、切ってやったぞ。――すぐにまた、纏わり付くだろうがな」
梛紗が切ったのはあくまで縁だ。病そのものを癒やすことはできない。病魔から発せられる気を一時的に取り除くことはできても、時間が経てばまた元通りになる。
それでも千枝はその縁が切られることを望んで祈った。梛紗はそれに応えただけだ。
懐から取り出した扇で自身を煽ぎながら、梛紗は伏し目がちに微笑んだ。
「とどむべき ものとはなしに はかなくも 散る花ごとに たぐふ心か――」
散りゆく花をこの世に留めておくことはできないけれど、その去り際を見るたびに惜しむ気持ちが湧いて出る。
儚い人間の生にも、また同じ。
遠い昔の歌人が詠んだ古歌を口ずさむ。斜め下から雪緒が物言いたげに見上げてくるのを感じ取り、梛紗は扇を閉じた。
「やるべきことはやった。俺たちが結ぶまでもないだろう」
遠ざかる千枝の背中。その細い肩に誰かが手を置いた。
紋付羽織に仙台平の袴。穏やかな顔をした青年が寄り添うように千枝の側に立ち、振り返って梛紗と雪緒に微笑みかける。
千枝と青年、二人の周囲を光る糸がくるくると渦巻く。そして青年の姿は朝霞に紛れて消えた。
「縁なんてのは放って置いても勝手に絡まり合うもんさ。当人たちが望んでいるなら、また後の世でも」
「それなら、梛紗様と紅音様は――」
何かを言いかけた雪緒の鼻先に閉じた扇を突きつけ、梛紗は口の端を上げた。
「合縁奇縁に腐れ縁、ってな。そういうこともある」
扇を懐に仕舞い、梛紗は踵を返した。
参道の階段を上る。堂々と真ん中を。
なんせ神様なのだから。




