呼んだその名は
「……何の真似かしら?」
「立てないんだろう? それをほうっておいて『それじゃおやすみ』と自分だけ引っ込むほど非情じゃないさ」
いわゆるお姫様抱っこである。至近距離で顔を突き合わせ、紅音は真正面から梛紗を睨み据えつつ冷ややかに訊ねたが、梛紗は梛紗でけろりと答えた。
「……まぁ、そういう乗り物だと思うことにするわ」
歩けないのは事実なので、このまま乗っておくことにする。すると梛紗は薄く微笑んで、軽く地面を蹴った。
たったそれだけで高々と宙に舞い上がる。紅音を抱えたままの梛紗は二階の窓辺に降り立つと、指をぱちんと鳴らした。
それに呼応し窓の鍵が開く。
「不法侵入……。常習犯の手口ね」
「緊急処置だぞ」
今朝――時間的には昨日の朝――少しだけ窓が開いていたのは雪緒が自分で開けたものと思っていたけれど、こういうことだったのだろう。
「開けたら閉めるということをセットで覚えてほしいものだわ」
もし雪緒が自分で出て行ったのだとしたら、あの子の性格なら窓はしっかり閉めていたはずだ。
「細かいことは気にしない性格でな」
しれっと答えて梛紗は室内に踏み入る。土足を叱ろうと思ったが、梛紗の履き物はカーペットに触れる前に光の粒となって消えた。
紅音をベッドに座らせ、自らは跪き、草履を丁寧に脱がせてくれる様はいかにも紳士的である。
「ありがとう、梛紗」
そう告げると、彼は驚いたように顔を上げた。それを冷ややかに見下ろしたまま、紅音は肩をそびやかす。
「助けられたのは事実だもの。礼を言わないのは流儀に反するわ。それに、借りは作りたくないし。この報酬は、そうね。敷金礼金はなしにしてあげる」
「そりゃ、ありがたい」
顔をくしゃりと歪ませて梛紗は笑った。泣いているようにも見えたのは、きっと部屋が暗いせいだろう。灯りはついていない。
「草履、玄関に置いておくからな」
「ええ、ありがとう」
紅音の草履を持って部屋を出て行く梛紗に、もう一度礼を言う。すると彼は振り返らないまま訊ねた。
「……なぁ、もう一度名前を呼んでくれないか」
「いいわよ。一回百円ね」
「金取んのかよ。じゃあいいや」
ははっと笑って今度こそ彼は出て行った。扉もしっかりと閉めて。
紅音はその扉をじっと見つめる。電気も点けない暗い部屋で、拳を強く握る音だけが微かに響いた。
小一時間経ち、紅音の部屋の前に戻ってきた梛紗は、静かに中の様子を窺った。
起きている気配はない。そっと扉に手をかけると、すんなり開いた。鍵をかけるのを忘れた、というより鍵は何の意味もなさないことを知ったために、あえて閉めなかったのだろう。
思った通り、紅音は眠っていた。巫女装束から寝間着に着替えてベッドの上で布団を被っている。
寝息も静かだ。しかし、その眉間には皺が寄っていて、夢見の悪さを物語っていた。
夢に干渉し、気を逸らしてやることはできる。契約を結んだ時のように。
けれど、それは彼女の眠り妨げることになる。人の身は寝て、夢を見て、心身の疲労を癒やすのだ。それがたとえ悪夢であろうと。
「お前は今、どんな夢を見ている?」
囁くように問う。もちろん答えは返ってこない。代わりに微かな呻き声が彼女の喉奥から響いた。手のひらに爪が食い込むほど拳を強く握り、額にじっとりと汗が滲む。
たまらず梛紗はベッド脇に膝をつき、その手を包むように自身の手を重ねた。眠りが深いのか、それでも紅音は目を覚まさない。
「紅音、おい、紅音」
握った手を軽く揺すって呼ぶ。いつもよりうなされ方がひどい。返り討ちにしたとはいえ、襲撃を受けたことで悪夢が増幅しているのかもしれない。
そう思うとやるせなくて、食いしばった歯が軋む音を立てた。
「……紫野」
堪えきれずに漏れ出た声。すると強張っていた紅音の体から、ふっと力が抜けた。
つい口走ってしまった名に梛紗自身、はっとする。しかし穏やかな寝息を立てる紅音の眉間から皺が消えているのを見て、安堵したと同時に苦しくなった。
起きている時にこの名を呼んだら、彼女はどんな顔をするのだろう。
笑ってくれるだろうか。かつてのように。
夢想したが、すぐにその考えは捨てた。
そんなわけがない。彼女は覚えていない。覚えていたとして、きっと憎しみの目を向けられる。
握っていた手をそっと離し、立ち上がった。そしてそのまま部屋を出る。
遠い昔のこと。紅音がまだ紅音ではなかった頃のこと。
「殺したんだ……俺が、お前を」
薄闇の中、懐に手を当ててつぶやく。
かさり、と古く乾いた紙がその胸元で音を立てた。
目覚ましのアラームが鳴る三分前に目が覚める。
いつものように悪夢を見ていた。何度見ても慣れない悪夢を。
けれど今日の寝覚めは悪くない。
夢の中で誰かの声が聞こえた。その後は夢さえも見ないほど深く眠っていたようで、いつもより体が軽い。
その声の主は――と紅音が思い馳せたところで、アラームが無機質な電子音で思考を妨げた。
はっとしてベッドから出ると手早く身支度を整える。
何の変哲もない、いつも通りの朝だ。日課はこなさなければならない。
巫女装束に身を包み、二階の洗面台で髪もきちんと整えて階下へ下りる。すると、同じくすでに着替えを終えた雪緒と階段下で出くわした。
「おはようございます、紅音さ……お姉ちゃん」
「ええ、おはよう」
まだ振る舞い方に慣れない様子の雪緒に挨拶を返し、紅音は片眉を跳ね上げた。
「梛紗は?」
「あ、あの、梛紗様は……」
「梛紗のことも様付けで呼ぶのはやめなさい。兄弟としてここにいるのだから」
「は、はい。ええっと、梛紗……お兄ちゃんは、その……」
歯切れ悪く、雪緒はちらりと視線を動かした。その先には彼らに宛がった寝室がある。
それだけですべて理解した紅音は足早に廊下を抜けると、雪緒が制止する間もなくスターン! と勢い良く引き戸を開け放った。
部屋の真ん中に敷かれた布団。掛け布団が丸くこんもりと膨らんでいて、その下からすよすよと寝息が漏れ聞こえる。
「うーん、あと五分……」
起こされる気配を察知したのか、小学生のような寝言をむにゃむにゃ言う布団の塊。紅音は躊躇うことなく室内に踏み入ると、その掛け布団をまるでペットボトルのラベルが如く容赦なく引きはがした。
「いやぁん!!」
乙女のような悲鳴が上がる。その声を発したのは、ふかふかの布団の中から出てきたもふもふ――人間サイズの巨大な白いうさぎだった。




