紅音の弱点
俯いて黙っていた涼大が、ふいに小さく笑い声を上げる。
「縁切り神社の呪い巫女なら、すんなり別れさせてくれたっていいのに」
「わたし自ら名乗ったわけではありませんので、あしからず」
「知ってるよ。中学ん時、お前に言い寄ってたサッカー部のエースいたろ。俺、同じクラスだったからよく知ってる。あいつ、ふざけてクラスの陰キャを後ろから突き飛ばそうとして、そいつが気づいて避けたもんだから自分が階段から転がり落ちたんだ。それを呪いのせいだって騒いでて、馬鹿じゃねぇのって思ってたよ」
涼大は同じ中学の先輩だと光都が言っていた。紅音は彼の存在など一切知らなかったが、あちらは違う。菜々花を追いかけて教室に入ってきた時には、さも見知らぬ風を装っていたが、これも偽りだと紅音は察していた。
紅音の傍にいた光都に対し、彼はこう言ったのだ。お前『も』このクラスの新入生だったのか、と。
並列の意味を持つ副助詞である。涼大は光都がいることを今日はじめて知った。ではもうひとり、彼が知る新入生がいなければその言葉は成り立たない。
「菜々花はああいう性格だから、俺から別れようなんて言って納得するわけない。留学に行ったって一年したら戻ってくる。だから友達に頼んで、画像をRINGで回して貰ったんだ。俺のスマホでやると菜々花が毎日強引にチェックしてくるから、できなくて」
「そのお友達は女性ですか?」
紅音の問いに、涼大は答えなかったが否定の素振りも見せなかった。
つまりは、そういうことだ。
彼から別れを告げ、すでに心変わりしているとわかれば、山川菜々花は激高してその友達とやらを特定し攻撃することだろう。新たな恋を守るための生贄が必要だったのだ。
「……練習試合で知り合った他校のマネージャーだから、そう簡単に特定できないと思うけどな。――あとは」
伏せていた顔を上げた涼大はおもむろに鞄を投げ捨てた。その手に残っていたのはハンマー。両口がプラスチックで出来ている、打撃音が抑えられるショックレスハンマーと呼ばれるものだ。
一気に距離を詰めてきた涼大はまるでバレーのスパイクがごとく力強くハンマーを打ち下ろす。狙いは――紅音の手の中にあるスマホだ。
叩きつけられる直前、紅音はスマホから手を離した。両手が自由になるよう、放課後わざわざ買ってきたショルダーストラップでぶら下がったスマホをそのままに、振り下ろされた涼大の手を取って関節を固める。
「ぁがっ!?」
「あら、一応スポーツ選手ですので怪我をしないよう配慮したつもりなのですが」
「な、なんで……!?」
「少々心得がありまして」
いかにも運動は苦手といった風貌の紅音の鮮やかな反撃に涼大は驚愕した。だが、すぐに歯を食いしばって身をよじる。自由な左手をスウェットパンツのポケットに入れ、何かを取り出した。
いくら優位な体勢に持ち込んだとはいえ腕力では及ばない。暴れられては面倒だ。紅音はその手も抑えようとして――動きを止める。
涼大の手の中でチキチキと音を立ててカッターの刃が繰り出された。紅音の首からぶら下がるスマホの液晶の光を受けて青白く光る。
刃はショルダーストラップを捉えた。切って奪い去るつもりだろう。しかし体勢が不自由なためか、大きくぶれた刃先は紅音の頬を掠め――火花を散らし、まるで鈴を鳴らしたような硬質な音が響いた。
「こいつぁ夜更けに賑やかなことだなぁ。俺もいっちょ混ぜてくれ」
白い狩衣の袖が風をはらんで靡く。
「いやいや、しかしこれ以上騒ぐと父君や母君の眠りを妨げてしまうな」
月の明かりのない夜に、それでも尚、仄かに発光するかのような白が紅音の眼前に広がる。
「というわけで、消えてくれるか?」
そう言って、梛紗は抜き身の太刀の切っ先を涼大の鼻先へ突きつけた。
カッターを弾かれた衝撃で尻餅をついたのか、あるいは梛紗に蹴り倒されのか、玉砂利の上に尻と両手をついた涼大は唖然として、突如現れた奇怪な美青年を見上げる。それから自身に向けられているものに視線を寄せて顔を強張らせたが、口の端が引き攣るように笑みの形を作った。
「そ、そんなの模造刀か何かだろ?」
ここは神社だ。梛紗の姿は神職のようにも見える。梛紗を卯山神社の関係者と思ったのであろう涼大が強がるような態度を取った。その瞬間、ひゅっと風を鳴らして太刀が真横に振られる。身を強張らせた涼大の影が揺らめいて、光の粒が散った。
涼大の前髪がはらりと落ちる。少し目に掛かる程度だった毛先が眉よりずっと上で綺麗な横一文字を描いていた。
「へ?」
呆けた声を漏らし、涼大はぺたぺたと両手で自身の額を撫でた。
数秒、そうしていただろう。やがて失われたものに気づくと玉砂利の上をざりざりと尻で這いながら後退していき――ぱっと弾かれるように立ち上がって自身の鞄とスマホを拾い、一目散に駆け去っていった。
「縁切りなら得意なんだ。切ってやったぞ。悪縁も良縁もまとめてだがな」
暗闇に消えゆく涼大の背中に嘲笑めいた言葉を投げかけて、梛紗はゆっくりと振り返った。
「ずいぶんと無茶をするじゃないか」
その視線の先には、脱力するように座り込んだ紅音がいた。
「こういうことはひとりで解決しようとするもんじゃないぞ」
「わたしが売られた喧嘩よ。わたしが処理するのが当然でしょう?」
「しかしな――」
むすっと俯いたまま口答えする紅音に、抜き身の太刀を持ったまま梛紗が歩み寄ろうとした。その瞬間、紅音は片手で顔を庇いながら仰け反る。その身は微かに震えていた。
「……こいつが怖いのか?」
「高い所や暗い場所とか、どうしても我慢ならないくらい嫌いなものなんて誰にだってあるのよ」
刺々しく答えた紅音は顔を伏せたままだ。だから彼女は、刹那に浮かんだ梛紗の痛ましそうな表情を見ることはなかった。
高継紅音のただひとつの弱み。
それが刃物恐怖症である。
包丁も使えない。触ることもできない。だから料理はほとんどできない。鋏やカミソリは安全ガードがついているものならぎりぎり使えるが調理鋏は不可だ。調理実習や課外活動で料理をしなければいけない時は、光都が同じ班であれば彼女をおだてて代わってもらうし、その手が使えない場合は仮病で休む。カッターナイフや、ましてや刀などもっての外だ。
これは生まれ持ったものだから、どうしようもない。
梛紗は無言のまま、片手に持っていた鞘へ納刀する。キン、と硬質な音が響き、太刀は拵もろとも金色の砂塵となって消えた。
しばし、互いに無言だった。さやさやと風の音が沈黙の間を縫う。
それからおもむろに紅音へと歩み寄った梛紗は、彼女をひょいっと抱き上げた。




